主日礼拝説教「実りのためには」

日本基督教団藤沢教会 2006514

1イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。2彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。

3モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。

「ヤコブの家にこのように語り

 イスラエルの人々に告げなさい。

 4あなたたちは見た

 わたしがエジプト人にしたこと

 また、あなたたちを鷲の翼に乗せて

 わたしのもとに連れて来たことを。

 5今、もしわたしの声に聞き従い

 わたしの契約を守るならば

 あなたたちはすべての民の間にあって

 わたしの宝となる。

 世界はすべてわたしのものである。

 6あなたたちは、わたしにとって

 祭司の王国、聖なる国民となる。

 これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」      (出エジプト記 1916節)

 

1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。                     (ヨハネによる福音書 15111節)

 

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5)

私たち教会に連なる者にとって、主イエス・キリストのこの御言葉は、すべてを凝縮している御言葉のように思えます。キリストは父なる神が農夫として世話をしてくださるまことのぶどうの木、私たち一人一人はそのぶどうの木につながる枝々。私たちは、その枝としてつながっているとき、豊かな実りを実らせる。キリストと私たちとの関係、キリストと教会との関係を、このキリストの御言葉は、見事にたとえをもって私たちに告げているのです。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」

教会の青年たちが、交わりと祈りの会を新しく立ち上げることになりました。その会を「水曜コイノニア」と名付けました。コイノニアとは交わりという意味のギリシア語です。平日の昼間はそれぞれに仕事があり、学びがある青年たちが、日曜日から日曜日までの間の一日に共に集い、交わりと祈りをもって、それぞれの日々の歩みを支え合いたい。そのような祈りからスタートすることになった会です。コイノニア=交わりという会の名前。それを、一人の青年は、第一コリント書1:9の御言葉「わたしたちの主イエス・キリストとの交わり」に基づいて、「キリストとのコイノニア」というところから考えてくれました。まず一人一人がキリストとの交わりに生きる、キリストというぶどうの木につながって生きる。そのような一人一人として、私たちは一つの交わりに連ならされる、一つのぶどうの木の枝々として連なって生きる。そのような思いを込めて、この会の名前を付けてくださったのです。

まことのぶどうの木。これは、主イエス・キリストのこと、そして、キリストの体である教会、キリストとのコイノニアに生きる私たちの交わりのことです。

 

「わたしの父は農夫である」

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(1)

「わたしは良い羊飼い」(10:11)と主イエスが告げてくださるとき、私たちは一頭の羊としてキリストに養われ、世話していただく者であるということを、心に留めます。ところが、「わたしはまことのぶどうの木」と告げられるとき、主イエスは、ぶどうの木とそのを世話し、実を結ばせるのは、農夫である父なる神なのだと、私たちに教えられます。

使徒パウロが、第一コリント書で、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Tコリ3:6~7)と語っているところがあります。ぶどうの木のたとえとはまったく文脈が違いますから、あまり単純に並べ比べてみるわけにはいきませんが、パウロが、成長させてくださる神に仕える者として、植えたり水を注いだりという世話をするのは自分たちの役割だと言っているのに対して、主イエスは、父なる神を農夫にたとえられることによって、植えたり水をやったりという世話も神がしてくださるのだと、私たちに教えているようです。私たちの生き死にのすべては、父なる神の御手の内にある、ということを、主は私たちに告げているのではないでしょうか。

私たちは、キリスト者として、まず何よりもキリストと自分との関係を考えることを大切にいたします。しかし、キリストは、私たちとキリストとの関係を支える根本的なところに、父なる神のご配剤、御手の働き、恵みの賜物を見るようにと、私たちを促しているようです。

 

豊かに実を結ぶ

「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5)

主イエスは、私たちが主に結びついているならば、豊かに実を結ぶと言われます。父なる神が、そのように世話をし、育ててくださるからです。

キリストにつながる信仰者として、私たちは、どのような実りを結ぶのでしょうか。主は、繰り返し、「実を結ぶ」と告げられますが、その実りがどのようなものであるのかは、どうもはっきりと語られません。「実を結ぶ」とは、新しい信仰者を獲得することでしょうか。教会活動が活発になることでしょうか。優秀な人材を生み出すようになることでしょうか。それとも、パウロがガラテヤ書で教えているような霊の結ぶ実(ガラ5:22~23)を身に着けることでしょうか。

そういうこともあるかも知れませんが、ここで大切なことは、主イエスは私たちに対して、「実を結べ」と命令していられるのではない、ということです。キリストにつながって実を結べ、と命じられているのではなく、キリストにつながっているならば、その結果として(まさに「結果」として)豊かに実を結ぶことになると、宣言されているのです。ですから、私たちはここで、「では自分はキリスト者としてどのような実を結ぶことを目標とすべきか」と考えるのではありません。「いかにキリストとつながっている者として生きるか」ということこそ、私たちがここで問われていることなのです。

これは、驚くべきことではないでしょうか。あるいは、違和感をおぼえないではいられないことではないでしょうか。なぜなら、私たちは、自分で目標を定めて、それに向かって行動し、その結果として目標を達成できれば「結果を得た」と言うし、目標を達成できなければ「結果を得られなかった」と言うのです。ですから、自分であらかじめ、結果はどういうものになるべきかを目標として定めて、行動を起こすのです。しかし、主が告げて教えてくださっていることは、そのような生き方、行動の起こし方ではありません。主は、ただ、キリストにつながるという出発点だけに、私たちの思いと行動を集中させようとなさっている。そして、キリストにつながっているならば、私たちにはどのような実りか分からないかも知れないけれども、父なる神が私たちに豊かな実りを必ず実らせてくださる、と主は告げていられるのです。

実りを実らせてくださる父なる神が、どのような実りが良いかもお決めくださる。そのような、深いところでの神への信頼を、主は私たちに教えられるのです。

つながっている

実りのために、私たちは、キリストにつながっているようにと、ただそのことを繰り返し教えられています。

「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」(4)

主は、畳みかけるようにして、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(5)とも告げられます。もちろん、実を結ぶこともできない。「いやいや、私たちも、少しは自力でがんばりますよ」と言いたくなるところですが、主は、そのような私たちの力を少しもお認めになりません。なぜでしょうか。それは、私たちが自分で定めた目標に向かって行動を起こし、実現したことなど、神が恵みをもって私たちにしてくださること、豊かに実らせてくださることに比べたら、まったく取るに足りないことだからです。私たちが、自分たちで何かを実現したと満足しているとき、私たちは本当は何も実現していないのです。かえって、神が恵みをもって実らせてくださるはずの実りを見失ってしまっているのです。だから、主は私たちに、「あなたがたは、自分で何かできるなどと思うな。あなたがたは何もできない」と告げられて、わたしたちの目を、神が恵みをもって与えてくださるはずの豊かな実りに向けさせてくださっているのでありましょう。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(7~8)

栽培されるぶどうは、台木と呼ばれる特別な根を張る木に接ぎ木して作られるそうです。台木は、病気にも強く、大地の水分や養分を力強く接ぎ木の枝々に送り続けるのです。そのような栽培方法は、すでに紀元前から確立されていたと言います。主イエスが語られるまことのぶどうの木とは、もしかしたら、そのような台木のことかも知れません。決して病むことなく、弱ることのないまことのぶどうのです。

まことのぶどうの木であるキリストは、つながる枝の私たちに、導管を通じて必要な水分、養分を与えてくださる。主の御言葉という養分です。主の御言葉をいただく導管=通路を確保していることが、どうしても必要です。耳を傾け、心を開いて、御言葉を聴くことが、どうしても必要です。今必要な主の御言葉を、今聴くことができるように、導き語ってくれる信仰の友が、どうしても必要です。

まことのぶどうの木。これは、キリストのこと、キリストの体である教会のこと、そして、主の御言葉を聴くために共にいる私たちの交わりのことです。

 

祈り

主なる神。私どもをまことのぶどうの木の枝として接いでくださり感謝いたします。主につながり、恵みの実りを実らせる枝として歩ませてください。アーメン