こどもの日花の日・合同礼拝説教「神さまの子としていただく」 日本基督教団藤沢教会 2006年6月11日 4聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。6今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。8更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。 (申命記 6章4〜9節) 12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 (ローマの信徒への手紙 8章12〜17節) 「花の日」は「子どもの日」 今日は、《子どもの日・花の日》の礼拝です。《花の日》という呼び方のほうが慣れ親しんでいるかも知れません。 《花の日》は、今からちょうど150年前にアメリカの教会で始まった行事です。1856年、マサチューセッツ州のある教会で、子どもたちのための特別プログラムの礼拝が持たれたことから始まりました。それから10年後には、アメリカ中のメソジスト教会で6月の第2日曜日を《子どもの日》と決めて、子どもたちが神さまを信じる心を持つようにと、特別の行事を行うようになったそうです。 この《子どもの日》の特別礼拝で、美しい花を飾るようになりました。その花のことを、アメリカの教会の人たちは《シャロンのばら》と呼んだそうです。旧約聖書に「わたしはシャロンのばら、野のゆり」(雅2:1)と歌う詩があります。「シャロンのばら」とか「野のゆり」というのは、美しく香りのよい花です。そこで、神の御子イエスさまのことを、教会の人たちは「シャロンのばら」とか「野のゆり」と呼びました。そのような讃美歌がたくさんあります(T496「うるわしの白百合」、T512「わがたましいの」、U192「シャロンの花」など)。礼拝堂に美しい花を飾って、イエスさまの美しく香りよいお姿を心に思い描いて、子どもも大人も皆、イエスさまに集められた神さまの家族として、神さまの恵みを分かち合いました。そういうことから、《子どもの日》は、《(シャロンの)花の日》とも呼ばれるようになったのです。 《花の日》に、高齢者や地域の人に、この美しい花を届けることがあります。美しく香りの良い花に飾られた礼拝堂に集まることのできた私たちは、イエスさまの美しく香りの良いお姿を、礼拝に来ることのできない人たちにも伝える一人一人にならせていただきたいと思います。 《神さまの子ども》 ところで、今日は《子どもの日》ですが、皆さんは、《子ども》というのは何歳から何歳までの人のことを言うと思いますか。生まれたばかりの赤ちゃんはもう《子ども》でしょうか。高校生はまだ《子ども》でしょうか。 藤沢教会には、先週の日曜日、新しく《子ども》が生まれました。と言っても、その新しく生まれた《子ども》は、もう70歳の方です。70歳の人がどうして新しく生まれた《子ども》なのでしょうか。それは、その人が、先週の日曜日のペンテコステ礼拝で、洗礼〔バプテスマ〕を受けたからです。洗礼を受けたとき、70歳のその人は、《神さまの子ども》として新しく生まれたのです。 ここには、洗礼を受けたたくさんの大人の人たちがいます。子どものときに洗礼を受けた人もいますし、大人になってから洗礼を受けた人もいます。教会に来るようになってすぐに洗礼を受けた人もいますし、随分長い年月、教会に通ってから洗礼を受けた人もいます。洗礼を受けた年齢や理由は皆違いますが、その人たちは皆、洗礼を受けたときに、《神さまの子ども》として新しく生まれました。 もちろん、私たちは皆、人間のお母さんから生まれた一人の人間です。お父さんと結婚したお母さんのお胎の中で、私たち一人一人の体のもとになる細胞が成長して、人間の体になって、そして、10ヶ月くらいして赤ちゃんとなって生まれてきたのです。だから、私たちは皆、《お父さんとお母さんの子ども》です。私たちには皆、自分のお父さんとお母さんがいて、そのお父さんとお母さんの子どもとして生まれたのです。そのとき、私たちは誰も、自分で、自分のお父さんやお母さんを選びませんでした。生まれたときから、《お父さんとお母さんの子ども》だったのです。いいえ、生まれる前から(!)、《お父さんとお母さんの子ども》だったのです。とても不思議なことです。 そして、もっと不思議なことですが、そういう私たちが、洗礼を受けると、《神さまの子ども》として新しく生まれるのです。 洗礼を受けるときには、体がもう一度赤ちゃんに戻るわけではありません。10歳で洗礼を受けた人は10歳の体のまま、20歳で洗礼を受けた人は20歳の体のまま、40歳で洗礼を受けた人は40歳の体のまま、80歳で洗礼を受けた人は80歳の体のままで、《神さまの子ども》として新しく生まれたのです。 「アッバ、父よ」と呼ぶ霊 どうして、洗礼を受けた人は《神さまの子ども》として新しく生まれる、というのでしょう。 私たちは、イエスさまが神さまの御子で、しかも独り子だということを知っています。イエスさまこそ《神の子》です。イエスさまのような《神の子》は他にはいません。だから、私たちは、イエスさまを信じて、イエスさまに助けていただきます。それでは、洗礼を受けた人が《神さまの子ども》として新しく生まれるというのは、どういうことなのでしょうか。 イエスさまのことを世界中の多くの人に伝えたパウロは、ローマの教会の人たちに宛てた手紙の中で、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ロマ8:14)と書いています。神さまの聖霊に導かれる人が《神さまの子ども》なのです。洗礼は、神さまの聖霊に導かれる人が新しく生まれることなのです。 先週、教会はペンテコステの祝いをしました。ペンテコステは、イエスさまの復活を信じた弟子たちが集まって祈っていたときに、神さまの聖霊が降ってきて、一番最初の教会ができたことを記念するお祝いです。イエスさまを信じる教会は、神さまの聖霊が降ってきて、弟子たちが皆、神さまの聖霊に導かれるようになったときに、誕生しました。教会は、神さまの聖霊に導かれるところとして誕生し、歩み出したのです。 私たちの教会も同じです。藤沢教会も、神さまの聖霊に導かれて誕生し、聖霊に導かれて今日の日まで歩んできました。神さまの聖霊に導かれることをやめてしまったら、教会は死んでしまいます。聖霊によって誕生したのだから、聖霊から離れてしまったら、死んでしまうのです。だから、私たちの教会は、これからも、どんなことがあっても、神さまの聖霊に導かれて歩んで行きます。 私たち一人一人は、神さまの聖霊に導かれているでしょうか。「聖霊に導かれているかどうか、分からない」と思っている人もいるかもしれません。その人は特に、パウロが教えてくれていることに耳を傾けてください。 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ロマ8:15)。 神さまの聖霊を受けて、聖霊に導かれている人は、神さまのことを「アッバ、父よ」、「天のお父さま」と呼んで祈ることができるのです。「アッバ、父よ」「天のお父さま」という呼び方は、イエスさまがなさっていて、私たちに教えてくださった、神さまの呼び方です。聖霊に導かれていれば、私たちもイエスさまのように「アッバ、父よ」「天のお父さま」と神さまを呼ぶことができます。だから、「アッバ、父よ」「天のお父さま」と神さまを呼ぶことができるならば、その人は、自分で分かっていなくても、神さまの聖霊に導かれているのです。 だから、ある人は、神さまの聖霊に導かれるために、私たちは、いつも、繰り返し、神さまに向かって、「アッバ、父よ」「天のお父さま」と呼び続けなくては行けない、と教えています。「アッバ、父よ」「天のお父さま」と言った後に、どうお祈りの言葉を続けて良いか分からないときでも、いいえ、そのようなときこそ、「アッバ、父よ」「天のお父さま」と神さまを呼び続けて、神さまの聖霊に導かれる《神さまの子ども》であることを、心の中で思い出すのです。 神さまの霊によって導かれる《神の家族》として歩もう ここには、まだ洗礼を受けていない人がたくさんいます。子どもたちはほとんど、まだ洗礼を受けていません。大人の中にも、まだ洗礼を受けていない人がいます。けれども、その人たちも皆、今日、ここで一緒に、主の祈りを唱えて、神さまのことを「天にまします我らの父よ」、「天のお父さま」と呼びました。 私たちは、だから、まだ洗礼を受けていなくても、その人たちにも神さまの聖霊の導きが始まっていることを信じています。まだ洗礼を受けていない人は、まだ《神さまの子ども》として新しく生まれていないかも知れません。でも、人間の赤ちゃんだって、ある日突然生まれてくるわけではありません。赤ちゃんは、生まれる前に10ヶ月間お母さんのお胎の中で過ごすのです。まだ洗礼を受けていない大人の人や子どもたちが、ここで一緒に礼拝をしているということは、いずれ、洗礼を受けて《神さまの子ども》として新しく生まれるために、神さまが準備をするために招き入れてくださっているのです。 ですから、ここにいる人は、皆、《神さまの子ども》です。もうすでに洗礼を受けて新しく生まれた《神さまの子ども》と、いつの日か洗礼を受けて新しく生まれることになるけれども、まだ生まれ出てきてはいない《神さまの子ども》と、そのどちらも《神さまの子ども》です。まことの《神の子》であるイエスさまに助けられて、教えられて、神さまを「天のお父さま」「アッバ、父よ」と呼ぶことを知っている《神さまの子ども》たちです。 私たちは、《神さまの子ども》たちの集まり、神さまの家族です。まことの《神の子》主イエスさまの美しさ、良い香りが、私たち一人一人の内に、特に子どもたち一人一人の内に、豊かに満ち満ちるように、共にお祈りいたしましょう。 祈り 天のお父さま。皆が神さまの子として新しく生まれ、聖霊に導かれる歩みを歩み続けることができますように。神さまの家族の一人一人として、皆が、イエスさまの美しさとよい香りを世の人々に伝えることができますように。アーメン |
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