棕櫚の主日礼拝説教明け渡す

日本基督教団藤沢教会 200649

9 娘シオンよ、大いに踊れ。

 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

 見よ、あなたの王が来る。

 彼は神に従い、勝利を与えられた者

 高ぶることなく、ろばに乗って来る

 雌ろばの子であるろばに乗って。

10 わたしはエフライムから戦車を

 エルサレムから軍馬を絶つ。

 戦いの弓は絶たれ

 諸国の民に平和が告げられる。

 彼の支配は海から海へ

 大河から地の果てにまで及ぶ。      (ゼカリヤ書 9910節)

 

1一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、2言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。3もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」4二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。5すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。6二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。7二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。9そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ホサナ。

 主の名によって来られる方に、

   祝福があるように。

10我らの父ダビデの来るべき国に、

   祝福があるように。

 いと高きところにホサナ。」

11こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。 (マルコによる福音書 11111節)

 

棕梠の主日

《棕梠の主日=枝の主日、受難の主日、聖枝祭》は、主イエスのエルサレム入城を記念する主日です。受難節の最後の週、いわゆる受難週の始まりの日。古い記録によると、受難週を大切に守り始めた古代教会の人々は、十字架に架けられる主イエスが人々に迎えられてエルサレムに入城されたことを、シュロ(≒なつめやし)の葉をかざして行進することで記念するようになったのです。その習慣は、現代に至るまで多くの教派教会で受け継がれています。たとえば、この日の礼拝の冒頭で、会衆一同、シュロの葉をかざして聖堂へと入堂行進する、というような習慣が多くの教派教会で、今日でも行われています。

受難節の歩みの中で、この日の礼拝は、どこか異色です。華美を避けるために礼拝堂の装飾が極力はずされてきたのが受難節ですが、この日ばかりは、青々としたシュロの葉が礼拝堂にあふれるのです。この日のために作られた賛美は、王を迎える歓呼に満ちた祝祭の賛美です。まるで、これから起こる十字架の暗さを知らないかのように、あるいは、むしろ、これから起こる十字架の暗さを強調するためであるかのようにして、《棕梠の主日》は祝われてきました。

 

主イエスを迎え入れる

主イエスがエルサレムに入られたとき、多くの人々が自分の服を道に敷き、他の人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷(8)き、皆が歓呼の歌のうちに主イエスを歓迎したと各福音書は伝えます。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(9~10)

この詩編118:25~26などから取られた言葉によって、人々は、主イエスを自分たちの聖なる都エルサレムに迎え入れました。ダビデ王が都として定めて以来、自分たちユダヤ人の心の拠り所であり続けた都に、自分たちの王として、主イエスを迎え入れたのです。しかも、軍馬に乗り多くの兵士と捕虜を引き連れた力ある王としてではなく、子ろばに乗り、ただ弟子たちを引き連れているだけの、権威も権力もない、何の見るべきところもない一人の人、それどころか、間もなく政治犯として十字架に架けられてしまうことになる男を、迎え入れたのです。

事実、どれだけの人々がこの歓迎のパレードに参加したのかは分かりません。けれども、初代教会は、この出来事を大切に語り伝えました。自分たちが主イエスを信じ、迎え入れるとは、どういうことなのか。それは、十字架の受難へと向かわれる方をこそ、自分たちの王として迎え入れること、その真の力を認め、そのご支配に服することなのだと、この物語は、はっきりと告げるのです。

讃美歌83番「せいなるかな」は、古くからの伝統でミサ(礼拝)の最も重要な聖餐の部分で歌われる「サンクトゥス」という曲の一つです。曲はさまざまに付けられてきましたが、その歌詞は長い間変えられずに用いられてきました。イザヤ6:3黙示録4:8から取られた「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな…」という言葉と、エルサレムに主イエスを迎え入れた人々が叫んだ歓呼の言葉(9~10)とに基づく歌詞です。この曲が歌われるとき、聖餐のパンとぶどう酒を聖別する典礼文が読まれ、俗にいう聖変化が起こると考えられてきました。そのようにして、ご自分の体を差し出され、血しおを流された主イエス・キリストを、パンとぶどう酒として迎え入れることを言い表してきたのです。

キリストに明け渡す

主イエス・キリストを子ろばに乗った王として迎え入れる。私たちは、このことの意味を、受難週の初めに、もう一度深く思い巡らしたいと思います。

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐにお返しになります』と言いなさい。」…(1~7)

ここに、主イエスがエルサレム入城のために用いられた子ろばが登場する小さな挿話が物語られています。「ちいろば牧師」の呼び名で知られる故榎本保郎牧師が、自らを「ちいろば」と呼ぶにいたった物語です。この子ろばの物語を自分の信仰者としてのアイデンティティとされて、「エルサレムに入城するイエスさまを乗せた、小さな子ろばのようになりたい。〈主の用なり〉と言われたら、たとえ自分に力が無くとも、どこへでも出かけて行こう」と語られたのです。

素朴でのどかな風景の中に進んでいるかのように思える物語ですが、しかし、これは、明らかに、主イエスが王として子ろばを徴用された出来事として語られています。私たちが主イエスを王として迎えるということは、まさに、この子ろばのように、いつ何時、主のご用のために徴用されるか分からない者として生きるということ、また、「主がお入り用なのです」と告げられたときには、それに従う者として生きるということです。

私たちは、この子ろばのように、主に用いられるための備えをしていると言えるでしょうか。この自分が、主によって用いられるときが来るのです。しかも、自分の人生を突然中断させられて、奪い取られるようにして、主に用いられるのです。そのような備え、主に自分の人生を明け渡す備えを、私たちは、果たして出来ていると言えるでしょうか。

私たちは、うっかりすると、主イエスが、あるいは神が、このような乱暴な仕方で私たちを用いられるはずがない、と考えてしまいます。神は、私たちが自分の人生を思うがままに生きることを、はるか彼方で温かく見守っていてくださっているような方なのであって、私たちの人生に介入してこられたり、干渉してこられたりはしない、と私たちは思いたいのです。少なくとも、自分は、神に用いられるほどの器ではないし、何の役にも立たないのだから、「主がお入り用なのです」と呼びかけられても断るべきだ、などと言い訳をしてしまうのです。

けれども、主は、そのような私たちをも用いられるということを、私たちは知るのです。主イエスが用いられたのは、まだだれも乗ったことのない子ろばでした。まだ調教されていない、十分に訓練されていない、役に立つのかどうかも分からない子ろばです。そのような子ろばに目を留められて、用いてくださって、ご自身のご計画の中に招き入れてくださる。それが、私たちの迎え入れるべき、子ろばに乗った王、主イエス・キリストなのです。

主はすべてを明け渡された

主イエスは、ユダヤの人々の心の拠り所、譲れない自分たちの思いの中心であるエルサレムに迎え入れられたと、福音書は物語ります。

私たちは、自分自身の保ってきた心の拠り所、他人には譲れない自分の思いの中に、主イエス・キリストを迎え入れているでしょうか。借家を明け渡すときのように、自分の心の深いところに詰め込んできた自分の思いを片づけて、キリストを迎え入れることができているでしょうか。自分は自分のものである、自分は自分自身に支配される、と考えてきた今までの考えをやめて、これまで自分自身のものであると思ってきた自分を主に差し出して、自分で占めていた自分を支配する地位をキリストに明け渡して、王である方を迎え入れてきたでしょうか。

棕梠の主日から始まる受難週に、私たちは、この物語を深く心に留めて、もう一度、自分自身、深く見つめ、問い直したいと思います。子ろばに乗って来られる方を、自分は、本当に迎え入れているのだろうかと、問い直したいと思います。

「主がお入り用なのです」。私たちは、自分の入り用かどうか、必要かどうか、自分に役に立つかどうか、という基準で物事を判断しがちです。しかし、主がお入り用かどうか、キリストが必要とされているかどうか、と問うことを、まずおぼえたいと思います。

「すぐここにお返しになります」。私たちが、キリストを王として迎えるのは、この王によって、この世的な力を得るためではありません。私たちが迎える王は、子ろばに乗った王です。しかも、その子ろばさえ、すぐに手放されるような王です。何の力も示されない。何者にも頼らない。頼る必要もない。ただ、ご自身、神にすべてを明け渡されて、まったき神への信頼をもって生き抜かれた。そのような王です。私たちは、そのような王のもとに生きる者となるために、そのような王にふさわしい者となるために、主を迎え入れるのです。

受難週。私たちの、主イエスを王として迎え入れようとする営みは、きっと躓くでしょう。弟子たちのように、主イエスを歓迎した多くの人々と同じように、私たちは、きっとうまくキリストを迎え入れられないで、躓くのです。けれども、それでも、主イエスを迎え入れましょう。歓呼の歌をもって、王として子ろばに乗った方を迎え入れましょう。私たちが躓いても、主ご自身が、私たちをふさわしい者へと変えてくださるからです。十字架の後、弟子たちが変えられたように、私たちも変えられます。だから、信じて受難週を共に歩みましょう。新しく変えられ、新しく生まれさせられる復活を信じて、子ろばに乗ってこられる方、十字架のキリストに応える生き方を求め続ける歩みを、共に祈りつつ歩みましょう。

 

祈り

主なる神。子ろばに乗られた王を迎え入れさせてください。自分を明け渡して、十字架に死なれた主にふさわしく用いられる器とならせてください。アーメン