主日礼拝説教「愛はどこから」

日本基督教団藤沢教会 200657

9穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。10ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。

11あなたたちは盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。12わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。13あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。14耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。15あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。16民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。17心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。18復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。                          (レビ記 19918節)

 

31さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。34あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」         (ヨハネによる福音書 133135節)

 

「互いに愛し合いなさい」

私たちの教会は、2006年度の伝道方針として、「賜物を見つけよう〜神の恵み、再発見」という主題を与えられ、歩みを始めました。使徒パウロが、教会のあり方、信仰者の生き方を教える有名な聖書の箇所から与えられた主題です。

わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい…(ロマ12:6~8)

パウロは、この賜物論をローマの教会に宛てた手紙ばかりか、コリントの教会に宛てた手紙(第一12)でも同じように展開しています。私たちが教会のあり方を考える上で、よくよく考えなければならない事柄として、パウロはどの教会に対しても、この賜物論を語って聞かせたのかも知れません。

「賜物を見つけよう」という主題のもとで、私たちは、自分に与えられている賜物がどのようなものであるのか、あらためて見つめ直したいと思います。また、一つの教会に連なる者同士として、他の人たちそれぞれに与えられている賜物を、よく確かめ合い、分かち合い、認め合うものでありたいと思います。

それと同時に、私たちは、パウロがどちらの手紙でも賜物論を述べたのに続いて、愛の教えを記していることに、心を留めたいと思います。

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ロマ12:9~10)

パウロは、賜物論に基づく教会形成を完成させる鍵となるのが愛であると見て、兄弟愛をもって互いに愛し合いなさいと語っています。同じことを、第一コリント書ではもっと明確に、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」(Tコリ12:31)と述べて、あの有名な「愛の賛歌」と呼ばれる教えを記し(13)、各自に与えられる異なった賜物すべてを支えるもっと大きな賜物としての愛を追い求めなさい(14:1)と勧めています。

私たちは、主イエスが弟子たちに教えられたもっとも根元的な教え、「互いに愛し合いなさい」という教えに、パウロと共にあらためて立ち帰り、教会のあり方を問い、私たちの生き方を見つめ直すことから歩み直したいと思います。

 

「新しい掟」

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)

主イエスは、私たちに、新しい掟として「互いに愛し合いなさい」という教えを告げられます。主は、この愛の教えを、「互いに愛し合えたらよいですね」というような努力目標として語られるのではありません。「愛し合えば良いことがありますよ」というような処世訓として語られるのでもありません。「互いに愛し合いなさい」と、明確にとして、つまり命令として告げられるのです。

「命じられても、私は、愛せない」と、私たちは言うかも知れません。命令されて愛し合うことができるならば、世の中はもっと平和になっている、と考えるかも知れません。確かに、愛し合うというのは、個人レベルの、しかも内面にも関わる人間関係の事柄ですから、命令ということにはそぐわないように思えます。

ある人たちは、新共同訳聖書が、ここでという訳を用いているのが良くないと考えるようです。これは、「エントレー」というギリシア語の訳ですが、口語訳や新改訳のように「戒め」という訳が良いというのです。という語には命令や指示の意味合いが強いが、「戒め」には説諭の意味合いを読み取れるからだ、ということのようです。けれども、元来の意味からすると、「戒め」は「禁や過ちを指摘して告げること」、は「あるべき状態、定めを示すこと」です。「互いに愛し合いなさい」という教えは、禁や過ちの指摘ではなく、私たちのあるべき状態を示すものですから、と訳すのがふさわしいのではないでしょうか。

しかし、そのことよりも、ここで私たちが心に留めたいことは、なぜ主イエスが「互いに愛し合いなさい」という教えを、「掟」と訳される語で示されたのかということです。実はヨハネ福音書は、主イエスが、この「掟」と訳される語を、良い羊飼いのたとえを語られたときにも用いられたものとして物語っています。

「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハ10:18)

この「父から受けた掟」は、口語訳が「父から授かった定め」と訳しているように、明らかに「あるべき状態、定めを示すこと」の意味で「掟」と訳される語だと言うことができます。主イエスは、ご自身の十字架の死と復活を神から与えられた定めとして受けとめられていたのです。そして、そのような主から、私たちは、今、自分の定め、あるべき姿を告げられるのです。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」

私たちは、この主の言葉を、「私には出来ないと思いますが、ご命令だから従いましょう」というように、どこか不本意な思いを抱きながら聞くのではありません。私たちのあり方、主から授けられる生き方が告げられる言葉として、聞くのです。主が、父なる神の定めとしてご自身のあり方を受けとめられたときと同じように、私たちも、自分たちのあり方、生き方を、自分の思いのままにではなく、主から、神から与えられるものとして――その意味で、上からの命令として――受けとめる。そのことが、私たちには求められているのです。

互いに愛し合うこと。私たちは、これを、自発的にではなく、神から与えられる生き方、主から命じられるあり方として受けとめるようにと告げられるのです。

 

「栄光」

互いに愛し合いなさい」と、主は命じられます。私たちのあるべき姿、定められた生き方を示して、主は、「互いに愛し合いなさい」と告げられます。しかし、なぜ、主は、愛し合うことを、掟、定めとして命じられるのでしょうか。

主イエスの教えを一言で言うならば「愛」であると、だれもが言うことができるかも知れません。けれども、福音書は、必ずしも、主がいつも愛について教えていたとは語っていないようです。むしろ、主イエスが愛について明確に教えられたのは、いよいよ十字架に架けられようかという受難週に入ってからのことであったと、各福音書は物語ります。ヨハネ福音書も、この「互いに愛し合いなさい」という教えを語り始められたのが、主と弟子たちの最後の晩の食事の席で、あの主を裏切るイスカリオテのユダが席を立った直後のことであったと、丁寧に物語り伝えるのです。しかも、そこで主は、こう語り始められるのです。

…「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」(31~32)

主イエスは、ユダが今まさに裏切るために席を立ったときに、「栄光を受けた」と言われるのです。しかも、神もまた「栄光をお受けになった」と言われるのです。それどころか、実は、主は続けて語り始めるとすぐに、ペトロの裏切りさえ予告して語られます(36節以下)。そのような弟子たちの裏切りが明白に主イエスを取り囲み始めたときに、主は、「今や…栄光を受けた」と言われるのです。

栄光を受けた」。それは、神の光が明らかになったということです。神の授けられた定めが成就した、ということです。このとき、主イエスが神から定められていたあるべき状態になられた、ということです。

このとき、主は、明らかに裏切ることになるような者も含む弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた(13:1)のだと、福音書は私たちに告げます。主は、神からの定めの生き方として、御自分の命を捨てても、裏切る者たちを愛し抜かれることを、選び取られたのです。

「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(10:18)

私たちは、この主から、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられるのです。自分の命を捨てて、それを再び受けるような愛です。私たちが、本当には為しえない愛です。神から与えられる生き方、主から命じられる生き方としてしか為しえない愛です。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」

 

キリストの弟子であることの証し

主は、告げられます。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(35)

私たちは、私たちがキリストの弟子であることを知られるような群れとなっているかと、不安になります。教会の中でも、互いに愛し合うことができているとは、とても思えない現実に直面することがあります。けれども、だからこそ、わたしたちは今、あらためて、私たちが互いに愛し合う群れとされていくことを、主に心から祈る者でありたいと思います。そして、まことの愛が、わたしたちの中から出て来るのではなく、神から注ぎ出され、与えられることを、本当に知る者とされるように、祈りたいと思います。

主は、「わたしがあなたがたを愛したように」と、私たちに告げられます。私たちは、愛されたことがないのに愛することはできませんが、愛されたようには愛することができるのです。ヨハネの手紙も、繰り返し語ります。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります(Tヨハ4:10)

私たちは、恵みをもって私たちを生かしてくださる神の愛に触れ続ける群れとして歩ませていただいています。神の愛に触れ、キリストの愛を知り、互いに愛し合う群れとされていくことを共に祈り続けましょう。私たちは、主の新しい掟に生きる者として、主の弟子として、この世に知られる群れになるのです。

 

祈り

主なる神。私たち一人一人を愛し抜いてくださる主の愛を、今、知る者とならせてください。主の愛をもって互いに愛し合う群れとならせてください。アーメン