ペンテコステ礼拝説教「神の聖霊の力」 日本基督教団藤沢教会 2006年6月4日 1主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。2「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。3モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。4荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。5一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。8この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。9わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」 (ヨシュア記 1章1〜9節) 1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 17『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。 すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。 18わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 19上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。 20主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 (使徒言行録 2章1〜21節) 聖霊降臨と《教会》の誕生 主イエス・キリストの復活を祝ったイースターから50日。私たちは、主の告げてくださった聖霊降臨の約束を心に留めて静かに祈りつつ、聖霊を待ち望みつつ、過ごしてきました。そして、初代教会が皆一つところに集まって祈り待ちつつペンテコステの日を迎えたように、私たちも、今日の祝いの日を迎えたのです。 初代教会の人々が祝ったペンテコステ=五旬祭(使2:1)は、ユダヤの祭のときでした。ユダヤの人々は、この祭を、春の収穫を祝うために、また、かつてイスラエルの民がモーセによってエジプトから導き出されたときに、3ヶ月目を迎えてモーセが神の律法を授けられたことを記念するために、祝っていました。神の律法に従う新しいイスラエルの民が誕生したことをおぼえて、祝ったのです。 キリスト教会の祝うペンテコステもまた、新しい民の誕生、キリスト教会の誕生の祝いのときだと言われます。主イエスの弟子たちは、主の十字架の出来事を通してバラバラに離散してしまっていたのですが、復活のキリストと出会い、再び一つ群れに集められました。そして、ペンテコステの日、キリストが約束してくださっていた聖霊を受けて、弟子たちは、教会という新しい交わりのうちに歩みを始めたのです。その新しい教会共同体の歩みは、こう伝えられています。 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。…(2:43~47)。 周囲の人々が恐れ、しかも好意を寄せるような新しい共同体、キリスト教会の誕生です。このような驚くべき新しい交わり、共同体、教会の誕生は、信者たちの努力や能力によって実現したのではない。そうではなく、聖霊という神の力によって実現したのだと、私たちは聖書から教えられるのです。 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使1:8) 主イエスが繰り返し約束してくださった聖霊は、信じる者の群れに力を与え、慰めと励ましをもって新しい交わりに生きる道を開いてくださるのです。 《宣教する教会》の誕生 ペンテコステは、聖霊降臨によって力を与えられた教会の誕生を祝うときです。しかし、ある説教者は、丁寧に、「ペンテコステとは…『宣教する教会の誕生』を意味する出来事」であると語ります。教会の誕生というけれども、弟子たちの群れ自体は、ペンテコステよりも前に集められていた。主イエスに召されて従った弟子たちの群れ、主と共に最後の晩餐を守った弟子たちの交わり、そして、復活の主に導かれて一つところに集まって心を合わせて祈り、ペンテコステの日を迎えた人々の群れ。それは、多少の入れ替わりはあるとしても、また、途中で離散してしまったことはあるにしても、すでに一つの群れとして、キリストに導かれる共同体として、つまり《教会》として歩んでいたということができる。けれども、それはいまだ《宣教しない教会》であって、《宣教する教会》としては誕生していなかった、というのです。 確かに、ペンテコステ以前の弟子たちの群れも、一つところに集められて心を合わせて祈りを共にしていました。私たちと変わらない集会の様子を想像できます。その意味では、それも《教会》であったと言って良いのかもしれません。けれども、復活の主は、弟子たちの群れが、聖霊を受け、宣教の力を得て、外に向かって出て行く教会となることを、約束されたのです。 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使1:8) ペンテコステの日に、弟子たちは「聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2:4)。それは、世界中の人々に語りかける言葉でした。ペトロらは、教会の外の人々に向かって声を張り上げ、話し始めた(2:14)のでした。現代の私たちの国にまでキリストを証しする宣教の言葉が伝えられてきているのは、まさに、このペンテコステの出来事から始まった《宣教する教会》の歩みのゆえであると言わなければなりません。 私たちは、ペンテコステに誕生した新しい教会、《宣教する教会》の末裔です。今、私たちの教会は、ペンテコステに新しく誕生した教会にふさわしい歩みに生きているでしょうか。復活の主の約束を信じて聖霊を待ち望み、聖霊の力を得て宣教に生きる教会、キリストを証しし、神の業を語る教会として、幾度でも新しく誕生させられ、再生させられる群れとされることを祈り求めたいと思います。 一人一人が宣教する教会の誕生 私たちは、ペンテコステに誕生した《宣教する教会》に属しています。しかも、私たちが属しているのは、《一人一人が宣教する教会》です。 「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使2:3~4)。 キリストを証しし、神の業を語るという宣教の力は、聖霊と共に教会に与えられました。しかも、それは、教会の中の特定の人にではなく、そこにいた一同、一人一人にであったと、ペンテコステの出来事は告げています。皆がそれぞれに語る力を与えられたからこそ、周囲にいた大勢の人々は、皆、めいめいが生まれた故郷の言葉で、信者たちの語ることを聞くことができたのです。 私たちの周囲にもいるのではないでしょうか。この自分が語って聞かせなければ、決してキリストの証しを聞くことも、神の業を聞くこともない、という人です。誰かに語ってもらう機会を待っていたのでは、聞かせそびれてしまうかもしれない人です。私たちの周囲に、必ず一人や二人いるに違いありません。私たちは、そういう人に、語らなくてよいのでしょうか。否、私たちが語るべきかどうかと論ずる前に、主は聖霊を私たち一人一人に与えて、皆が語る者となるようにしてくださる、というのです。 「いやいや、そうは言っても、自分は語る言葉を知りません」と言われるかも知れません。当然です。私たちは、自分の言葉を語ろうとするから、自信を持って語ることができなくなったり、逆に、妙に雄弁になったりするのです。私たちは、聖霊に満たされたときには、今まで語ってきた自分の言葉ではなく、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした、と語られていることを心に留めたいと思います。ほかの国々の言葉、つまり、今まで語ってきたのとは違う言葉を与えられるのです。神の言葉を与えられるのです。 聖霊を信じるキリスト者の誕生 ペンテコステの日。ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めました。「…。これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する』」(使2:14~18)。 ペトロは、文字通り聖書の御言葉を示されて、語り出しました。今まで語ったこともない御言葉を語り、キリストの証しを語り始めたのです。ある説教者は、ペトロが語り出したこのヨエルの預言を、将来への展望を開く御言葉だと言っています。ペンテコステの日、ペトロは、聖霊を受けて、聴きかつ語るべき御言葉を与えられ、キリストに従う信仰者として将来への展望を持つ者となったのです。 今日、この礼拝で、一人の兄弟が洗礼を授けられます。一人のキリスト者の誕生です。そこで授けられるのは、復活の主が約束してくださった聖霊による洗礼(使1:5)です。洗礼は、主の約束してくださった聖霊の証印です。ペンテコステの日、聖霊降臨の出来事の中で、まさに聖霊による洗礼を受けた一人一人が、将来への展望を語る主の御言葉、神の業を語る言葉を与えられました。洗礼を授けられるとき、聖霊を感じるかどうかは分かりません。初代教会のような、劇的な聖霊体験をするかどうかは分かりません。しかし、洗礼を授けられるとき、約束の聖霊を信じる歩みを始めるのです。私たちは皆、洗礼と共に、聖霊を信じる歩みを始めた者です。主の約束の聖霊は、信じる私たちに必ず御言葉を示してくださり、新しい言葉を与えてくださり、将来への展望を開かせてくださいます。 洗礼式と共に宣言いたしましょう、「今日、私たちの群れの中で、新たに一人の兄弟に聖霊が降りました」と。私たちは誰でも、聖霊の力を信じる教会の交わりに招き入れられ、生きることが許されているのです。 祈り 主なる神。主の約束してくださった聖霊を信じます。一人一人に、教会の群れに、力を与えてください。聴き、語るべき御言葉を与えてください。アーメン |
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