主日礼拝説教「キリストの杯」 日本基督教団藤沢教会 2006年4月2日 18 わたしは言う 「わたしの生きる力は絶えた ただ主を待ち望もう」と。 19 苦汁と欠乏の中で 貧しくさすらったときのことを 20 決して忘れず、覚えているからこそ わたしの魂は沈み込んでいても 21 再び心を励まし、なお待ち望む。 22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。 23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。 24 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。 25 主に望みをおき尋ね求める魂に 主は幸いをお与えになる。 26 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。 27 若いときに軛を負った人は、幸いを得る。 28 軛を負わされたなら 黙して、独り座っているがよい。 29 塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。 30 打つ者に頬を向けよ 十分に懲らしめを味わえ。 31 主は、決して あなたをいつまでも捨て置かれはしない。 32 主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる。 33 人の子らを苦しめ悩ますことがあっても それが御心なのではない。 (哀歌 3章18〜33節) 32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」 35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 (マルコによる福音書 10章32〜45節) 主イエスの十字架への道行きを辿りながら、祈りのうちに受難節の期節を過ごしています。主イエスは、ガリラヤ地方からエルサレムに向かわれ、十字架の上へと進み行かれます。そして、その先には、三日目の主のご復活のとき、私たちにとっては、イースターの喜びの祝いのときが待っています。 受難節の祈りの期節に、私たちは、十字架と復活を記念するときを目指して、そこに向かって歩んでいます。教会が二千年の歴史の間に造り上げてきた習慣は、確かに、私たちをそのように歩ませます。しかしながら、私たちは、ただ、十字架と復活の記念日、イースターという祝いの祭に向かっているだけなのでしょうか。来るべき祝いの祭のために、受難節の四十日を過ごしているのでしょうか。 「主イエスは先頭に立って進んで行かれた」 一行がエルサレムへ上っていく途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。(マコ10:32) 主イエスと弟子たちの一行は、エルサレムへ向かわれたと、福音書は物語ります。エルサレムこそ、主イエスが十字架に架けられて死なれて、三日目に復活されたところです。そこに、主イエスと弟子たちの一行は向かわれました。毎年、受難節を過ごし、イースターを迎える私たちには、当たり前すぎる事実です。ところが、福音書は、エルサレムに向かわれているという当たり前のことに触れたところで、このとき弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたのだと語り出すのです。 彼らは、なぜ驚き、恐れたのでしょうか。エルサレムで主イエスが迫害されると教えられていたから驚き、恐れたのでしょうか。福音書はそのようには物語りません。主イエスが一行の先頭に立って進んで行かれたのを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた、というのです。この時代、弟子を連れた教師(ラビ)の一行が、教師を先頭にして歩く姿は、ごく一般的なものだったと言われます。主イエスは、弟子たちと共に歩むとき、先頭に立って進んで行かれることは、普段あまりなかったのでしょうか。弟子たちは、このときに限って自分たちの前、先頭に立って進んで行かれる主イエスの姿を見て、驚き、恐れたというのです。 普段あまりリーダーシップを発揮しないような人が、思いがけずリーダー的な振る舞いをして、その場を仕切ったりすると、私たちは驚かされることがあります。自分が今まで慣れ親しんできた場で、普段は仕切らないような人が、突然、今までとは違う方法で仕切りだしたりしたら、私たちは、驚くばかりか、腹を立てることさえあるかも知れません。おかしな想像かも知れませんが、今、突然、はっきりと見える姿で主イエス・キリストがこの場にお出でになられて、この礼拝を導かれたり、教会の向かう方向を先頭立ってお示しになられたりしたら、どうでしょうか。私たちは、今でも、見えない形ではあっても、主イエス・キリストがここに共にいてくださると信じていますし、主に導かれて礼拝をささげ、主の向かわれるところに従って行っているつもりでいます。けれども、もしかしたら、私たちは、普段、あまりはっきりとしたお姿で主イエスが現れて見えないものだから、主イエスが先頭に立って私たちを導かれるとの真剣に考えなくなってしまってはいないでしょうか。いつのまにか、自分たちの都合の良いようにばかり歩んでしまっているのではないでしょうか。ですから、本当にはっきりとキリストのリーダーシップが示されたときには、驚き、恐れ、尻込みしたり、かえって反発したりすることになるのではないかと、私などは強く思うのです。 十字架へと向かわれる主イエスに従って行く受難節の歩みを、私たちは、勝手気ままに進めてきすぎたかも知れません。あらためて、この期節に、主が先立って行かれ、私たちを導き向かわせようとしていられるところへ、深く思いをいたしたいと思います。 私たちの願っていること ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(10:35~37) この二人の願っていることを、多くの説教者は、世俗的な権力への欲求だと説明します。二人は、主イエスがご自分の死と復活を予告された言葉を聴いたばかりだというのに、全く見当違いの、的外れの願いをしている、というのです。そのように理解しても良いのでしょう。私たちは、信仰者として歩み出してからも、この世の地位や名誉を求める思いから完全に自由になったわけではありません。場合によっては、教会の中にさえ、そういったことは入り込んでくるものです。 ところが、ある説教者は、この二人の願っていることは、必ずしも、そのように非難されなければならないことではないのではないか、と言います。二人は、主イエスの十字架の死と、その後の復活の命を良く理解して、そのキリストの復活の命に近くであずからせてほしいと願っているのではないか。そうだとすれば、それは信仰的な願いであって、決してこの世的な願いではない、というのです。確かに、主イエスは二人の願い自体を否定されてはいないようです。ただ、二人は自分が願っていることの意味を、本当には分かってはいない、というのです。 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」(10:38~39) 私たちは、信仰者として、いったい何を願っている者でしょうか。主に従って行くことによって、何者になることを願っているのでしょうか。いかにも信仰者らしく、「私は主の十字架の贖いによって復活の命に共にあずかることを願っている」などと語れるかもしれません。しかし、だからといって、その言葉によって願っていることの本当のところの意味を分かっていると言えるのでしょうか。 私たちは、主が受けられた洗礼を受けました。そして、洗礼を受けたときから、聖餐にあずかり続けてきたように、主が飲まれた杯を飲み続けてきたのです。これから洗礼を受けられる方も、洗礼を受けたときから、主が飲まれた杯を飲み続ける生き方が始まるのです。私たちは、キリストの杯を飲み続ける信仰者として、キリストと共に何者になることを願っているのかを、ただ私たちに先立ち行かれるキリストご自身にお教えいただくしかありません。 《サーバント・リーダー》 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10:42~45) 洗礼を受けてキリスト者になることは、不自由なことだと考える人がいます。キリスト者は、自分を殺して、型にはまった生活や振る舞いに小さく閉じこもっていなければならないと思われているからです。確かに、クリスチャン家庭できちんと育った子供は、向上心や上昇志向に欠けるところがある、と言われたりします。ところが、主イエスは、人が偉くなりたいという思いや、いちばん上になりたいという思い、それ自体を否定されてはいません。むしろ、本当の意味で偉く(=大きく)なるとかいちばん上になるというのは、どういうことなのか、それは、皆に仕える者になること、すべての人の僕になることだと言われるのです。 サーバント・リーダーシップという考え方があります。会社組織などで、上司が上から権力を振るって部下を動かすのではなく、上司の方が下から仕えるようにして部下を支えて良い働きを引き出すというリーダーシップの考え方です。もともとは、ここにあるキリストの教えに基づいて修道院などで実践されてきた考え方だと言われます。確かに、このキリストの教えは、キリスト者として何らかの組織団体の中で働く者にとって、大切な考え方を示していると言えます。 けれども、そうだとしても、「自分はリーダーになろうと思ったり、上に立とうと思ったりしていない」とお考えの方も、このキリストの教えを聞き流さないでいただきたいと思います。主イエスは、私たち皆が主の受けられた洗礼を受けることを期待していられ、主の飲まれた杯を飲み続けることを期待していられるからです。私たちの先頭に立って真のリーダーとして進み導いてくださる主イエスは、従う私たち皆を、ご自身と同じ真のリーダーの生き方、小さく仕えられるのではなく大きく仕える生き方へと、導いてくださろうとしていられるからです。 受難節です。主は十字架に向かわれます。私たちは、十字架に向かわれる主の杯に共にあずかります。自分の命を献げるほどの献身をもって神に仕え、私たちにも仕えてくださる主イエス・キリストに、私たちは、出会い直すのです。 祈り 主なる神。先立ち導いてくださる主の杯にあずからせてください。仕えてくださる主と共に、互いに仕え合う喜びに生きる者とならせてください。アーメン
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