主日礼拝説教「見えないものに目を注ぐ」

日本基督教団藤沢教会 2006423

17モーセは、彼らをカナンの土地の偵察に遣わすにあたってこう命じた。「ネゲブに上り、更に山を登って行き、18その土地がどんな所か調べて来なさい。そこの住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、19彼らの住む土地が良いか悪いか、彼らの住む町がどんな様子か、天幕を張っているのか城壁があるのか、20土地はどうか、肥えているかやせているか、木が茂っているか否かを。あなたたちは雄々しく行き、その土地の果物を取って来なさい。」それはちょうど、ぶどうの熟す時期であった。21彼らは上って行って、ツィンの荒れ野からレボ・ハマトに近いレホブまでの土地を偵察した。22彼らはネゲブを上って行き、ヘブロンに着いた。そこには、アナク人の子孫であるアヒマンとシェシャイとタルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンよりも七年前に建てられた町である。23エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。24この場所がエシュコルの谷と呼ばれるのは、イスラエルの人々がここで一房(エシュコル)のぶどうを切り取ったからである。

25四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た。26パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体のもとに来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。27彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。28しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。29ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」30カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」31しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、32イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。33そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。」             (民数記 131733節)

 

7ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。8わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。10わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。11わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。12こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。13「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。14主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。15すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

16だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。                        (コリントの信徒への手紙二 4718節)

 

「生まれたばかりの乳飲み子のように」

イースター(復活祭)を祝った直後の主日を、西方教会は伝統的にラテン語で「クアジ・モド・ゲニティ」と呼んできました。これは、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(Tペト2:2)という御言葉の冒頭で、これが礼拝の最初に告げられることから、主日の呼び名となったのです。

古来、多くの教会は、イースターの祝いに合わせて新しい信者に洗礼を授けてきました。そして、新たに洗礼を授けられた信仰者は、イースターからの一週間、白い服を着、聖礼典の意味を始めて教えられるなどして過ごし、翌主日には、入信の儀式と信徒としての教育を完全に終えて「キリストの体」の一員となったしるしとして、着ていた白い服を脱ぐことになっていたと言います。イースターの洗礼式から始めて一週間で、キリスト者として新しく誕生した儀式が、ようやく終わったのです。教会は、そのような主日の礼拝を特徴づける御言葉として、「生まれたばかりの乳飲み子のように…」という御言葉を大切に聴き続けてきました。

私たちも、イースターの祝いの余韻が残るこの日、自分の信仰の原点を振り返ることを大切にしたいと思います。主キリストの復活にあずかって新たに生まれさせられた私たちが、イースターの祝いごとに、また主の日ごとに、キリストに結ばれて新たに造りかえられることを求めるものでありたいと思います。

 

「日々新たにされ」

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます(Uコリ4:16)

パウロは、私たち信仰者が日々新たにされると言います。信仰者として生きるとは、日々新たに造りかえられつつ生きることだというのです。「新たにされるべきだ」とか、「新しく変わらなければいけない」というのではありません。キリストを信じて生きる信仰者は、すでに、日々新たにされている、新しく造りかえられるに違いない、そうならないはずはないと、パウロは言っているのです。

私たちは、洗礼を受ける前には、比較的熱心に、キリスト者としての新しい生き方を身に着けようといたします。中には、自分がキリスト者となるのに十分ふさわしいものをまだ身に着けていないからといって、洗礼を受けることを躊躇する人もいます。洗礼を受ける決心に至るには、洗礼が新しく生まれることで、キリスト者としてスタートすることだということを知る必要があるのです。それでは、洗礼を受けて、キリスト者として新たに誕生し、信仰生活をスタートしたら、私たちは順調にキリスト者らしく成長していくかというと、なかなかそうはいきません。私たちは、洗礼を受けて何年も経っているのに、自分が何も変わっていないことに気づくことがあります。キリスト者らしく成長していない自分の姿に、ガッカリすることもあります。そのように自覚しているのに、自分のキリスト者らしくないふるまいを、親しい者から「クリスチャンのくせに…」などと批判されようものなら、私たちは、ひどく気落ちしてしまうこともあるのです。それでも、私たちは、キリスト者として生きる限り、日々新たにされて、キリスト者らしく成長させられるよう願うのを、やめてしまうことはしないでしょう。だからこそ、相変わらず成長しない自分を見つめて、日々悶々としてしまうのです。

私たちは、どのようにして、信仰者として日々新たにされ、キリスト者らしく成長することができるのかということを、主イエスや使徒たちの教えから、きちんと聞き知っておかなければなりません。

 

「土の器」と「宝」

パウロは、「たとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの内なる人は日々新たにされていきます」と語ります。外なる人内なる人と言われているのは、肉体と精神のことでしょうか。そうだとすれば、ここでパウロは、「たとえ年をとって肉体が衰えていくとしても、信仰者は、精神が日々新たにされて、若々しく生きられます」と言っているのでしょうか。どうも、そうではなさそうです。外なる人内なる人と言うのは、単に肉体と精神という意味で言われているのではなさそうです。パウロは、前段落で、こう語っているのです。

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(4:7)

土の器と言われているのが外なる人のことを指し、その土の器に納められているという、あるいはそのによって与えられるところのものが内なる人のことを指す、と言うことができそうです。

わたしたちは…土の器であるというパウロの表現は、特に若い人にはピンと来ないところがあるかも知れません。私たちは、人生の歩みの中で少しずつ、自分が土の器に過ぎないことを知るようになるものなのでしょう。自分が、金の器でも銀の器でもない、取るに足りない、どこにでもあるありふれた土の器に過ぎないことを知るようになります。自分が、少しずつ、あちらが欠け、こちらが欠けていく、脆く壊れやすい土の器に過ぎないことを知るようになります。私たちは皆、いずれは肉体の死とともに土に還ってしまう存在なのです。

私たち日本人には、そのようなことを仏教的な諦念として理解するのが分かりやすいかも知れません。けれども、問題は、私たちは、今、それなりに自分の自由を許された状態で生きているときに、果たして、土の器に過ぎないものとしてふさわしく生きているだろうか、ということです。土の器に過ぎないのに、金や銀でメッキをしてみたりしていないか。壊れ、欠けていく土の器なのに、割れたところを接着剤で無理矢理に接ごうとしたりしていないか。――私たちは、自分が土の器であることを、本当に受け入れることができているのでしょうか。

私たちは、自分が土の器に過ぎないということを、きちんと受け入れなければならないでしょう。しかし、そのことを認めて諦念に達しようというのではありません。自分は土の器に過ぎないのだからと卑下して、落胆したり、投げやりに生きるのでもありません。器にふさわしい生き方を知るならば、私たちは、落胆せず、失望せず、投げ出さずに、希望と幸いを得て生きることができるのです。それは、神の並外れて偉大な力を与えられる納めて生きる生き方です。

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない(4:8~9)

器は、そこに納められるべきものにふさわしいときに、最もよく生きるものです。私たち土の器も、宝として納められる神の偉大な力にふさわしいときに、最もよく生きるのです。土の器らしく、脆く欠けていくものとして、弱く衰えていくものとして、神が与えてくださる宝――恵みを納めるのです。そして、並外れて偉大な力とさえ言われる神の恵みが、その余りあるほどのものをもって、土の器の欠けや弱さを補ってくださるときに、私たち土の器は、よく生きることができる。だから、最も深い意味でよく生きるためには、その器を欠けさせ、割り、粉々に砕かなければ、神の恵みの力の真の偉大さは分からないのかも知れない。

主イエスの十字架の死と復活は、この神の恵みの力の偉大さを私たちに告げ知らせること――福音に他なりません。私たちは、主イエスのように自分で土の器を粉々に砕くことのできる者ではありません。ただ、私たちは、主イエスと結びつくことで、神の恵みの偉大な力によって生かされる生き方へと導かれるのです。

わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。(4:10~11)

 

「見えないものに目を注ぎ」

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(4:18)

私たちは、目に見える土の器外なる人ばかりに目を向けてきました。それらを立派にしようとしたり、新しくしようとしたりしてきました。しかし、今や、私たちは、土の器の欠けていくところにお働きくださる神の恵みに目を注ぐのです。外なる人の衰えを補って余りある内なる人=内なるキリストが、日々新たに私たちを造り、生かしてくださることに目を注ぎ、感謝して神の恵みを証しする群れとして新たに歩み始めることを、得させていただこうではありませんか。

 

祈り

主なる神。私どもは土の器です。主と共に死に、主と共に新たな命与えられることを信じます。見えない主、見えない恵みに目を注がせてください。アーメン