主日礼拝説教「喜びはどこに」 日本基督教団藤沢教会 2006年5月21日 23アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。24あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。25正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」 26主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」27アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。28もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」29アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」30アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」31アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」32アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」 33主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。 (創世記 18章23〜33節) 12言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」 16「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」17そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」18また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」19イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。20はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。21女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」 (ヨハネによる福音書 16章12〜24節) キリストの名によって願う 教会は、古来、受難節からイースター(復活祭)を経て復活節までの各主日に呼び名を付けて覚えてきました。イースターから数えて第6の主日は、「祈れ(ロガーテ)」と呼ばれます。確かなことは分かりませんが、六世紀以来、この週の月曜日から水曜日までの三日間に特別な祈りのときが守られるようになったことによるとも言われます。 「祈れ」と命ぜられるまでもなく、私たち信仰者は、神に祈ることを知っている者です。神に祈ることを知っているということこそ、信仰者の原点であるとも言えます。たとえ一週間の日々の生活の中で祈る時間をひとときも持つことができなくても、私たちは、日曜日には礼拝に集い、ともに祈る祈りに加わります。信仰者として歩む私たちは、神に祈ることを知っているからです。けれども、大切なことは、神に祈ることを知っている者として、どのように祈るのか、どのような言葉をもって神に祈るのか、ということです。 長く教会生活から離れていらして、あることを通して、再び信仰へと思いを向けさせられ、教会生活を回復された方が、牧師のところをお訪ねくださったときに、「長く教会から離れ、祈ることもせずにきたので、今、一所懸命に祈ろうと思っても、祈りの言葉が出て来ないのです。どのような言葉で祈ったらよいのか、分からなくなってしまいました」と、言われました。本当に率直にお話しくださったことだと思います。今、教会生活の中で、祈りの言葉を取り戻されていますが、この方のおっしゃられたことは、私たち皆がよく心に留めるべきことではないでしょうか。教会生活から離れ、信仰生活から離れてしまうと、私たちは、祈ることを忘れてしまうのです。そればかりか、祈り方や祈る言葉を忘れてしまうのです。それはつまり、私たちの信仰そのものと、私たちの祈り方や祈る言葉は、大いに関係があるということです。 「祈りの言葉は、稚拙でも素朴でも良い。祈ることが大切だ」と、私たちはよく申します。確かに、小さな子どもが祈る言葉を、共に祈りながら聴くとき、私たちは、祈ること自体の大切さを感じさせられます。けれども、祈り方や祈りの言葉は、私たちの信仰そのものの表れでもあります。古来、「祈りの法が、信仰の法」と言われてきたとおりです。私たちの信仰の有り様が、そのまま、私たちの祈り方や祈る言葉となって表れてくるのです。 私たちは、むしろ、こう言うべきかも知れません。私たちは、聖書や信仰の先達から教えられる祈り方、祈りの言葉を覚え、自分のものとしていくことによって、自分の信仰を形づくっていくのです。何となれば、主イエスその方も、私たちに、「主の祈り」ばかりでなく、多くの祈り方や祈りの言葉を教えてくださったことを思い起こすことができるのではないでしょうか。 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハ16:23~24)。 父なる神の御名を呼んで祈り始め、主イエス・キリストの御名によって願うという、私たちが当たり前に身に着けている祈り方を、主イエスは、ここでもお教えくださっています。主イエスが弟子たちにお教えになられる前には、だれもそのように祈ることはなかったのです。しかし、私たちは、主の教えに従って、祈るときには、主イエス・キリストの御名によって父なる神に願うことを覚えたのです。その神学的な意味を理解できなくても、小さな子どもにさえ、私たちは、この祈り方を教えます。しかし、この祈り方、祈りの言葉が繰り返されるとき、確かに、私たちの中で、信仰の基本的な土台が据えられているのです。 「祈れ」。「願いなさい」。私たちは、何よりもまず、主イエスがお教えくださったように祈ること、願うことを、大切にしたいと思います。 「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」 「わたしの名によって…願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」 主イエスは、主の御名によって父なる神に祈り願うならば、私たちは与えられ、喜びで満たされる、とお教えになられます。けれども、正直に言うならば、私たちは、主がそのようにお教えになられても、単純に「そのとおりだ」と信じて、祈り願ってはいないかも知れません。 祈りの生活の中で、祈り願ったらそのとおりになった、という経験をしないわけではありません。けれども、私たちは、圧倒的に、祈っても願っても、全くそのようにはならなかった、という経験を繰り返しているものではないでしょうか。どうしても、という願いを神に訴えているのに、神はちっとも聞き入れてくださらない。何も喜ばしい結果を与えてくださらない。そのような素朴な虚しさを味わう経験を重ねて、私たちは、だんだん、神に何でも祈り願う、ということをやめてしまうことがあるのではないでしょうか。 「あなたがたは喜びで満たされる」 私たちは、神に祈り願う信仰者として、喜びに満たされることを期待しています。しかし、現実は、むしろ、信仰者として、喜びに満たされるときよりも、泣いて悲嘆に暮れていることのほうが多い、と感じているかも知れません。信仰者として祈りの歩みを送っていながら、悲しみや苦しみばかりで、喜びに満たされ、満足することなどほとんどない、と虚しい思いになっているかも知れません。 「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(ヨハ16:20) 弟子たちが、キリストを十字架死で失うことになる中、泣いて悲嘆に暮れたように、私たちも、教会の交わりの中にいるにもかかわらず、キリストが見えなくなり、分からなくなり、泣いて悲嘆に暮れるような思いになることが、あるかもしれません。むしろ、教会の交わりの外、この世のほうが、自分に喜びを提供してくれるように思えることさえ、あるかもしれません。キリストを見ない、キリスト抜きのこの世に出て行った方が、私たちは自由気ままに喜び楽しみ、幸福感や満足感を謳歌できるのではないでしょうか。 事実、教会の交わりでなくても、世の中には、私たちに喜ばしいことを与えてくれそうなところは、いくらでもあります。祈り願って、どこか半分期待しない思いで喜びに満たされることを待つよりも、この世で手っ取り早く確実に提供してもらえる喜びや楽しみを味わった方が、賢い生き方なのでしょうか。 「悲しみは喜びに変わる」 「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。…ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(16:20~22)。 信仰者は悲しむが、その悲しみは喜びに変わると、主イエスは告げられます。悲しみのときもあれば、喜びのときもある、だから、喜びのときを待って、今の悲しみに耐えよう、というようなことを言われているのではありません。信仰者は、今、悲しむ者である、悲しんでいる、しかし、その悲しみそのものが喜びになる、と言うのです。喜びは悲しみの中から生まれてくる、と言うのです。 喜びは悲しみの中にある、という哲学めいた教えは、世にもあります。しかし、私たちが目を向けるべきところは、そのような哲学的思索であるよりは、悲しみの中から喜びが生まれてくる根拠として言われている「わたしは再びあなたがたと会い」という言葉ではないでしょうか。悲しむ者、悲しんでいる信仰者に、主イエス・キリストが、再び会ってくださる。そのとき、信仰者は心から喜ぶ(=心が喜ぶ)ことになる。それは、キリストに見いだされる喜びです。キリストに見いだしていただいていることを知る喜びです。 信仰の世界とこの世との狭間にあって、あるときにはキリストを見ていても、次の瞬間にはキリストを見失ってしまうようなところに立たされているのが、私たちです。信仰にとどまるべきか、この世におもねるべきか、いつも揺れ動いている悲しむべき者です。しかし、そのような私たちを、キリストは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)といって、繰り返し見いだしてくださるのです。悲しみや悲嘆の中に歩み続ける私たちだからこそ、主は、私たちを覚え、見いだしてくださるのです。 祈り、願いなさい、この主の御名によって。ここに、私たちの喜びがあります。 祈り 父なる神。私どもは、主の御前に心定かならず、悲嘆に暮れる悲しむべき者です。ただ、主が見いだしてくださることを知る喜びに与らせてください。アーメン |
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