主日礼拝説教「もっと大胆に」

日本基督教団藤沢教会 2006618

1オデドの子アザルヤに神の霊が臨んだ。2彼はアサの前に進み出て言った。「アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。3長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。4しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。5そのころこの地のすべての住民は甚だしい騒乱に巻き込まれ、安心して行き来することができなかった。6神があらゆる苦悩をもって混乱させられたので、国と国、町と町が互いに破壊し合ったのだ。7しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」

8アサはこの言葉と預言者オデドの預言を聞いて、勇気を得、ユダとベニヤミンの全土から、またエフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき偶像を除き去り、主の前廊の前にある主の祭壇を新しくした。                             (歴代誌下 1518節)

 

5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。11この方こそ、

『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』

です。12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」13議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。14しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった。15そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、16言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。17しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。」18そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。19しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。20わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」21議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。22このしるしによっていやしていただいた人は、四十歳を過ぎていた。

23さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。24これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。25あなたの僕であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。

『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。

26地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう。』

27事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。28そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。29主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。30どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」31祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。                     (使徒言行録 4531節)

 

大胆

紀元30年頃のペンテコステの日、エルサレムの町に、人々に向かって語り始めた一つの集団が誕生しました。キリストの復活を信じて、一つになって集まっていた弟子たちの一群が、その日、聖霊を受けて皆それぞれに語り出し、周囲に向かって神の偉大な業を語り始めたのです。教会の誕生です。

一つ部屋に集団で引きこもって祈っていた弟子たちが、出て行って、周囲の人々に神の御業を語り始めた。それが、ペンテコステの日に聖霊降臨によって誕生した教会、私たちの連なる教会であります。

そのペンテコステの日に誕生した教会の特徴を示すとしたら、どのように語ることができるでしょうか。

使徒言行録34章に物語られる、聖霊降臨から間もない時期の教会で起こった出来事は、その最後の部分が「第二のペンテコステ=聖霊降臨の出来事」とも呼ばれる出来事です。ペンテコステの日に聖霊降臨によって誕生した教会の姿を、あらためて描き出していると言ってもよいでしょう。そのような物語で、教会は、「大胆さ」という言葉が繰り返し用いられて描き出されているようです。

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であったことを知って驚き(:13)

「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(29)

祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した(31)

ペンテコステの教会、またそこに連なる信仰者たちは、大胆であった。そのように繰り返し描き出されている教会とは、信仰者とは、いったい、どのようなものであったと言うことができるのでしょうか。

 

大胆な態度

大胆な態度」という言葉を、私たちは、無条件に良いことを示す言葉として受けとめないかも知れません。辞書によれば、日本語の「大胆」という言葉には、「普通なら遠慮して行わないことを思い切ってやってのける様子」「常識なら行わないようなことを行う様子」という意味があるからです。ですから、「大胆な態度」と言われたら、「図々しい態度」とか「無謀な姿勢」を意味していると考えるかも知れません。

けれども、「大胆に」と訳されている語は、「はっきりと」とか「公然と」とも訳される語で、物事を包み隠さず明らかにする態度を示しています。ペトロやヨハネらの姿勢が「大胆な態度」であったというのは、彼らが、自分の信じるところを黙っていることができずに、包み隠さず全てはっきりと語らないではいられなかったという様子を意味している、ということができます。

しかし、その意味であるからこそ、それは、日本語の「大胆」という言葉のニュアンスのとおり、図々しく無謀な態度であったと言うべきかもしれません。議員や長老、大祭司らの前で、取り調べを受けることになったペトロらは、彼らから「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問(7)され、答えるのです。「…この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。…ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(8~12)

主イエス・キリストの御名。これこそ、世界を救い、秩序づける唯一の権威!。ユダヤ人の社会を秩序づける世の権威の前で、ペトロは、真の秩序をもたらす権威は、主イエス・キリストの御名のほかにはない、と宣言したのです。何と図々しくも無謀な態度ではないでしょうか。しかし、彼ら初代教会の弟子たちには、世の常識から外れていようとも遠慮せずに自分たちの信じるところをはっきり公然と語る、という姿勢が明確にあったのです。

いったい、彼らがそのような姿勢をもって、ペンテコステの教会の営みを始めることができたのは、いかなることによってだったのでしょうか。

 

大胆に御言葉を語る

世の中には、すべてについて大胆に行動する人がいます。どうして、そのように行動できるのか、周りから見ているだけでは分からない場合が多いのです。しかし、多くの場合、まるで他人に遠慮するところがなかったり、常識を欠いているようなところがあったりするのかも知れません。ただ、そのような場合は、大胆と言うよりは、傍若無人とか自己中心とでも言うべきかも知れません。あるいは、単に未熟で幼稚と言うべきかも知れません。

私たちが本当の意味で大胆に行動を起こすことができるのは、常識や遠慮を越えて行動を起こさせるだけの強い根拠や力の源泉というものを、はっきりと持つことができる場合ではないでしょうか。あるいは、大胆な行動を起こす勇気を与えてくれるものを、はっきりと持つことができる場合ではないでしょうか。

ペトロは、議員や長老、大祭司らの取り調べを受ける前、ことの発端となった生まれつき足の不自由な男のいやしについて人々に説明する中で、こう述べていました。「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人をいやしたのです」(使3:16)

イエスの名が、この人を強め、いやした。そう語るペトロは、もちろん、自分自身、主イエスの名によって強められ、大胆に行動を起こす力と勇気を与えられていたのに違いありません。しかも、その力と勇気を強め、堅固なものとしたのが、神の御言葉、聖書の御言葉であったと、使徒言行録は、丁寧に描き出していることに、私たちは目を向けたいのです(11節の引用、25~26節の引用など)。

ペンテコステの日に聖霊降臨によって誕生した教会の弟子たちは、主イエス・キリストの死と復活の出来事を力の源泉として、キリストの出来事そのものを大胆に語ったのです。(旧約)聖書の御言葉を力の源泉として、御言葉そのものを大胆に語ったのです。

 

もっと大胆に祈る

自分自身の内なるものを根拠にして大胆に行動したり語ったりすることができる者は、そう滅多にいるものではありません。私たちのほとんどは、自分自身の内から湧き出てくるものを根拠にしても、大胆に行動し、語ることは、できないのです。だからこそ、私たちは、自分の外に根拠を求めるのです。自分の外にある、確かな根拠を見いだすべきなのです。

キリストの出来事と聖書の御言葉。私たちにとって、これこそ、私たち自身の外にあって、もっとも確かな、全ての言動の根拠であります。私たちは、そのことを、ペンテコステの教会に連なる者として、信じるのです。

ここに立ち、大胆に、しかも真実に生きるために、私たちは、ペトロらと共に、今まで以上に、もっと大胆に祈る者でありたいと願います。

「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29~30)

私たち一人ひとりを、神は、大胆に用いてくださいます。私たちは、聖霊をもって大胆に私たち一人ひとりを用いてくださる神に向かって声をあげて、大胆に祈り続ける祈りの共同体として共に歩み続けることがゆるされているのです。

 

祈り

主なる神。大胆に主の御名と御言葉の上に立たせてください。大胆に祈り求める者とならせてください。大胆に行動し、語る者とならせてください。アーメン