主日礼拝説教「仕え合う家族」 日本基督教団藤沢教会 2006年8月20日 1 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。 歓声をあげ、喜び歌え 産みの苦しみをしたことのない女よ。 夫に捨てられた女の子供らは 夫ある女の子供らよりも数多くなると 主は言われる。 2 あなたの天幕に場所を広く取り あなたの住まいの幕を広げ 惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。 3 あなたは右に左に増え広がり あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ 荒れ果てた町々には再び人が住む。 4 恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。 若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。 5 あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 全地の神と呼ばれる方。 6 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように 主はあなたを呼ばれる。 若いときの妻を見放せようかと あなたの神は言われる。 7 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。 8 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。 9 これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないと あのとき誓い 今またわたしは誓う 再びあなたを怒り、責めることはない、と。 10山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。 (イザヤ書 54章1〜10節) 5:21キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。22妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。23キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。24また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。25夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。26キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、27しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。28そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。29わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。30わたしたちは、キリストの体の一部なのです。31「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」32この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。33いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。 6:1子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。2「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。3「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。4父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。 (エフェソの信徒への手紙 5章21節〜6章4節) 「互いに仕え合いなさい」 今日、私たちが聴いている御言葉の一部、エフェソの信徒への手紙5:22~33は、教会が執り行う結婚式で、ペトロの手紙一3:1~7、コロサイの信徒への手紙3:18~21などの聖句と並んで、「夫に対する教え」「妻に対する教え」として読まれてきた代表的な聖句のひとつです。ところが、近年の結婚式で、これらの聖句は、急速に読まれなくなってきています。それは、これらの聖句の教えが、現代的な人間理解からして不適当な教えだと考えられるようになってきたからです。 第一に、これらの聖句の教えは、現代人の基準からしてひどく性差別的だと指摘されてきました。確かに、いずれの聖句も、まず妻に対する教えが述べられ、続いて夫に対する教えが述べられていますが、その教えるところは、異口同音に、妻に対しては「夫に仕えなさい、従いなさい」、夫に対しては「妻を愛しなさい」というものです。この、夫と妻が区別され、どこか男性優位の雰囲気を醸し出している教えを、現代人の視点から「前近代的な過去の遺物だ」と言われれば、そのとおりかも知れません。 もちろん、そのような指摘がもっともだとしても、それによって、これらの聖句が御言葉としての意義を失ってしまうわけではありません。この聖句は、現代人の神学者が記した言葉ではなく、約二千年前の地中海世界に生きた一人の伝道者が記した言葉です。だとしたら、この聖句には、その時代、その世界の中で語られた言葉として聴き取り、知るべき真理があるはずです。 このエフェソの信徒への手紙に教えられている言葉は、当時の社会に生きる人々にとっては、驚くほど進歩的な言葉であったと言われます。当時、普通の女性の立場は、非常に脆く弱いものでした。そのような中で、特にこのエフェソ書では(他の手紙の箇所と大きく違うのですが)、妻が夫に対して何を為すべきかということよりも、夫が妻に対してどんな義務を負っているかということを忠告することに、多くの言葉を費やしているのです。しかも、ここで妻に向けて言われていることは、夫に対する一方的な服従ではありません。この教えの聖句に先だって、エフェソ書の著者パウロは、まず、こう述べているのです。 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい(エフェ5:21)。 結婚生活における妻の服従ではなく、夫と妻の相互の仕え合い。それが、ここに教えられていることです。言うまでもなく、それは、夫婦に限らず、私たちキリスト者すべての者に向けて告げられている教えです。パウロは、他の手紙でも、「愛によって互いに仕えなさい」(ガラ5:13)と教えていますし、ペトロの手紙は、「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(Tペト4:10)と教えています。何よりも、主イエスの御教えがあります。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マコ10:43~45)。私たちは、この主イエスの教えに基づく「互いに仕え合いなさい」という勧めの中で、今日告げられた御言葉を聴くのです。 「夫に仕えなさい」「妻を愛しなさい」 「互いに仕え合いなさい」。この教えを、パウロは、家庭生活の中にまで適用するように、私たちに告げて語ります。 「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい…」(5:22~24)。 「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい…」(5:25~28)。 パウロがここで、妻たちに向けてと、夫たちに向けてとに分けて、別々の言葉で教えているのは、確かに、当時の社会における男性優位の夫婦関係を前提にしているからなのでしょう。「夫は妻の頭だ」と、パウロは他の手紙でも語っています(Tコリ11:3)。そのようにパウロが語るのは、夫たる家父長を「頭」とするような家族制度が、当時の社会にあったからです。ですから、パウロがそのように語るからと言って、私たちが、当時の家族制度を現代に適用するべきだ、ということにはならないでしょう。けれども、家族の中にさえ支配し、支配されるという関係が明瞭にあった時代であったからこそパウロが語り得た、ひとつの真理を、私たちは、ここに示されていることを聞き逃してはなりません。 「キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」(5:23~24)。 パウロは、最初に、「主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」と告げて、すでに、夫に仕えることがキリストに仕えることの証しとなることを教えていました。主の御言葉を思い起こすならば、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25:40)という御教えを、家族の中で実践し、キリストを証しすることを教えている、と言っても良いでしょう。ところが、パウロは、そればかりか、「教会はキリストの体」(エフェ1:23)であり、その頭がキリストであるということを、夫婦の関係の中で証しするように勧めている、と言うことができるのではないでしょうか。それは、夫に対する勧めの言葉に、もっとはっきりと表されています。 「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の妻を愛さなくてはなりません。」(5:25~28)。 キリストが教会=私たちを愛してくださり、私たちをしみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く者として立たせてくださるために、御自分の命をお与えくださったように、夫は、妻を愛し、自分自身を与えて、聖なる信仰者としてキリストの前に立たせる使命を与えられているのです。いや、夫ばかりか妻にも、同様の使命を与えられていると言うべきです。キリスト者の家庭に、家族に、そのような、キリストの愛のお働きを証しする使命が与えられているのです。 「わたしたちは、キリストの体の一部」 パウロが語る言葉を辿っていると、彼にとっては、教会という団体も、家族という単位も、信仰者の交わりの場であるという点では、区別する必然性がなかったことが分かります。教会という群れがキリストの愛のお働きを証しする場であるように、信仰者の家庭も、キリストの愛のお働きを証しする場となるのです。 もちろん、現実には、私たちは、夫婦や親子といった家族関係においても、教会という場においても、なお、キリストの愛のお働きを証しするという使命を十分に果たし得てはいない、と言わざるを得ません。「キリストの体」と呼ばれ、また、神の家族(2:19)と呼ばれている教会でも、その教会の縮図として存在する信仰者の家庭でも、私たちは、キリストの体にふさわしい活動や、神の家族にふさわしい人間関係を、実現できているわけではないのです。 パウロも、教会や信仰者の家庭の現実を知らなかったわけではないでしょう。他の手紙を見れば、彼が現実の姿を良く知っていたことが分かります。けれども、それでもパウロは、力強く、こう宣言するのです。「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」(5:30)。あのコリントの教会に向けて、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(Tコリ12:27)と宣言したのと同じことを、パウロは、教会と信仰者の家庭に向けて宣言しているのです。 そのようにパウロが宣言できるのは、私たち信仰者の側に、ふさわしい者になる根拠があると見たからではありません。パウロは、ただキリストに対する畏れをもって、信じて宣言するのです。キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった、だから、教会の一人一人は、信仰者の家庭の一人一人は、キリストの体の一部として、互いに仕え合う交わりへと導かれるのだ…。私たちも、そのように信じて、パウロの宣言に「アーメン」と応えるのです。 「あらゆる人間関係は、それが親と子供、夫と妻、恋人や友人、共同体のメンバーの間のどんなものであっても、人間全体に対して、またとくに、個人に対して向けられた神の愛を表すものであるべきです。これはあまり一般的でないかもしれませんが、イエスの持たれている視点です。…イエスは、私たちが神の愛の生きた証しとなるよう、神からの召命を受けていることを明らかにしました。私たちはイエスに従い、イエスが私たちを愛してくださったように互いに愛し合うことによって、それを証しする人となります。このことは、結婚や友情、さらに共同体に当てはめると何を意味するでしょうか。それは、これらの人間関係を持続させる愛の源は、そのパートナー自身の内にではなく、パートナーとして共に召してくださった神の内にある、ということです。…私たちが、愛の源としての神を、飽くことなく、絶えず求め続けるなら、神の民への神の贈り物である愛を見出すことができます」(H・ナウエン『いま、ここに生きる』190~192頁)。 祈り 主なる神。キリストの体に招き入れられ、あなたに愛されている子として、互いに仕え合う、真の神の家族の交わりに生きる者とならせてください。アーメン
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