主日礼拝説教「ひとつとなるために」

日本基督教団藤沢教会 2006528

1 主が油を注がれた人キュロスについて 主はこう言われる。

 わたしは彼の右の手を固く取り 国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。

 扉は彼の前に開かれ どの城門も閉ざされることはない。

2 わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし 青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り

3 暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。

 あなたは知るようになる わたしは主、あなたの名を呼ぶ者 イスラエルの神である、と。

4 わたしの僕ヤコブのために わたしの選んだイスラエルのために

 わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが あなたは知らなかった。

5 わたしが主、ほかにはいない。 わたしをおいて神はない。

 わたしはあなたに力を与えたが あなたは知らなかった。

6 日の昇るところから日の沈むところまで 人々は知るようになる

 わたしのほかは、むなしいものだ、と。 わたしが主、ほかにはいない。

7 光を造り、闇を創造し 平和をもたらし、災いを創造する者。

 わたしが主、これらのことをするものである。      (イザヤ書 4517節)

 

1イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。2あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。3永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。4わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。5父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

6世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。7わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。8なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。9彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。10わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。11わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。12わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。13しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。

   (ヨハネによる福音書 17113節)

主イエスの祈り

イースターから40日目は、復活された主イエスが天に昇られた「昇天日」としておぼえられてきました。「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使1:3)と伝えられていることに基づく習慣です。この日を境に、教会の期節はペンテコステ(聖霊降臨祭)へと向かいます。新しい、聖霊に導かれる群れ、神の教会の歩みへと、あらためて心向けされられていくのです。

主イエスの昇天は、弟子たちにとっては今生の別れのときでした。復活された主と共に過ごした日々は終わり、ついに「彼らの目から見えなくなった」(使1:9)のです。しかし、弟子たちにとって、主イエスとの別れは、初めてではありません。主が十字架で死なれたときこそ、弟子たちにとっては、主との別れに心痛めたときだったのです。否、十字架前夜は、主イエスこそが、激しく心痛められたときであったかもしれません。ヨハネ福音書は、13章から17章までを割いて、その様子を伝えます。その最後、別れの席のクライマックスは、主イエスの祈り、「大祭司の祈り」と呼ばれてきた、私たちのためのとりなしの祈りです。

イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」(ヨハ17:1)

私たちは、各福音書から、主イエスが弟子たちの前で祈られた祈りのいくつかを、今も聴くことができます。たとえば「主の祈り」は、恐らく主イエスご自身が日々口にしておられた祈りの言葉であるに違いありません。主ご自身が祈られていた祈りの言葉を、私たちは、自分たちの祈りの言葉として与えられているのです。そして、私たちが共にこの「主の祈り」を唱えて祈るとき、自分たちの祈りの声の奥の奥に、はるか二千年の月日を越えて、主イエスご自身がこの言葉をもって祈っておられる声を聴き取ろうとしているのではないでしょうか。それは、二千年の月日の向こうからというよりも、むしろ、天に昇られた神の右の座から聞こえてくる主イエスの祈りである、と言うべきかも知れません。

「大祭司の祈り」は、二千年前、十字架、復活、昇天を前にした最後の晩餐の席で、弟子たちに聴かせられた祈りです。この「大祭司の祈り」もまた、天に昇られた神の右の座で、今も、私たちのために祈ってくださっている主イエス・キリストの祈りの言葉として、聴くことができるのではないでしょうか。

私たちは、聖書の御言葉を通して、また教会の受け継いできた営みを通して、主イエスの祈りを知る幸い、そして、今も主イエスに祈られていることを知る幸いを、与えられています。この幸いこそ、二千年前、弟子たちをペンテコステの教会誕生へと押し出した原動力であり、また、今日、私たちを、あらためてペンテコステの聖霊に導かれる教会へと進み行かせる原動力なのです。

 

とりなし

私たちは、信仰者同士、「祈っています」と告げることがあります。相手の心配事を聞いたときには、別れ際や電話の切り際に、「お祈りしていますよ」と告げずにいられないものです。けれども、ときどき、私自身、そのような言葉を発しながら、後になって、「そうは言ったけれども、一体、いつ、どれだけ、その人のために祈っただろうか」と反省せずにはいられないことがあります。まるで、手紙の最後に「ご多幸をお祈り申し上げます」と記すのと同じくらい儀礼的に、「お祈りしています」を安売りしているような気持ちになってしまうのです。

しかし、逆の立場でいうならば、私自身は、どなたかが「お祈りしています」と告げてくださるだけで、何とも言いようのない満たされた気持ちを与えられるようにも思えるのです。ましてや、牧師として立たされていますと、何ともおっしゃられずに、黙って祈ってくださっている方がたくさんいらっしゃることに、鈍感な私でも、だんだん気づかされるようになります。そして、祈られていること、祈ってくださっていることが分かるようになるにつれて、自分が、皆さんに祈られていなければ決して立つことのできないところに生きているのだと、深く思わされるのです。

使徒パウロは、諸教会への手紙の中で、しばしば、「わたしのために祈ってください」(ロマ15:30)等と願っていました。牧師は、皆さんに向かってそのように願いやすい立場にあります。あるいは、教会の役員などの奉仕をされる方のために、牧師の立場で「この人たちのために祈ってください」とお願いすることも、難しいことではありません。あるいは、皆さんが牧師に向かって「祈ってください」と願うのも、難しいことではないかも知れません。しかし、私たちは、本当は、そのような特別な関係になくても、互いの間で、ただ信仰者同士であるということで、「私のために祈ってください」と願い合える仲間が、私たちには必要なのではないでしょうか。そのような、祈ってもらい合う信仰の友を、私たちはどれだけ思い浮かべることができるでしょうか。

 

「一つとなるため」

主イエスは、私たちのために祈っていてくださる。祈り合う仲間がひとりもいなくても、主イエスだけは、私たちのため、この私のために、祈っていてくださる。そのように信じることができるのは、幸いなことです。しかし、それでもなお、私たちは、祈り合う仲間を持つことを、もっと求め願って良いのだと思います。なぜなら、主イエスが私たちのために祈ってくださっているのは、言ってみれば、私たちが、主に祈られている者として、共に祈り、祈られる一つの交わりへと造り上げられていくためであるからです。

「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。…彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。…わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(17:6~11)

主イエスは、神を父と呼ばれ、父のもとから遣わされている御自分が、父と一つであることを、すでに、何度も告げておられました(ヨハ14:10)。そして、今、このとりなしの祈りで、主は、弟子たちをもご自身と父なる神との一つの交わりの中に迎え入れようとなさっていることを、はっきりと告げていられます。

「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」

主イエスは、ご自身と父なる神との一つの交わりを核として、弟子たちのところに遣わされたご自身を通して、弟子たちをも一つの交わりに導き入れられるというのです。しかも、それは、主の直弟子たちだけにとどまりません。この祈りの後半で、主は、こう告げられるのです。

「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(17:20~21)

このことのために、主は、弟子たちを世に遣わすと言われるのです。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(17:18)

主と父なる神との交わりに招き入れられた者が、また世へと遣わされ、交わりの外にいる者に御言葉をもたらす。そして、今まで、交わりの外にいた者を、一つの交わりへと招き入れる。そのようにして、次々に、主と父なる神との交わりを核とした一つの交わりが、大きく造り上げられていくのです。

「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」(17:22~23)

主は、私たちのために祈ってくださるとき、この宣教の使命を私たちに与えられるのです。主に祈られてこの宣教の使命に生きる者として、私たちは、互いに祈り、祈られる仲間を持つことを、もっと求め願ってよいのではないでしょうか。

 

聖霊を待つ

私たちは、主と父なる神と一つなる交わり造り上げていく使命に生きるために、聖霊を受けることを待つ群れでありたいと思います。復活の主は言われました。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい…」(ヨハ20:21~22)

祈りつつ、聖霊を受けることを待ちたいと思います。私たちは、聖霊降臨の日、聖霊に導かれて主の使命に生きる群れとして、新たに生まれさせられるのです。

 

祈り

父なる神。御子の祈りによって、あなたとの親しい交わりに加えられました。一つの交わりを造り上げるあなたの宣教の業に参与させてください。アーメン