主日礼拝説教「聖霊の示す道」 日本基督教団藤沢教会 2006年7月2日 10ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。 11アモスはこう言っています。 『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえられてその土地から連れ去られる。』」 12アマツヤはアモスに言った。 「先見者よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。13だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」14アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。 15主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。16今、主の言葉を聞け。あなたは、『イスラエルに向かって預言するな、イサクの家に向かってたわごとを言うな』と言う。 17それゆえ、主はこう言われる。 お前の妻は町の中で遊女となり 息子、娘らは剣に倒れ 土地は測り縄で分けられ お前は汚れた土地で死ぬ。 イスラエルは、必ず捕らえられて その土地から連れ去られる。」 (アモス書 7章10〜15節) 1アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。2彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」3そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 4聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、5サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。6島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。7この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。8魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。9パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、10言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。11今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。12総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。 (使徒言行録 13章1〜12節) アンティオキアの教会 ペンテコステの日に誕生した教会は、私たちの教会の基です。私たちの教会ばかりか、全ての《キリスト教会》は、ペンテコステの日に誕生したあのエルサレムの教会の末裔です。聖霊を受けて、出て行って大胆に宣教し、人々をキリストの弟子とした、ペンテコステの教会に、私たちの教会の原点があるのです。 しかしまた、使徒言行録は、このペンテコステの日に誕生した教会と共に、私たち《キリスト教会》にとって大切なもう一つの教会、第二の原点ともいうべき教会の誕生とその歩みを告げ伝えるのです。エルサレムから北方500キロメートルほどのところにあるアンティオキアという大都市に誕生した教会です。 私たちは、洗礼によって教会に連なり、キリスト信仰に生きる者のことを、自他共に「キリスト者」と呼びます。実は、そのような呼び方は、このアンティオキアで初めて用いられました(使11:26)。「キリスト者」という呼び名は、恐らく最初は、周囲の人々が教会の弟子たちを軽蔑して呼んだあだ名であったようです。熱心に、大胆に「キリスト」を喧伝する教会の人々は、明らかに周囲から異質な存在と見られ始めていたのです。けれども、教会の人々は、この「キリスト者」という蔑称を、自分たちの呼び名として誇りをもって用い始めました。自分たちが、世の人々とは違う基準、つまり、キリストによってもたらされた神のご計画を基準として生きる者であることを誇りとしたからです。 私たちは、「キリスト者」と呼ばれることを誇りとする者です。世の道ではなく、「キリスト者」と呼ばれる道に生きることを誇りとする。私たちは、アンティオキア教会の歩みの中から、この上なく特別な呼び名を受け継いでいるのです。 聖霊の示す教会の歩み 使徒言行録13章は、アンティオキア教会が世界宣教計画に着手した際の様子を伝えて物語っています(1~3節)。 アンティオキアの教会の人々は、バルナバとサウロ(=パウロ)を選び出し、新しい宣教計画のために送り出します。教会では、この計画を実行に移すために、すでに、綿密な調査や検討がなされていたのかもしれません。しかし、そのような教会の人々の動きは、ここには一切語られていません。教会がその計画を実行に移すかどうかを決断する上で最も大切なことは、それが聖霊の告げることかどうか、神のご計画かどうか、ということだからです。教会は、自分たちの思いや意志や考えによって、自分たちの歩む道を知るのではないのです。 このとき、アンティオキア教会の人々は、共に主を礼拝し、断食をしていました。礼拝こそ、神の御言葉を聴き、聖霊の示しを与えられるときです。ここで「礼拝し」と訳されている言葉は「レイトゥルゲオー」という、もともとは「民の務め」という意味の語です。アンティオキアの教会の人々は、このとき、神の民として、キリストの弟子として、なすべき務めを果たしていた、つまり、「キリスト者」として生きるべき道に立っていました。そして、そのような歩みを共にする中で、教会は、聖霊の示しを聴き取ろうとしていたのです。 また、この礼拝には、断食が伴っていたと告げられています。断食は、一定期間、食を断つ宗教行為です。しかし、大切なことは、苦行としての断食ではありません。断食によって、自分の内側を空っぽにすることです。自分の知識や知恵や経験や計画で自分の中を満たしておくのではなく、そこを空っぽにして、神からの糧をいただく備えをするのです。神の御言葉を聴くとき、聖霊の示しを待つとき、教会は、信仰的な断食をして過ごすのです。 そのような歩みのうちに、アンティオキア教会の人々が示されたことは、明確でありました。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」。教会は、その計画に仕える働き人を、自分たち教会のためではなく、神のために、神の召しに従って任命します。「彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」。そして、任命する二人に聖霊の導きがあることを祈って、また祝福を祈って、手を置きます。そうして、出発させる=解き放つのです。教会は、神の召しに従って働きに就かせられる働き人を、縛っておかないのです。神の働きに就く者はだれでも、ただ神のみに縛られ、神の務めのみに縛られるのであって、そのためには、教会からさえも自由に解かれている者でなければならないのです。 送り出される働き人 アンティオキア教会は、バルナバとサウロの二人を、神の召されていた働きに就かせるために、任命し、送り出します。困難が予想される伝道地へと、祈りのうちに、ただ聖霊の導きが与えられることを信じて、送り出したのです。 この二人は、自分たちがこの新しい世界宣教計画に召されていると、強く感じていたのでしょうか。そうかもしれません。キリスト教の歴史の中でも、多くの宣教師たちが、あふれるほどの熱意と使命感に燃えて、未開の伝道地へと送り出されてきました。私たち日本の教会も、そのような宣教師たちによって立ち上げられてきたのです。けれども、キリスト者の働き人=奉仕者にとって最終的に大切なことは、自分の熱意や思いや計画ではありません。自分の好みや考えに合っているかどうかではありません。本当に最終的に大切なことは、その務めが、神が前もって…決めておいた仕事であると信じること、召命を信じることです。そこに聖霊の示しがあると信じることです。 私たちは、必ずしも、自分の使えている働きや務め、奉仕が、神にあらかじめ決められたもの、召し、召命であると、確信をもって言える者ではないかも知れません。けれども、だからこそ、神の召命を信じて歩もうとするとき、神の働き人=奉仕者は、自分が、教会で任命され、仕えさせられる者であることを、重く受けとめるのではないでしょうか。教会を誕生させ、教会を教会として歩ませているのは、聖霊だからです。教会によって任命されるとき、教会から遣わされるとき、私たちは、神の御手の祝福のうちに務めを与えられ、聖霊によって送り出される「キリスト者」の道に歩む者であることを、心に深く受けとめたいと思います。 《主のまっすぐな道》への導き 教会から遣わされ、聖霊によって送り出されたバルナバとサウロが最初に取り組んだ仕事は、キプロス宣教、特に魔術師エリマとの対決でした。 エリマは、魔術師といっても占星術の学者(マタ2:1)とも訳される者で、当時の社会では一種の知識人のことでした。この魔術師エリマは、キプロスの地方総督と交際していたと紹介されています。しかも、その地方総督は賢明な人物であったといいます。エリマは、権力者のブレーンとして社会的地位を保っていたのです。 ところが、この地方総督が、サウロらの教えを聞こうとしたとき、魔術師エリマは、それを妨害しようとします。自分の地位を脅かされると感じたからでしょうか。聖霊に満たされたサウロは、彼をにらみつけて、言うのです。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか」(10節)。サウロが語るように、聖霊の示す道は、主のまっすぐな道です。聖霊を受けた教会に連なり、神のご計画にひたすら依って立ち、主のまっすぐな道を歩む「キリスト者」の歩みは、それ以外の何ものでもありません。ただキリストのみを基準とするまっすぐな道です。世の賢明な者が信用する知識さえ相容れない、異なる基準に立った道なのです。 世の知識を誇る魔術師エリマは、サウロににらみつけられ(=見つめられ)たとき、目が見えなくなってしまいます。そう、サウロもそうでした。ユダヤ人としての知識を誇っていたサウロもまた、見えていると思っていた目が見えなくなるという経験を経て初めて、信仰の目が開かれたのです。サウロは、魔術師エリマをにらみつけたとき、エリマの中に、自分のかつての姿を見たのかも知れません。そして、聖霊に促されるままに、激しくエリマの不信仰をとがめたのです。 魔術師エリマは、サウロの言葉のとおり、目が見えなくなります。そして、だれか手を引いてくれる人を探すのです。サウロも、かつてそうであったように…。エリマは、自分の手を引いて信仰へと導いてくれる人を見いだしたのでしょうか。サウロのように信仰の先輩に導かれて、聖霊の示す「キリスト者」の道に入っていくことができたでしょうか。聖書は、ただ、サウロが「時が来るまで日の光を見ないだろう」と告げたことを伝えています。聖霊の示す道を歩む者(=私たちの中の一人!)が、神の時を知り、神のご計画を知り、「エリマ」の手を引く務めに仕えるならば、彼の信仰の目が開かれるときがくる、ということでしょうか。 私たちは、この世にあって、多くの現代の「魔術師」たち、「エリマ」たちに囲まれて生きています。その人々の中にあって、現代の「エリマ」の手を引く導き手として仕えるように、召されている者もいるのかも知れません。ただ、私たちは、ひたすらに、聖霊の示す主のまっすぐな道を知り、神の召しに従って務めに仕える「キリスト者」としての道を歩み続けるように、招かれているのです。 祈り 主なる神。私ども教会を、奉仕者を、そして全ての者を、聖霊の示す道に歩ませてください。ただ主の務めにのみ仕える一人一人とならせてください。アーメン |
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