平和聖日礼拝説教「わたしたちの平和」 日本基督教団藤沢教会 2006年8月6日 24モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。25主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。 26宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。27一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。28若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。29モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」30モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。 (民数記 11章24〜30節) 14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。 (エフェソの信徒への手紙 2章14〜22節) わたしたちの平和 実に、キリストはわたしたちの平和であります(14節)。 今日、私たちが聴くべきことは、この御言葉に集約されています。キリストが、わたしたちの平和である。わたしたちの平和とは、キリストのことである。キリストこそ、わたしたちの平和そのものである。そのように告げられている御言葉の示す真理に向けて、私たち目は開かれなければなりません。 私たちは、この日を「平和聖日」と呼び、特別な思いで平和を願い、祈り、思いを新たにしようとしています。これは、私たちの国が歩んできた過去と深く結びついた営みであります。広島、長崎の原爆、そして敗戦の日々を迎えるこの季節を、私たちは、この国に生きる者として特別な思いで過ごさないではいられません。この国のキリスト者として特別な思いで礼拝に臨まないではいられません。 けれども、私たちは、この日だけ、キリスト者として、平和への思いを深くする、というものでもありません。あるいは、この季節だけ、キリスト教会が、「平和」ということに彩られた礼拝を守るというわけでもありません。元来、キリスト教会とそこに連なるキリスト者の営みはすべて、平和を祈り願い、平和のうちに生きることと密接に結びついており、切り離すことはできないのです。 日本福音ルーテル教会が用いている『礼拝式書』には、主日ごとの礼拝で説教が語られるとき、説教者が説教の初めに、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように」という言葉をもって祈るようにとの指示がされています。この言葉は、使徒パウロが書簡の冒頭(ロマ1:7、エフェ1:2など)で決まって用いている祝福の言葉ですが、ルーテル教会に限らず多くの教派教会で、説教の初めにこのような祝福の言葉が祈られるという伝統習慣が保たれてきました。日本基督教団に属する教会でも、近年になって、旧教派の伝統にかかわらず、良い習慣として見直され、取り入れる場合が増えているようです。 この説教冒頭に祈られる言葉にもあるように、キリスト教会の礼拝の一つの柱は、キリストの平和・平安を告げる営みにあります。その意味では、私たちは、すべての主日を「平和聖日」として迎え、すべての主日礼拝を「平和聖日礼拝」として守っている、と言ってもよいのです。 実に、キリストはわたしたちの平和であります。 主日ごとの礼拝に生きる私たちは、この御言葉を、私たちのすべての営みの中心に、しっかりと据える者でありたいと思います。 キリストは…平和を実現し… …二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました(14~15節)。 海外に自衛隊が派遣されるようになった最近ではすっかり耳にしなくなってしまったようですが、憲法九条は「日本が平和ならばそれで良い」という「一国平和主義」だから宜しくないのではないか、という議論がされてきました。「平和」が「戦争・戦闘の起こっていない状態」という意味であるならば、「一国平和主義」という名の利己主義は、責められるべきものかも知れません。 けれども、聖書が私たちに告げる「平和」とは、単に「戦争・戦闘の起こっていない状態」を指しているわけではありません。聖書で「平和」とは、「積極的に相互関係が構築されている状態」を指しています。ですから、キリストが実現してくださる真の「平和」とは、「わたしの平和」ではなく、「わたしたちの平和」です。「平和」は、二つに分かたれてしまっていたものが一つにされること、相互の敵意によって築かれていた隔ての壁が取り壊されること、また、規則と戒律ずくめの律法と呼ばれるような一方的に押しつけ合っていた自己基準が廃棄されることなのです。 この「わたしたちの平和」は、私たち自身の目から見るならば、本当に脆弱なものです。ある人が、「教会に来るのは、本当に疲れるから嫌になる」と言いました。なぜなら、「教会では、だれとでも仲良くし、気の合わない人とも争わずに我慢していなければならないから」。 私たちは、できることならば、自分の気の合う人とだけ付き合って、「わたしたちの平和」を分かち合う人は限定しておきたいと考えるものです。あるいは、最近の若い人たちの中には、人間付き合いを極端に断って引きこもり、「わたしの平和」だけ確保しておきたいと考える人が増えているとも言われます。いずれにしても、この世に出て行けば、多くの未知の人や異なる考えの人と接するわけですから、「平和」が保証されるわけではないのは確かです。そして、それは、実際のところ教会という場所でも同じなわけです。 問題は、教会では、私たちは「平和でなければならない」という圧力を強く感じてしまう、ということです。キリストはわたしたちの平和であるし、山上の説教にも「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタ5:9)と教えられているのですから…。真面目な人ほど圧力を強く感じ、それに耐えられなくなるということがあるかもしれません。 しかし、もちろん、私たちは、教会で、自分たち自身の力によって「平和」を実現するというのではありません。真の意味の「平和」は、キリストがすでに実現してくださっていて、私たちに分け与えてくださっている、と私たちは信じているのです。これは、私たちの理解を越えた、神のなさる神秘です。けれども、私たちは確かに、キリストが与えてくださる「平和」に与るという経験をいたします。永遠に心が通い合うことはないと思っていた相手と和解し、赦し合い、敵意が取り除かれることがあるのです。自分が正しいと信じて、他者にも押しつけていた基準から自由にされて、今まで見下していた相手の中に、かえって善いものを見ることができるようになることがあるのです。 ある説教者が、「教会には平和がある。それは台風の目のようなものであって、この世の嵐のただなかに平静な空間を作っている」という意味のことを語っているそうです。私たちは、真の意味でキリストこそが実現してくださる平和を信じ、身をゆだねるとき、「教会には平和がある」と語ることができるのです。たとえ欠けの多い人々の集まりであって、争いが無くなることはないとしても、「教会には平和がある」と信じることができる。それが、私たちの信仰です。教会の頭であるキリストが、わたしたちの平和であるからです。キリストが、私たちの平和を実現してくださる方だからです。 一人の新しい人に造り上げ… こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し(15節)。 私たちは、キリストにおいて一人の新しい人に造り上げられる、という使徒パウロのこの言葉を、深く心に留めたいと思います。 私たちが相争い合うのは、双方が自分の正しさを主張し、自分を基準として問題を解決しようとするからです。しかし、正しさの力比べをして得る勝利は、平和とは言えません。自分の基準を押し通して実現した相手との関係は、健全なものとは言えません。そのような物事の進め方は、結局、キリストを十字架に追いやった人々のやり方と同じなのです。 キリストは、私たち相争い合う双方を御自分において一人の新しい人に造り上げてくださる。これが、キリストが平和を実現してくださる仕方であります。私たちは、だれも、古いままではないのです。今までどおりの考え方や自分の基準にしがみついていたならば、私たちは、キリストにおける一人の新しい人に造り上げていただくわけにはいかないのです。古い自分を捨て、古い自分に死に、キリストによる新しい人に造りかえていただくのです。 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くに居る人々にも、平和の福音を告げ知らせられました(16~17節)。 使徒パウロが続けて述べているこの言葉を、私たちは、聖餐に与る者として、あらためて深く心に刻みたいと思います。キリスト教会は、古くから、聖餐のパンとぶどう酒に与る前に、「平和のあいさつ」を互いに交わしてきました。現在も、多くの教派教会が、ある程度儀式的ですが、「平和のあいさつ」を相互に交わし、主の祈りを唱えてから、聖餐のパンとぶどう酒に与ります。わたしたちは、聖餐で、「わたしの平和」ではなく、「わたしたちの平和」を実現していただくために、キリストの体に与るのです。「教会にはキリストの平和がある」と信じて、私たちは、互いに平和のあいさつを交わし、互いに赦され、赦し合う平和の交わりに生かされていることを感謝して、聖餐にあずかるのであります。 祈り
|
---|