主日礼拝説教「信仰の道」 日本基督教団藤沢教会 2006年8月13日 12イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、13わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。14見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。15主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。16心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。17あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、18孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。19あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。20あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。21この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。22あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。 (申命記 10章12〜22節) 1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。3あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。4あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。5また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。6なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 7あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。8もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。9更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。10肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。11およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 12だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。13また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。 (ヘブライ人への手紙 12章1〜13節) 平和への責任 最近、戦前責任という言葉と考え方が紹介されることがあります。長崎大学で平和学を教える高橋眞司教授が提唱した言葉で、若い学生たちに、こう語るのだそうです。「君たちに戦争責任はない。しかし戦前責任はある。誰にでも参政権がある。無関心、無自覚、無知な若い世代はまさに戦前責任を問われています」。 私たちの日本基督教団は、すでに四十年近く前に、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」という文書を、当時の教団総会議長鈴木正久牧師の名前で公にしてきました。かつての戦争で、キリスト教会が神から託された「見張り」の使命を果たすことをせず、「祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました」と告白したのです。けれども、ここで告白されている責任は、もちろん、あの戦争の時代にキリスト者であった人々とその教会だけに問われていることではないでありましょう。私たちは、今の時代に生きるキリスト者として、キリスト者としての戦前責任を問われているのです。 第二次大戦下のドイツで反ナチス闘争に加わったM・ニーメラー牧師の言葉として伝えられる、次のような詩があります。「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ教徒が、というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。私は教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかし、そのときにはすでに手遅れであった。」 私たちは、信仰者としての道を誤った先達の懺悔の告白を聞きます。信仰者として、信仰の道を整え直さなければならなかった先達の言葉を聞きます。この国の先達だけでなく、世界中の、あらゆるところで信仰の道を取り戻し、そこにとどまるために祈りに祈った信仰者たちのおびただしい群れがいることを、私たちは歴史の中から知らなければならないのではないでしょうか。 おびただしい証人の群れに囲まれて… ヘブライ人への手紙は、私たちが信仰の道に習熟し、信仰者として成熟していくことを教えます。「…キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう」(6:2~3)。そして、多くの信仰の先達の歩みを辿った後に(11章)、こう呼びかけているのです。 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められた競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか…(12:1)。 私たちにはそれぞれ、自分にとって大切な信仰の先輩がいるものです。直接あるいは間接に、自分の信仰に大きな影響を与えてくれた先達を、私たちは幾人も数え上げることができるでしょう。そして、私たちは、ときには、そのような尊敬する信仰の先輩たちのことを思い出しながら、「立派な信仰者だなあ…」などと思うこともあるかも知れません。そのように思う私たちの心の中には、たとえて言えば、尊敬できる「立派な信仰者」には表舞台に立っていてもらって、自分のような未熟な信仰者は観客席で拍手をしていたほうがよい、というような気持ちがあるのではないでしょうか。 ところが、ここに語られているのは、それとは全く逆の様子です。私たちが立派で尊敬に値すると考える信仰の先輩たちの方が競技場の観客席にいて、競争の走者として立たされている私たちの一挙手一投足に注目している。私たちは、信仰者として、そこにある競争路を、多くの先達の注視する中、走り抜けなければならない。観客席を埋め尽くしている信仰の先達=おびただしい証人の群れの期待と応援を受けとめながら、私たちは、そこを走らねばならない、というのです。 信仰とは、観客席にじっと座ったままで、舞台の上で上演されるものを楽しむようなことではありません。私たち自身が競争路に立たされて、衆人環視の中で、そこを忍耐強く走り抜く、と言われるとおり、信仰とは、私たち自身の生き方やふるまい方のすべてが問われることであり、それだからこそ、余計なものは出来る限り捨てて(=すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて)しまわなければならないのであります。 私たちは、そのような信仰の道に導き入れられている者であることを、あらためて深く心に留めたいと思います。 喜びを捨て、恥をもいとわないで… 私たちの信仰の道、競争路には、先導者があります。主イエス・キリストという、模範とすべき導き手があります。主イエスは、信仰の創始者であり完成者です。私たちは、その主イエスを見つめながら、信仰の道に習熟していくのです。 …走り抜こうではありませんか、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです(1~2節)。 ここに教えられている言葉から、主イエスの御言葉を思い起こします。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マコ8:34~35)。私たちは、キリストに導かれる信仰者として、まさに、主イエスが十字架を負われたように、自分の十字架を背負って従うよう招かれたのでありました。付け加える言葉も必要のないことです。しかし、その上で、このヘブライ人への手紙の語る言葉に耳を傾けたいのです。多くの説教者が注目する「恥をもいとわないで」という言葉です。 主イエスの十字架の死とは、恥をもいとわない行為であったと、この手紙は語っています。ある説教者(鈴木正久牧師)の言葉を借りるならば、それは、誇りとしうるものが一切取り去られ、名誉も奪われ、ただ犬死にすることを受け入れられた、ということです。しかし、そのことが、その行為の真実であることを示している、とその説教者は言います。「恥をいとわないということは、そういう誤解あるいは曲解に会っても、それに対して平気である、ということです。…キリスト…は、そのような誤解と曲解、自分自身が誤解せられ、曲解せられることに関して、全く沈黙した。一言半句も言わなかった。ということは、そういう時に、犬死にしてはつまらないというようなことで、弁解などを始めず、本当に我が道を行く、ということです。自分がしたことをまわりの人間がほめようが、くさそうが、そのまま進んでいった、ということが、あのキリストの十字架でした。」 私たちは、自分がいかに、キリストの十字架から遠いところにいるかを、思わずにいられません。恥をもいとわないどころか、自分の誇りと名誉を守ることに一所懸命になって、他方で他者に恥をかかせている。信仰の道から遠く離れている自分を見て、それこそ恥じ入らないではいられないのが、私たちであります。 まっすぐな道を歩く あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない…(4節以下)。 私たちは、信仰の道に導き入れられているとはいえ、やはり、幼児か反抗期の子どものように、主に甘えてばかりいるのだと思います。平和な時代であろうと、戦争・迫害の時代であろうと、私たちの多くは、結局、罪と戦って血を流すまで抵抗するような経験から逃れさせてもらっているのです。信仰の道の脇道に逸れても、無条件で元の道に戻ることをゆるしてもらっているのです。 けれども、私たちは、この手紙が私たちに告げるように、信仰の道に習熟し、信仰者として成熟させられることを、祈り求めたいと思います。私たちが、導き入れられた信仰の道を、自分の足でまっすぐに歩くならば、主は、その道筋で私たちを鍛錬し、鍛え上げてくださるからです。主の鍛錬を受け、信仰の道に習熟し、成熟した信仰者として生涯を終えられた多くの先達が、私たちを取り囲んでいます。私たちは、ただ、その中で、主であるイエス・キリストだけを見つめて信仰の道を歩ませていただくのです。 祈り 主なる神。私どもを、多くの先達の通った信仰の道に歩ませてください。世におもねるのでなく、恥をいとわず真実の道を歩む者とならせてください。アーメン
|
---|