主日礼拝説教「神の羊の群れ」 日本基督教団藤沢教会 2006年4月30日 11まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。12牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。13わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。14わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。15わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。16わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。 (エゼキエル書 34章11〜16節) 1さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。2あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。3ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。4そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。 5同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、 「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。6だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。7思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 8身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。9信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。10しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。11力が世々限りなく神にありますように、アーメン。 (ペトロの手紙一 5章1〜11節) 7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」 (ヨハネによる福音書 10章7〜18節) 「わたしは羊の門…良い羊飼いである」 多くの教会には、イースターから数えて3週目あるいはそれ以降の主日を「良い羊飼いの日曜日」と呼んで守る習慣があります。復活節にヨハネ福音書10章、詩編23編、第一ペトロ5章などを読み、教会が復活の主を羊飼いとする羊の群れであることをおぼえるということが、古くから大切にされてきたのです。 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」(11節) 主イエスが告げられているこの御言葉は、牧羊に親しみがない者にとっても、決して分からない言葉ではありません。詩編の詩人ダビデが、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない…」(詩23編)と歌い、また別の詩人が、「…わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ…」(詩100:3)と歌っているように、聖書は、私たち人間を羊にたとえ、主なる神は私たち羊を牧する羊飼いだと、繰り返し語っています。「わたしは良い羊飼いである」と主イエスが告げられているのを聞くとき、私たちは、復活のキリストが、旧約で語られていた主なる神ご自身の羊飼いとしてのお姿であることを知るのです。 「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」 模範的な羊飼いが、自分の世話している羊のために命を捨てるほどのことをするのかどうか知りません。たとえ自分の所有する羊であっても、人間が羊を飼うのは、やはり羊のためではなく、人間自身のためでしょう。自分の羊が狼に襲われたからといって、本当に命がけで一匹の羊を救い出そうとする羊飼いがいるものだろうかとも思います。 預言者エゼキエルは、羊飼いである神が、ご自身の羊の群れを人間の指導者たちに託された結果、その指導者たちが、自分自身を養う(エゼ34:2)ばかりで、「弱い者を強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、過酷に群れを支配した」(同34:4)、と預言して語りました。実際の羊の群れを、このような過酷な仕方で牧したのでは、とても養っていけないでしょう。しかし、実際の羊の群れはともかくとして、羊の群れにたとえられる人間の社会、団体、組織の中では、エゼキエルが預言して語ったような状況が、必ずしも誇張とは言えない現実として起こってくることも、認めないわけにはいきません。エゼキエルは、それゆえに、「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする…」(同34:11以下)と預言して、羊の群れである人間が、同じ人間を羊飼いとするような現実が断ち切られ、主ご自身が羊飼いとして、羊の群れである人間を探し出し、世話をなさると語るのです。 「わたしは羊の門である。…わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。…わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハ10:7,9~10節) 羊が救われるために、その日毎の糧を得て、命を受けるために、その羊のために命を捨てることがおできになる良い羊飼い。私たちの現実の中ではどこにも見つけ出せそうにない、良い羊飼い。それが、十字架で死なれて、復活なさった主イエス・キリスト、その方であることを、私たちは、今、聞いているのです。 「羊もわたしを知っている」 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(14節) 羊飼いになるためにまず最初に必要なことは、羊飼い自身が群れの羊の一人になることだと言われます。羊飼いは、群れを管理することを覚える前に、一人の羊になりきって、羊の心理とでもいうものを心と身体でおぼえこむのです。それが、羊の群れを導くために、最も大切なことなのです。古代から、羊飼いたちは、羊一頭ごとに呼び名を付けて、群れの世話をしたとも言います。羊飼いは、自分自身、羊の一人のようになって羊を知り、しかも一頭一頭を覚えることによって、群れの羊に信頼され、羊飼いとしての役割を果たすのです。 主イエス・キリストは、私たちと同じ人間として歩まれた、それゆえに、私たちのことを良く分かっていてくださる。しかも、私たち一人一人のことを、名を呼ぶように覚えてくださる。良い羊飼いであると言われる主イエスとは、そのような方ですと、私たちは素朴に信じて、有り難いことだと感謝することができます。私たちの信仰とは、本当に、その意味で素朴な羊としての信仰でよい。キリストという良い羊飼いに養われ、導かれる羊として生きるのです。馬になる必要もないし、ライオンになる必要もないのです。ただ、群れの中にとどまって、羊飼いに導かれるのでなければ、命を保つことができない羊として、良い羊飼いである主に信頼して生きる。それが私たちの信仰です。この信仰に立って、詩編23編を暗誦してきた信仰者を、私たちは幾人でも数え上げることができます。 「羊もわたしを知っている」。私たちは、羊の信仰に生きる者として、私たちのために命を捨ててくださる良い羊飼いがどなたであるのか、そのことを知る者とされている不思議を、よく心に留めたいと思います。 「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」 羊が自分を養い導く羊飼いが誰であるのかを知り、信頼するようになるのには、羊飼いの努力が何よりも大きい。私たちが主を知り、信頼を寄せるようになるのも、何よりも主ご自身が羊飼いとして必要なことをしてくださるからです。 「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊も導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(15~16節)。 私たちのことを良く分かっていてくださり、養い導いてくださる主イエス・キリストは、私たちが馬やライオンのようになることをお求めにならない。そのかわりに、羊のままで生きる私たちを狼から守るために、盗人から、強盗から、あるいは雇い人に過ぎない偽りの羊飼いから守るために、主は、命を捨てる戦いを戦ってくださった。羊である私たちが、自分のまことの良い羊飼いを見いだすために、主は、今も、命を捨てる戦いを戦ってくださっている。 私たちは、何よりも、そのような良い羊飼いである主キリストに信頼する者の群れ、主なる神の羊の群れです。羊である私たち一人一人が、まことの良い羊飼いの声を聞き分けることによって導かれ、一つの群れになるのです。 私たちは、ただ、自問したいと思います。 私たちは、この世にあって様々に聞こえてくる声の中から、きちんとまことの良い羊飼いの声を聞き分けて、ついて行っているでしょうか。良い羊飼いとは異なる声の方について行ってしまっていないでしょうか。私たちは、羊飼いの声を頼りにする羊の身にとどまっているでしょうか。いつの間にか、神の羊の群れの中で、自分が羊から狼に変わってしまっていないでしょうか。他の羊を盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする盗人や強盗のようになってしまっていないでしょうか。自分や群れの羊の中のだれかを、あるいは、良い羊飼いである主キリストその方を、自分たちに都合の良い雇い人のようにしてしまっていないでしょうか。 「神の羊の群れ」 …あなたがたのうちに長老たちに勧めます。あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。(Tペト5:1~2) 使徒ペトロは、イースターの使信の中で、主から「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハ21:15~17)と命じられました。そのペトロが、私たちに対しても、主の命じられたことを告げています。しかし、私たちは、これによって、羊の群れの中のだれかが、羊から変えられて羊飼いに任じられると言う必要はありません。そのようには、主イエスも、ペトロも言っていないのです。私たちにとって、羊飼いはただお一人、大牧者、良い羊飼いである主イエス・キリスト、その方だけです。私たちは、ただ、群れの中の一人の羊のままで、まことの良い羊飼いの声をきちんと真っ先に聞き分けることに集中するということによって、主のご命令でありペトロの勧めであることを行うのです。 どのような職務に就かせられようと、私たちは皆、ただひたすら、まことの良い羊飼いの声を聞き分ける羊であることに徹する。そして、一人の羊飼いに導かれて、一つの群れとされ、一つの神の羊の群れとして歩ませていただくのです。 祈り 主なる神。私ども皆を、ただひたすら、神の小羊として来てくださった、まことの良い羊飼い、キリストの声を聞き分ける羊として歩ませてください。アーメン
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