主日礼拝説教「神の家の生活」 日本基督教団藤沢教会 2006年7月23日 1シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやって来た。2彼女は極めて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、3ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった。 4シェバの女王は、ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿を目の当たりにし、5また食卓の料理、居並ぶ彼の家臣、丁重にもてなす給仕たちとその装い、献酌官、それに王が主の神殿でささげる焼き尽くす献げ物を見て、息も止まるような思いであった。 6女王は王に言った。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。7わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。8あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。9あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです。」 10彼女は金百二十キカル、非常に多くの香料、宝石を王に贈ったが、このシェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くの香料は二度と入って来なかった。11また、オフィルから金を積んで来たヒラムの船団は、オフィルから極めて大量の白檀や宝石も運んで来た。12王はその白檀で主の神殿と王宮の欄干や、詠唱者のための竪琴や琴を作った。このように白檀がもたらされたことはなく、今日までだれもそのようなことを見た者はなかった。 13ソロモン王は、シェバの女王に対し、豊かに富んだ王にふさわしい贈り物をしたほかに、女王が願うものは何でも望みのままに与えた。こうして女王とその一行は故国に向かって帰って行った。 (列王記上 10章1〜13節) 3:14わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。15行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。16信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、 キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、 異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。 4:1しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。2このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、3結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。4というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。5神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。 6これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。7俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。8体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。9この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。10わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。 (テモテへの手紙一 3章14節〜4章10節) 《神の家》 使徒パウロが若き伝道者テモテに宛てたこの手紙は、「牧会書簡」と呼ばれる書簡の一つです。パウロが、教会の奉仕者(牧者)として仕える後輩伝道者のテモテに、牧会のポイントを教え伝えているのです。しかし、そこに記されている事柄は、単に伝道者のためのハウツーということにとどまりません。ここには、私たちが、教会という群れの中でいかに歩み、振る舞うべきか、また、物事をいかに進めるべきか、ということを教える、信仰の知恵が満ちているのです。 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です(15~16節)。 ここでパウロは、教会のことを意識的に神の家と言い表しています。家というのは、建物としての家屋のことでもありますが、そこに住む家族のことでもあります。ですから、福音書(マタ12:4など)を見ると、神の家というのは神殿とか聖所を指して言われていますが、ヘブライ人への手紙(3:2-6、10:21)では神の家の住人、つまり神の民という意味で、神の家という言葉が使われています。また、エフェソの信徒への手紙(2:19)では、同じ言葉が神の家族と訳されています。パウロは、「教会でどのように活動すべきか…」とでも言えば済むところで、わざわざ、「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」と言うのです。 世の中では、「教会」というと、会堂とか聖堂と呼ばれる建物のことを指す場合が多いようです。「ヨーロッパに行って、教会巡りをしてきた」と言っても、それは、教会の建物を見てきたという意味であって、決して、いろいろな教会の礼拝のハシゴをしてきたという意味ではないでしょう。もちろん、建物としての教会に意味がないわけではありません。たとえ観光目的であっても、多くの信仰者の歴史を刻んできた教会の建物に入るならば、そこで信仰を問われ、神に触れられるという経験をすることがあります。そこには確かに、信仰者の証しがあり、人を神と出会わせるために教会が築いてきた営みがあるのです。だからこそ、ヨーロッパの教会の人々は、しばしば、聖堂を神の家と呼ぶのです。 教会の建物自体が神の家と呼ばれるにふさわしいものとして整えられることは、確かに大切なことです。しかし、パウロは、そのような建物や、あるいは組織を維持していくための術を伝えたいのではありません。パウロが伝えたいのは、神に召された家族として、神の子らの交わりの中で、一人ひとりの信仰者が「どのように生活すべきか」、どのように振る舞うべきか、ということです。 私たちは各々、この教会という神の家の交わりの中で、いかに神の家族としてふるまい、生活すべきなのか、自分自身を吟味する者でありたいと思います。 《真理の柱であり土台である生ける神の教会》 私たちは、教会の交わりの中を歩みます。神の家族として、神の子とされた者として、神の家の住人として、生き続けます。私たちは、キリストと出会い、神が共にいてくださることを確かめる歩みを共にする信仰の兄弟姉妹を、与えられているのです。詩編の詩人が歌った「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩133:1)という言葉は、私たちの言葉でもあります。 けれどもまた、私たちは、教会という交わりの中で、どれほど、躓き、傷つき、苦しみ、弱り果てる経験をすることでしょうか。昔から、多くの牧会者たちが、若い伝道者たちに、「この世で起こることはすべて、教会の中でも起こるものだ」と忠告してきました。否、それどころか、「この世で起こること以上に酷いことが、教会の中では起こるのだ」とさえ警告する伝道者たちもいるのです。事実、かつて第一次世界大戦を経験したヨーロッパのキリスト者たちは、「キリスト教世界こそが、この世で最も酷いことを起こした」という痛恨の念のうちに、深い悔い改めへと導かれたのでありました。 パウロも、もちろん、教会の現実を深く知っている熟練した伝道者でありました。現実の教会に問題の多いことも、良く知っていました。事実、パウロの記した多くの書簡は、現実の教会の負っている深い傷に対する牧会のためのものでありました。しかし、パウロは、明確に、こう告げるのです。 「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」。 パウロは、きれい事を言っているのでしょうか。神の家とか神の家族などと言い、そこが真理の柱であり土台である生ける神の教会であるなどと言って、彼は、教会の現実から目を逸らそうとしているのでしょうか。いいえ、パウロは、教会の現実を知っているからこそ、このことをはっきりと告げて、確かめないではいられないのです。パウロは続けて言うのです。 「信心の秘められた真理は確かに偉大です。キリストは肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」(16節)。 教会とは、この真理が証しされているところです。このキリストに救われ、召された者が、集められ、それによってキリストを証ししているところであります。パウロは、自分自身についてこう語りました。「わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(1:16)。私たち一人一人も、同じなのです。罪人でありながら、キリストの限りない忍耐と憐れみを受け、命を与えられた者として生きる。共に生きる。互いに憐れみと忍耐を示しながら生きる。本当にはキリストにしかおできになれない憐れみと忍耐を、しかしそれでも精一杯応えて示しながら、共に生きる。キリストの憐れみと忍耐を証しするために、そのように生きる。それが神の家の生活であり、教会である。だからパウロは言いうるのです、「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」 神がお造りになったものはすべて良い… 私たちが、そのような神の家の一人として生き、神の教会を共に造り上げていく営みを続けることは、難しいことでしょうか。そうかもしれません。しかし、私たちはここで、神の家に生き続けることの難しさを、過大に受けとめすぎないようにすべきかもしれません。もちろん、憐れみに生きることができるならば、憐れみに生きましょう。忍耐することができるのならば、忍耐いたしましょう。そのようには、語りましょう。けれども、現実の教会の中で生きる私たちは、パウロが続けて告げる言葉にこそ、よく耳を傾けたいのです。 …神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです(4:1~5)。 創世記(1:31)に告げられているとおり、パウロも、「神がお造りになったものはすべて良い」と言います。しかし、世界には、決して「良い」とは言えないものが溢れているのではないでしょうか。人間が造り出したもの、世界自身、被造物自身が産み出したものが、邪悪、悲惨、暗闇、混乱、深淵をもたらしています。意を決して捨てるべきものが、私たちの身近にもどれほどたくさんあることでしょうか。捨てられるしかないような、どうしようもないものを、私たちは、いくらでもあげつらうことができるのではないでしょうか。否、それどころか、わたしたち自身のだれもが、本当は、捨てられるべきものなのではないでしょうか。 けれども、パウロは言うのです、「感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない」。神がお造りになったものは、本来すべて良いものであります。神がお造りになったものとして、感謝して受けるならば、何一つ捨てられるべきものなどはないのです。ただ、すべてのものを、神がお造りになった本来の良いものとして知ることができるとするならば、それは、私たちが、神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるからなのです。 私たちは、神の言葉を聴き、祈りに身を沈めるとき、今も、世界のすべてのものを良いものとして造り続けてくださっている神の御業に触れる経験をしているのです。私たちは、神の言葉によって始まる神の世界創造の出来事が、私たちの神の家の中での出来事として起こっていることを経験しているのではないでしょうか。私たちの救い主キリストは、神の家に生きる私たちを、そのような経験へと導いてくださっているのではないでしょうか。 …わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです(6~10節)。 今もここに生きて歩んでくださる神、キリストに希望を置いて、神の家の一人ひとりとして共に歩み続けることが、私たちにはゆるされているのです。 祈り 主なる神。お造りくださったすべての良いものに感謝いたします。あなたの御言葉によって聖め、神の家の一員にふさわしい者とならせてください。アーメン |
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