主日礼拝説教「神の恵みの下に」 日本基督教団藤沢教会 2006年7月9日 10エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。11「この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」12エステルの返事がモルデカイに伝えられると、13モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。14この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」15エステルはモルデカイに返事を送った。16「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」17そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。 (エステル記 4章10〜17節) 13パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。14パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。15律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。16そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。 「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。17この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。18神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、19カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。20これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。21後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、22それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』23神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。24ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。25その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』26兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。27エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。28そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。29こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。30しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。31このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。32わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。33つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。34また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した 聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。35ですから、ほかの個所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を 朽ち果てるままにしてはおかれない』と言われています。36ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。37しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。38だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、39信じる者は皆、この方によって義とされるのです。40それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。41『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』」 42パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。43集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。 (使徒言行録 13章13〜43節) パウロの説教 使徒言行録13章は、アンティオキア教会から宣教者として送り出されたパウロ(=サウロ)が語った説教を伝えます。パウロが、バルナバと共にキプロス島での宣教を終えて、再び大陸に渡り、小アジアでの宣教を始めた時期の説教です。 パウロとその一行は…ペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた(13~14節)。 パウロは、ユダヤ人たちが安息日ごとに集まって礼拝をささげる会堂に赴きます。初期のキリスト者たちは、神殿に詣でて祈りをささげたり、安息日に会堂に行って共に御言葉を聴く礼拝をささげることを、大切にしていました。パウロのような宣教者たちもまた、新しい宣教地で活動を始めるときには、まずユダヤ人の会堂や祈り場に赴いて、礼拝を共にすることから始めたのです。それは、彼ら自身がユダヤ人であったのですから、当然のことでした。しかし、彼らにとって大切なことは、ユダヤ人としての自分のアイデンティティを確かめることではなく、律法と預言者の書、すなわち聖書の告げる神の御言葉が語られ、それを聴く《会衆=民》のいるところに行くことでありました。私たちも、旅先で日曜日を迎えるとき、自分の歩んできた伝統と異なる教会であっても、そこが御言葉の語られ、聴かれる教会であれば、そこに喜んで向かう者であります。 律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った(15~16節)。 パウロらは、会堂長に指名されて、励ましの言葉(=奨励、説教)を語ります。 パウロは、そのとき、立ち上がって語り始めたとされています。私たちの習慣では、説教者が立って語るのは当たり前ですが、当時のユダヤ会堂では、聖書朗読は立って行われ、説教や奨励は座って語られるのが通例でした。しかし、わざわざここでパウロが立ち上がって語ったと描かれているのは、彼の不作法を指摘するためではありません。この「立ち上がる」と訳されている語は、「起き上がる、復活する」とも訳される語で、33節「…神はイエスを復活させ…」、34節「…イエスを死者の中から復活させ…」等と用いられるのです。復活を信じる信仰とは、座り込んでいた者が立ち上がることができるようになる信仰、床に伏していた者が起き上がることができるようになる信仰のことであります。パウロは、主イエスの復活を宣べる説教を、立ち上がって語らないではいられなかったのです。 民の歴史を語る 「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください…」(16~41節)。 立ち上がったパウロが会堂の会衆=民に向かって語り始めたことは、イスラエルの民の歴史です。そこに座っていた会衆には、イスラエルの人たちばかりでなく神を畏れる方々と呼ばれる異邦人の改宗者も含まれていました。その人たちにとって、イスラエルの歴史は他民族の歴史です。しかし、パウロは、その人たちに向かっても同じようにイスラエルの民の歴史を語るのです。なぜなら、それは、イスラエルの民の歴史であっても、イスラエルの民自身が何かを為した歴史なのではなく、神がイスラエルの民を救われた歴史、イスラエルに対する神の歴史であるからであり、それゆえに、全ての信仰者に対する神の歴史でもあるからです。 私たちには、国であろうと、民族であろうと、教会であろうと、家族であろうと、あるいは個人であろうと、歩んできた歴史があります。私たちは、その歴史を、どのように語るでしょうか。パウロは、イスラエルの民の歴史を語るとき、「イスラエルの民は」と語る代わりに、「神は」と語り続けます。自分たちではなく、「神」を主語にして、自分たちの歴史を語るのです。《自分》を中心にした出来事としてではなく、《神》を中心にした出来事として、自分の歴史を語る。《人の視点》からではなく、《神の視点》から、人の歴史を語る。パウロは、そのようにして、イスラエルの民の歴史、神の歴史、を語るのです。 神の計画を聞く そのように語られるパウロの説教は、私たちに、神のご計画を示します。イスラエルの民の歴史を通じて明らかにされた救いのご計画を、示すのです。 ところで、私たちは、自分の経験してきた過去の出来事や、現に今経験している出来事を語るとき、痛みや苦しみや悲しみや憤りといった自分の感情から離れられなくなることがあります。私たちの歩む道筋の中には、たくさんの試練や苦難、障害物や厄介者が入り込んでくるからです。そのようなものによって、私たちの計画が台無しにされるからです。私たちの守ってきたものが、存立を脅かされるからです。「こんなはずではなかった」という思いに捕らわれるのです。 そのようなとき、「こんなはずではなかった」という思いに捕らわれることから逃れる方法があるでしょうか。 一つは、忘れてしまうことです。自分にとって負の記憶を忘れてしまい、無かったこと、見なかったことにしてしまう。むしろ、自分にとって都合のよい事柄だけを、自分の歴史として積み上げていくのです。《自分の義》だけに目を向けて、そこに頼るのです。しかし、そのようにして自分の中にいわば《パンドラの箱》を作っていくようなことは、果たして健全なことと言えるでしょうか。《パンドラの箱》は、いつか、開かれなくてはなりません。立派な人生を送った人で、だれにも後ろ指を指されるようなことをしてこなかった人が、死の間際になって、自分の人生の中で犯してきた隠微な罪にさいなまれ、良心の呵責に耐え切れずに、赦しを乞う言葉を口にする、ということがあることを、私たちは知っています。《自分の義》に頼っては、私たちは決して救われないのです。 「こんなはずではなかった」という思いに捕らわれることから逃れる、もう一つの方法を知らなければなりません。神のご計画に耳を傾けることです。神は、イスラエルの民の為したことばかりか為さなかったことも、神に対する従順ばかりか不従順をも、御自分のご計画の中に取り込まれ、イスラエルの民を大いなる目標へと向かって歩ませられたのでした。私たちの為し得たことばかりでなく為し得なかったことも、善ばかりでなく過ちや失敗も、神は、ご自身のご計画の中に取り込んでくださるのです。 神の恵みの下に生き続ける 神の計画。それは、恵みの計画です。私たちの失敗や過ちさえもお用いくださる、恵み深いご計画です。「人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(30節)。 ドイツに「石切り」という、次のような小話があるそうです。石切場に二人の石切り職人がいて、石を切り出す単調な、忍耐のいる作業を続けていました。ある人が、「お前はそこで何をしているのか」と問うと、一人の男は、つまらなそうな、孤独な声で、「石を切っている」と答えるのです。ところが、もう一人の男にも同じように問うと、その男は喜びに満ちた声で、「わたしは教会堂を建てている」と答えたのです。そこで切り出された石が、教会堂を建てるという大きな目的のために用いられていることを、その男は知っていたのでした。 私たちは、深い意味で神の計画を知り、神の恵みの下に生き続けるのです。仕方なくそうするのではありません。パウロのように、立ち上がって語らないではいられないほどの希望をもって、神の恵みの下に、とどまるのです。喜びに満ちて石切り作業を続ける石切り職人のように、私たちは、試練の中にあっても、苦難の中にあっても、神のご計画に用いられることを信じて、神の恵みを告げる御言葉の下にとどまり続ける、そして、歩み続けるのです。 祈り 主なる神。主の恵みを告げる御言葉の下にとどまらせてください。主のご計画に用いられることを知る者として誠実に希望をもって歩ませてください。アーメン
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