主日礼拝説教「自由への召し出し」

日本基督教団藤沢教会 2006716

23わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。 わたしは遠くからの神ではないのか。

24誰かが隠れ場に身を隠したなら わたしは彼を見つけられないと言うのかと 主は言われる。

 天をも地をも、わたしは満たしているではないかと 主は言われる。

25わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。26いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、27互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。28夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。 もみ殻と穀物が比べものになろうかと 主は言われる。29このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。

30それゆえ、見よ、わたしは仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。31見よ、わたしは自分の舌先だけで、その言葉を「託宣」と称する預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。32見よ、わたしは偽りの夢を預言する者たちに立ち向かう、と主は言われる。彼らは、それを解き明かして、偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせた。わたしは、彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。彼らはこの民に何の益ももたらさない、と主は言われる。

(エレミヤ書 232332節)

 

2ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。3割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。4律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。5わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。6キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

7あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。8このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。9わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。10あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。11兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。12あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。

13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。14律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。15だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。        (ガラテヤの信徒への手紙 5215節)

《召し出された者》

現在、いくつかの組会や集会で読み進めているウィリモン著『洗礼』の中に、次のような話が出て来ます。

「わたしの友人の幼い弟の話です。あるときこの弟は、悪いことをしている現場を父親に見られてしまいました。父親はその子を問い詰め、どんな罰を与えようか、と脅かしました。すると、彼は背筋をピンと伸ばし、120センチのからだいっぱいに威厳をみなぎらせ、誇らしげに父親に告げたそうです。『パパはぼくに指一本ふれられやしないよ。だって、ぼくは洗礼を受けているんだから!』」。

この男の子は、自分が洗礼を受けた神の子だから、たとえ父親であっても神の子である自分に手出しをすることは許されない、と主張したのです。そして、この書物の著者ウィリモンは、この男の子が、「信仰や洗礼とは何であるかをよく知っていた」と解説しています。

私たちは、しばしば、これから洗礼を受けようという人に向かって、「洗礼は信仰のゴールではなくスタートです」と言います。私たちは誰も、信仰があるレベルに達したことが認められて初めて、洗礼を受けることを許可される、というのではありません。しかし、だからといって、洗礼を受けるということは、その人が信仰生活を開始するための単なる儀礼なのでもありません。

洗礼準備会で示される主イエスの御言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハ15:16)。ここには、信仰が神から恵みとして与えられたものであり、洗礼の決心に先だってキリストが選び出してくださっていたという真理が告げられています。そこで、キリストと結ばれる洗礼を受けるとき、その人はキリストに選び出された神の子であり、キリストと共同の相続人(ロマ8:17)であると、宣言されるのです。

 

《律法による義》からの自由

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」(ガラ5:13)

ガラテヤの教会の人々に書き送った手紙の中で、パウロは、何度か、「召し出す(招く)」という言葉を用いて、私たちが、神によって召し出された者であるということを示しています(1:6,155:8,13)。この「召し出す(招く)」という言葉は、「名を呼ぶ」という意味の語で、「教会」と訳される「エクレシア」という語のもとになっている語でもあります。パウロは、「召し出された」という言葉を、ほとんど「洗礼を受けた」ということと同じ意味で用いているようです。

パウロは、私たちが自由を得るために召し出されて洗礼を受けた、と言います。私たちが洗礼を受けて神の子として名を呼ばれるようになるのは、自由を得るためであるというのです。私たちは、果たして、洗礼を受けて自分が自由を得るようになったと実感しているでしょうか。そもそも、私たちは、洗礼を受けることと自由を得ることとを、結びつけて考えているでしょうか。

パウロは、ガラテヤの教会の人々に語ります。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(1~4)

ガラテヤの教会の人たちは、パウロの伝道によって信仰に入った人たちでした。異邦人でありながら、神の恵みによって信仰を得て、キリストに結ばれて生きることを始めた人たちでした。ところが、後から来たユダヤ人キリスト者の教えるところによって、彼らは、ユダヤ人と同じようになるために割礼を受けようとしていたのです。ガラテヤの人々は、そのことの意味を余り深く考えていなかったのかも知れません。けれども、パウロは、割礼を受けるということが、彼らの信仰の根幹に関わることだと見て、激しい語調のこの手紙を書き送ったのです。

パウロは、割礼を受けることは、律法によって義とされようとすることであり、自由を捨てて奴隷のくびきにつながれてしまうことだと言います。

律法によって義とされようとするとは、律法の示す行いを実行することによって自分の存在を認めてもらおうとすることです。パウロ自身、熱心なユダヤ教徒でした。かつて若いときには、自分の存在を認めてもらうために、熱心に律法を実行したことがあったのです。そして、ユダヤ教徒として優等生であったパウロは、それによって自分の存在が認められていると大いに感じていたのかも知れません。けれども、そのようなパウロが、キリストと出会ったことによって、全く違った仕方で自分の存在が認められることを知るようになったのです。自分自身が律法を実行することによってではなく、神がキリストによって召し出してくださるという仕方で、自分の存在が認められていることを知るようになったのです。パウロのこの経験こそ、まさに《自由を得る》ことでした。

最近しばしば、「優等生が生きにくくなっている」と言われます。自分自身で、「あれをしなければいけない」「これをしなければ認められない」という強迫観念に捕らわれ、身動きできなくなってしまうのです。パウロは、身動きできなくなるような心理状態にはならなかったかも知れません。けれども、恐らく、キリストと出会う前は、心の中が、自分自身で課した義務によってがんじがらめになっていたのではないでしょうか。だからこそ、キリストと出会って、ただキリストによって神に認めていただける、ということを知ったことは、そのような自分自身で課した義務から解放され、自由にされることであったのです。

パウロは、激しい語調で、語らないではいられません。ガラテヤの教会の人たちが、ただキリストによって神に認めていただけるという恵みの福音を台無しにして、自分自身で何かを為して認めてもらおうとするところに向かってしまうことを、黙って見過ごすわけにはいかなかったのです。

キリストにある《自由》へ

ただキリストによって神に存在を認めていただく、ということは、実際、この世の見方からするならば、保証のないことのようにも思えます。自分自身で実行して積み上げてきたことの方が、よほど確かな保証になるようにも思えます。けれども、私たちは、ただキリストによって神に自分の存在を認めていただけるという真理に依って立つために、パウロから二つのことを示されたいと思います。

「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」(5)

パウロは、キリストによって神に認めていただくことは、希望であり、待ち望むべきことだと言います。ある説教者は、「神を所有する者は神を待たない。神を所有しない限りにおいて、神は私たちにとって神である。忍耐をもって待つ者は、すでに彼が待つ者の力を受けている。今の時は待つ時である。そしてあらゆる時、いずれも待つ時である。」と語ります。十字架の上でひたすら神を待たれたキリストを思い起こします。私たちは、ただひたすら待ち望むということにおいて、真の意味で、自分の存在を認めてくださる神と出会い始めているのです。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(6)

…ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は…」(13~15)

律法によって義とされようとすることから自由になることは、自分自身で実行すべきことを自分に課して、その結果を評価する、ということから自由になることです。しかし、それは自由気ままに何をしてもよいということではありません。この自由は、キリストと出会い、キリストと結ばれることによってこそ得させられた自由なのですから、私たちは、キリストが私たちの内でお働きくださるということを受けとめなければなりません。私たちが自分で課したことを実行するのではなく、私たちの内でキリストがご自身の御言葉によって示されることを始めてくださるのです。召し出されたときから、「キリストがあなたがたの内に形づくられる」(4:19)ということが、私たち一人一人の内で起こっているのです。

ガラテヤの人たちは、この、キリストにある自由にとどまることができたのでしょうか。パウロは言います、「あなたがたが決して別な考えをもつことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています」(10)。これは、キリストにある自由にとどまっている者だけが言いうる言葉でありましょう。しかし、私たちもキリストにある自由へと召し出された者として、そこにとどまるならば、召し出された者の集う教会の交わりの中で、ただ主キリストをよりどころとして、互いに「あなたを信頼しています」と語ることができるのです。

 

祈り

主なる神。恵みによって召し出してくださり感謝いたします。主にある自由にとどまらせてください。主が私どもの内にお働きくださいますように。アーメン