イースター礼拝説教「愛の極み」

日本基督教団藤沢教会 2006416

15主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。17しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。18わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」19イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、20エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。21モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。22イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。

23エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。24朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。25戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」26主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」27モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。28水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。29イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。30主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。31イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

  (出エジプト記 141531節)

 

1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」8婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

    (マルコによる福音書 1618節)

イースターの朝

今年も、主のご復活を祝うイースターを迎えました。

イースターの朝。多くの教会が、イースターの朝を、前夜からの徹夜礼拝の後に迎えます。あるいは、朝早く、まだ暗いうちに集まって、イースターの祝いの礼拝のときを迎えます。キリスト教会に、イースターの祝いほど、朝早く祝うことがふさわしい祭はありません。

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐに墓に行った。(マコ16:1~2)

主イエス・キリストのご復活は、週の初めの日の朝ごく早くに、主に従っていた女たちによって、まず経験させられた出来事であったと、各福音書が告げています。週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐに、すべてに先立って、この女たちは、復活の出来事が起こるところへと向かいました。私たちもまた、このイースターの出来事を大切に記念しようと思うならば、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐに、共に集まり、祝うことが、もっともふさわしいことでしょう。それだけで、イースターの意味の多くを知ることになるに違いありません。

主のご復活を祝うイースター。この祝いは、朝の祝いです。夜の暗闇が過ぎ去り、朝の新しい光が与えられる祝い。死を象徴する夜が終わりを告げ、新しい命の誕生を指し示す朝が訪れる祝い。私たちも、気持ちの上では、朝ごく早く、日が出るとすぐに、この祝いの礼拝にあずかっている者でありたいと思います。

 

十字架から復活へ

イースターの朝は、暗い夜が過ぎ去った後の朝です。そこには、まだ夜の名残が見られます。夜を過ごしてきた、さまざまな思いがあります。

イースターの朝。主に従っていた女たちは、主が葬られているはずの墓に向かいました。前々日の夕方にあわただしく葬られた主イエスのご遺体に、油を塗るためでした。彼女たちの心の内は、まだ、愛する主イエスが十字架に架けられていったあの出来事の記憶に、あまねく覆われていたに違いありません。

十字架の出来事。十字架の上で主が死なれた出来事。十字架の上で死なれた主が、墓に葬られた出来事。それは、たった二日前に起こった出来事でした。十字架の出来事に深く心を縛られていた彼女たちが、ユダヤ人の習慣から行動を起こすことを許されていない安息日(土曜日)の終わるのを待つようにして取りかかったことが、主の葬られている墓に香料を持って参ることだったのです。

十字架から復活へ。死から命へ。イースターの朝、彼女たちが経験した出来事を、そのように言うことができます。その出来事は、何よりも、主イエス・キリストの十字架と復活、死と復活の出来事として、彼女らが経験したことでした。そして、それは同時に、彼女ら自身の死と復活の出来事、古い自分が死に、新しい命与えられ生まれ変わらされた出来事として、経験したことであったのです。

イースターの祝いは、古いものが過ぎ去ったことを確かめ、新しい命にあずかり触れる喜びを祝う祝いです。

古来、多くの教会は、成人の洗礼式を、イースター礼拝だけで執り行ってきました。古代教会では、洗礼を受けることになる志願者は、長い準備期間を経た後、受難節を最後の特別な準備の時として過ごし、とくに受難週の最後の三日間は、主の十字架をおぼえて断食して過ごし、洗礼式のときを迎えたのです。主に従ってきた女たちが、主の十字架の出来事を共に過ごすことを通して古い自分の死を経験し、主の復活の出来事を通して新しい命に生きることを知ったように、イースターの祝いのときに洗礼を受ける者は、古い自分の死と、新しい命を与えられた新しい自分の誕生を、ひとつずつ確かめならが、洗礼式に臨んだのです。

私たち洗礼をすでに受けた者は、このイースターの祝いのときに、あらためて自分が洗礼を受けた事実を確かめたいと思います。自分が、主の十字架と共に古い自分の死を経験し、主の復活と共に新しい命に生きる道を与えられたことを、思い起こすのです。これから洗礼を受けることになるであろう方々には、十字架から復活に至るイースターの祝いこそ、私たちが洗礼を受けた信仰者として生きることの原点であることを、ぜひお伝えするときとしたいと思います。

 

「あの方は…ここにはおられない」

イースターは、主の復活を喜び、主と共に復活の命にあずかることを喜ぶときです。死が克服され、新しい命にあずかる復活の信仰を与えられるときです。

多くの教会が、この日、墓前礼拝を営みます。イースターの朝、主に従ってきた女たちは、主のご遺体が葬られているはずの墓に、香料を持って参りました。そして、そこで、彼女らは復活の信仰を与えられたのです。死者が葬られる墓が、死を克服する復活の信仰を与えられる場となったのです。

墓前礼拝をささげるとき、私たちも、イースターの朝に墓参した女たちと同じ復活の信仰を確かめるときを与えられます。すでに地上での生涯を終えられた信仰の先達をおぼえながら、生きている者とともに死者をも永遠におぼえてくださる神の御前で、共に礼拝をささげる者とされていることを、あらためて心に刻むのです。これは、ひとつの良い習慣に違いありません。

けれども、墓前礼拝は、イースターの復活の信仰を確かめるために《しなければならないこと》、ではありません。私たちは、墓前に集って礼拝をささげるときに、あの女たちがイースターの朝に主の墓で聞いた言葉を思い起こすのです。

「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる。」(16:5~7)

「あの方は…ここにはおられない」。私たちは、墓前で、この言葉を確かめるのです。死者が葬られているという墓には、何もない、ということを確かめるのです。そして、死者は墓に閉じこめられているのではなく、ガリラヤという弟子たちの生活の場、私たちそれぞれの生活の場に、共に存在していること――復活の命を生きていること――を、確かめるのです。

 

無為の中の愛

今、もう一度、主が辿られた受難節の歩みを思い起こしましょう。

主イエスは、神の御心のままにエルサレムに向かわれ、御心のままに弟子たちに見放されて、人々の手に渡され、御心のままに十字架につけられて、死んで葬られたのでした。主イエスは、十字架にいたる道行きで、祈ること以外に、自分の引かれて行くことに抗うことをなさいませんでした。無為無策のまま、主は、十字架につけられ、死んで葬られたのです。

そしてイースターの朝にも、主は、女たちが墓に訪ねてくるよりも早くその御体を墓から去らせてしまわれて、彼女らのために何もご自身で働きかけるようなことは、なさらなかったのです。

今や何もなさらない、無為無策の主。それが、私たちの主イエス・キリストなのです。しかし、実は、そのような主であるからこそ、この十字架と復活の出来事を通して、主の深い愛、神の永遠の愛を確かに知るのではないでしょうか。

私たちは、《愛》とは、「受けるよりは与える方が幸いである」(使20:35)ところにあることを知っています。しかし、与えることに一所懸命になるとき、私たちは、愛という名のもとに、どれほど隣人に自分を押しつけ、干渉し、それゆえに相手から心と行動の自由――生の自由――を奪い取っていることでしょうか。

主イエスの愛とは、その意味で、私たちが陥る自分本位の愛とは全く違います。それはいわば、無為の中の愛です。何もしないで、かえって、相手にされるがままになることを良しとする愛です。「無為の為」としての愛です。ある日本のカトリック司祭は、そのようなキリストのお姿を語って、「所詮、愛の極みとは沈黙ではなかろうか」と言います。何か策を弄することによってではなく、沈黙して、待つことによって、そして深いところで神がお働きくださることを信じることによって、相手に真に自由を与え、生を与える《愛》。十字架と復活の出来事は、主のそのような愛の形の現れであるに違いないのです。

私たちが主のご復活によって与えられていると信じる永遠の命とは、そのような主の愛によってもたらされる命です。私たち一人ひとりをも、主と同じ愛――無為の中の愛――に生きるようにと、新しく生まれさせてくださる命です。

主のご復活をお祝いいたしましょう。私たち一人ひとりに、新しい愛に生きる命が約束されたこと、与えられたことを喜び、共にお祝いいたしましょう。

 

祈り

主よ。主の復活を信じる信仰を与えられ感謝いたします。十字架と復活の主の愛を深く悟り、主の愛に生きる者として新たに生まれさせてください。アーメン