主日礼拝説教「キリストのうしろから」 日本基督教団藤沢教会 2006年3月19日 1 ヤコブの家よ、これを聞け。 ユダの水に源を発し イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。 まこともなく、恵みの業をすることもないのに 主の名をもって誓い イスラエルの神の名を唱える者よ。 2 聖なる都に属する者と称され その御名を万軍の主と呼ぶイスラエルの神に 依りすがる者よ。 3 初めからのことをわたしは既に告げてきた。 わたしの口から出た事をわたしは知らせた。 突如、わたしは事を起こし、それは実現した。 4 お前が頑固で、鉄の首筋をもち 青銅の額をもつことを知っているから 5 わたしはお前に昔から知らせ 事が起こる前に告げておいた。 これらのことを起こしたのは、わたしの偶像だ これを命じたのは、わたしの木像と鋳像だと お前に言わせないためだ。 6 お前の聞いていたこと、そのすべての事を見よ。 自分でもそれを告げうるではないか。 これから起こる新しいことを知らせよう 隠されていたこと、お前の知らぬことを。 7 それは今、創造された。 昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。 それをお前に聞かせたことはない。 見よ、わたしは知っていたと お前に言わせないためだ。 8 お前は聞いたこともなく、知ってもおらず 耳も開かれたことはなかった。 お前は裏切りを重ねる者 生まれたときから背く者と呼ばれていることを わたしは知っていたから。 (イザヤ書 48章1〜8節) 8:27イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」30するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。31それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」9:1また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 (マルコによる福音書 8章27節〜9章1節) 悔い改め 主イエスの十字架への道行きを辿る受難節に、私たちは、深い悔い改めの祈りへと導き入れられます。主イエスの受難の歩みに触れるごとに、これまでの生き方、あり方を問われ、罪の深さを自覚させられ、それゆえに、新たにされることを祈り願うようにされるのです。 私たちがこの期節に導かれるこの悔い改めの営みは、ただ各個人の内面でなされ、一人一人の信仰が更新されるというだけのものではありません。教会、つまり私たちの交わりもまた、この期節に、悔い改めへと導かれるのです。主の十字架への道行きに導かれて、私たちは、私たちの交わりである教会の、これまでの歩みを問われ、あり方を問われます。キリストを信じ、キリストに従う者の群れである教会が、それにふさわしい歩みをしてきたのか、ふさわしい交わりとして生きてきたのか。私たちは、この期節に、深い悔い改めのうちにこのことを共に問い、祈り、新たにされることを求め、教会の営みを為して行きたいと思います。 「あなたはメシアです」 マタイ、マルコ、ルカの各福音書は、主イエスがご自身の十字架に至る受難の道行きを、はじめて弟子たちに予告なさった出来事を、共通に伝えています。この物語は、受難節の期節を歩む私たち教会に、また教会に連なる一人一人に、生き方を問い、あり方を問いかけてくる物語のようです。 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスはお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」(27~29節) ペトロの信仰告白といわれる場面です。マタイ福音書によれば、ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、それに対して主イエスが、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と告げてくださったという場面です(マタ16:16~18)。 私たちの教会は、礼拝の中で「使徒信条」という信仰告白文を共に唱え、告白しています。信者の人も、そうでない未信者の人も、共に唱えます。そこに語られていることの意味を十分に理解している人も、そうでない人も、共に唱えて告白するのです。 もちろん、ときには、特に未信者の人で、「礼拝中、使徒信条は一緒に声を出して唱えられない」と言われる場合もあります。それは当然かも知れません。「使徒信条」や、これを含む「日本基督教団信仰告白」のような信仰告白文は、たいていの場合、洗礼を受けることを志願したとき、洗礼式に向けて詳しく教えられるものだからです。洗礼を受けていなければ、「使徒信条」のような信仰告白文を共に唱えることは意味がない、と思われても当然です。けれども、敢えて言うならば、私たちが、信者の人だけでなく未信者の人も含む礼拝で「使徒信条」を唱えるのは、これによって、私たち一人一人が、主イエスとあらためて出会い直そうとしているからなのです。これによって、未信者の人にも、主イエスと出会っていただきたいと願っているからなのです。 私たちの礼拝は、すべて、主イエス・キリストと出会い、それによって真の神と出会うことを目的としています。キリストとの出会い方は、人それぞれ、さまざまですから、礼拝の中にも、さまざまな項目があります。信仰告白文を唱えるときにも、私たちは、一つのキリストとの出会い方を考えているのです。 私たちは「使徒信条」によって信仰告白をします。それは、ペトロのものよりは複雑な言葉かもしれません。しかし、ペトロが応えたときと同じように、信仰告白が口にされるのに先立って、そこには主イエスの問われる言葉があるのです。 「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか。」 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 主イエスが弟子たちに語られたこの問いかけの言葉を、私たちもまた聞き、それに応えて信仰告白を語るのです。それは、主イエスとの新しい出会い、新しい関係の始まりです。ペトロら弟子たちのように、私たちもまた、そこから、主イエスとの祝福された関係が始まります。しかしそれはまた、弟子たち同様、本当に深い躓き、破れを経験する関係の始まりでもあるのです。 「サタン、引き下がれ」 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(31~33節) 私たちの信仰の歩みは、洗礼を受けるまでにも、もちろん多くの紆余曲折を経験するものですが、キリストとの出会いを確かめて洗礼を受けた後にもまた、多くの曲折を体験するものです。しかも、洗礼を受けた後に経験する曲折のほうが、場合によっては深刻なこともあるのです。洗礼を受けてから悩んだり躓いたりするくらいなら、もっとしっかり聖書を読み、教理を学んでから洗礼を受ければ良かった、などと思ったりするほど、信仰が大きく揺らぐ経験をいたします。しかし、福音書が描き伝える弟子たちの歩みを知るならば、私たちが、主イエスと出会い、洗礼を受けた後に、深く悩んだり、躓いたりして、信仰が揺らぐということは、ある意味で当然通らなければならない過程であると言えるかも知れません。 ペトロは、せっかく、「あなたはメシアです」という信仰告白を語り、主イエスとの新しい関係の段階に入っていったのに、主がご自分の受難を予告されたとき、躓き、失敗したと、物語られます。多くの苦しみを受け、人々から排斥されて殺されるという道に進んで行かれようとする主イエスの前に、立ちはだかろうとしたのです。ところが、主イエスは振り返って、つまりペトロに背を向けて、「サタン、引き下がれ」=「サタン、わたしの後ろへ行け」と叱られたのでした。 このペトロの躓きが物語られていることを、私たちは、この期節に特に深く心に留めて、悔い改めに導かれたいと思うのです。 私たちは、信仰者としての歩みをすでにしてきています。少なくとも、「使徒信条」を共に唱えることによって、「自分は主イエスを何者と言うのか」ということを問われ、それによって主イエスと出会う者にされて、ここにいます。そのような私たちが、もっとも陥りやすい躓きが、このペトロの姿として描かれていることではないでしょうか。私たちは、キリストの前に立ちはだかろうとするのです。キリストの行かれるところに従っていくことを拒んで、自分の進んでいく方向を決める決定権を、自分が持っていられるようにと振る舞うのです。 そのように振る舞う私たちに対して、主イエスは、「わたしの後ろへ行け」と告げられます。キリストの行かれるところを立ちふさがないのです。キリストの行かれるところを、その後ろから見つめて、ついて行くのです。そのとき、私たちは、人間のことを思うのではなく、神のこと、神のお働き、神の恵みを思う歩みに導かれているのです。 自分を捨て、自分の十字架を背負って それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。…」 信仰告白に至った弟子たちだけでなく、群衆をも共に呼び寄せて主イエスが語られたこの御言葉を、私たちは皆、深く味わい、心に留めたいと思います。 「わたしの後ろから従い、わたしの歩みを見よ、十字架に至る姿を見よ」と告げられる主イエスは、私たちに何を見せてくださろうとしているのでしょうか。私たちがそこから何を学び取ることを、主は期待していられるのでしょうか。 深く心開いて、目を向けるならば、主イエスは私たちに、自分を捨て、神から与えられる十字架を背負っていくときにだけ知ることになる信仰の世界を示してくださいます。神のお働きくださることに心から信頼し、それゆえに神が働きかけてくださる他者隣人をも信頼し、神の豊かな恵みを証しする言葉を与えられる、信仰の世界です。すでに、私たちは、主イエスによって何度もその世界を見せて頂いてきたのです。今また、私たちは、新たな思いで、深い悔い改めのうちに、主の後ろから従い、主の歩みに目を向け、主が開いてくださる世界に共に導かれ、共に生き、共に神の恵みを証しする群れとして整えられたいと思います。 祈り 主なる神。主と出会い、十字架のご受難に向かわれる主の後ろに従い、そのお姿に目を注ぎ続けることができますように。私どもの生き方が、人間のことではなく神のことだけを思う、真に幸いなものへと全く変えられますように。アーメン
|
---|