主日礼拝説教「聖霊を悲しませない」 日本基督教団藤沢教会 2006年8月27日 1
聞け、主の言われることを。立って、告発せよ、山々の前で。峰々にお前の声を聞かせよ。 2
聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。 主は御自分の民を告発し イスラエルと争われる。 3
「わが民よ。わたしはお前に何をしたというのか。 何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ。 4
わたしはお前をエジプトの国から導き上り 奴隷の家から贖った。 また、モーセとアロンとミリアムを お前の前に遣わした。 5
わが民よ、思い起こすがよい。 モアブの王バラクが何をたくらみ ベオルの子バラムがそれに何と答えたかを。 シティムからギルガルまでのことを思い起こし 主の恵みの御業をわきまえるがよい。」 6
何をもって、わたしは主の御前に出で いと高き神にぬかずくべきか。 焼き尽くす献げ物として 当歳の子牛をもって御前に出るべきか。 7
主は喜ばれるだろうか 幾千の雄羊、幾万の油の流れを。 わが咎を償うために長子を 自分の罪のために胎の実をささげるべきか。 8
人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。 (ミカ書 6章1~8節) 17そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、18知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。19そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。20しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。21キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。22だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、23心の底から新たにされて、24神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。 25だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。26怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。27悪魔にすきを与えてはなりません。28盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。29悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。31無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 (エフェソの信徒への手紙 4章17~32節) 新しい人を身に着ける そこで、わたしは主によって強く勧めます(エフェ4:17)。 あらたまった強い言葉で語り直すパウロが、エフェソの教会の人々にここで告げたいことは、古い生き方を捨て、新しい生き方を身に着けることであります。 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません(4:22~24)。 私たちにとって信仰生活を始める上で重要な起点は、洗礼を受けることです。迫害の厳しかった時代の教会では、洗礼を受けなければ参加することが許されない集会というものが、多くあったようです。私たちの教会では、洗礼をすでに受けた者も、まだ洗礼を受けていない者も、礼拝や集会など大抵の場面では、区別されることはありません。中には、信じているけれども、洗礼を受けなくても聖餐に与ることができないだけだし、教会員としての責任を負いたくないから、洗礼は受けない、という人もいます。それでも教会は、その人が教会の中にいてくれることを良しとするでしょう。しかし、そうだとしても、やはり、洗礼を受けるということは、信仰者としての生活が新たに始められる重要な機会であります。 洗礼式に際して受洗者に白い衣を着せるという習慣が古代教会で始まり、現代も受け継いでいる教会があります。パウロが、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラ3:27)と教えたことに従って、洗礼を受けた者が、古い自分を脱ぎ捨て、キリストという新しい人を身に着けて歩む歩みが始まったことを、白い衣を着せることで象徴的に示したのです。 キリスト者として、キリストに従う弟子として、信仰の歩みを歩むとき、私たちは、今までどおりの生き方やふるまい方、その姿を通すのではなく、むしろそのような古い自分の姿を捨てて、信仰者としての新しい姿を身に着けて歩むことを覚えていくのであります。 もちろん、それは、日曜日に教会に来るときだけ着るような「日曜日の晴着」ではありません。もちろん、週に一度の日曜日を主の日としてキリストにささげるということを大切にするために、「日曜日の晴着」のような習慣を持つことも、意味のあることでしょう。けれども、もっと大切なことは、与えられた新しい人=キリストを、毎日、毎時、着続けることでありましょう。 それは、「晴着」のように、どこか日常生活の中ではしっくり来ないように感じられるものかもしれません。自分にはぴったりのサイズではない、むしろ非常に大きすぎる服のように感じられるかもしれません。それは、《キリスト・サイズ》なのですから、当然です。しかし、最初は自分の体に合わないと思っても、これを着続けることが大切でありましょう。たとえが悪いかもしれませんが、馬子にも衣装、と言います。また、器が人を造る、とも言います。私たちは、キリストという新しい人を着させていただくことによって、キリストという目標を与えられて、成長させられていくのです。 古い人を脱ぎ捨てる パウロが告げることは、新しい人=キリストを身に着けるように、ということです。そして、そのために、古い人を脱ぎ捨てなければならないということを、パウロは語るのです。彼は、古い人の生き方を、異邦人の生き方として語ります。 もはや、異邦人と同じように歩んではなりません(17節)。 パウロは、ここで、異邦人という言葉を、この世の人々、信仰を持たない人々のことを指して用いています。洗礼を受けてキリスト者として生きるとは、洗礼を受けていないこの世の人々とは違う生き方を始めること、少なくとも、この世の基準とは異なるものを目標にして生きるようになること、であります。 そのような私たちのキリスト者としての生き方を、しっかりととらえているためには、私たちは、信仰以前の自分の生き方、この世を基準とした生き方が、いかなるものであったかを、知る必要があります。 彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけって…(18~19節)。 パウロは、信仰に入らないこの世の人々が愚かな考えに従って歩んでいる、と言います。むなしい心で歩いている(口語訳)ということです。現代の世俗的なものの見方では、宗教や信仰というのは知性や理性を犠牲にした生き方であるかのように言われることがあります。しかし、パウロが言うのは、まさに反対の状態です。確かな宗教を持ち、真実の信仰に生きることこそ、確かな考えや定まった心を持ち、知性を明るくすること。信仰に入らないこの世の人々こそ、確かな考えを持たずに生きている、というのです。 しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです(20~21節)。 私たちにとって、生き方を定める確かな考えとは、キリストのことであります。キリストその方を学ぶことこそ、私たちが確かな考えを得て、心を柔軟にし、感覚を研ぎ澄ませて、真理に根ざした揺らがない生き方を導かれる道なのです。 聖霊を悲しませない キリストを学んだからには、もはや信仰以前の異邦人のような古い自分の姿を脱ぎ捨てて、新しい人=キリストを身に着けて生きるのは、当然のことのようにも思えます。そして、パウロが具体的に書き綴る新しい生き方(25節以下)を、私たちは、もちろん、新しい人=キリストを身に着けて生きる者の姿として、きちんと受けとめようと思います(25~29節)。 パウロがここで続ける信仰者の生き方についての具体的な勧めを、私たちは、一節ずつ丁寧に聴くべきかもしれません。しかし、今は、ただ二つのことに注目して聴き取りたいと思います。 第一には、パウロが新しい人を着た信仰者の生き方として具体的に語るのは、すべて他者隣人との関係の中での生き方ふるまい方についてである、ということです。私たちは、ただ自分の幸福感のために信仰を得させていただいているのではありません。むしろ、他者隣人との新しい関係、この世の考えとは違う関係を生きるために、キリストを学び、新しい人を着させていただいているのです。 第二のことは、その他者隣人との関係の中で、私たちがどのような言葉を語るべきか、ということが繰り返し教えられている、ということです(25節、29節、31節)。パウロは、私たちが語るべき言葉は、キリストによって与えられていると、私たちに教えます。キリストこそ、神の御言葉を私たちに確かに教えてくださった方であり、キリスト御自身が神の御言葉と信じられるようになった方なのです。私たちは、そのような方であるキリストを新しい人として身に着けるとき、語るべき言葉を与えられているはずなのです。私たちにとっては、旧新約聖書として与えられている言葉です。この御言葉を、私たちは、本当に自分の語るべきときに用いることができるほどまで、繰り返し聴いているでしょうか。様々な情報が溢れている現代社会の中で、私たちは、余計な言葉ばかり自分の心に刻みこんでいて、肝心のキリストの御言葉を軽んじているのではないでしょうか。 あらためて、パウロがここで、特に古い人の姿を描き出して私たちに語っていることの重みを、受けとめたいと思います。私たちは、新しい人を与えられ、着ることを知るようになった今も、いつのまにかその新しい人をまた脱いでしまって、昔馴染んだ古い人を着込んでしまう、ということを繰り返しているのです。あるいは、新しい人を着ているように見せかけて、自分でも着ているつもりになっていて、実は、その新しい人の下には、昔からの古い人を下着のように着ている、というようなことをしているのです。 私たちは、自分の現実の姿を、開き直って語ることもできるかもしれません。けれども、パウロは、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(30節)と、私たちに語ります。神が、新しい人=キリストを身に着ける者を、聖霊によって成長させてくださるはずだからです。「聖霊を悲しませてはいけません」。聖霊に生かされているパウロもまた、聖霊と共に、「悲しませないでくれ」と語っているかのようです。いや、わたしたちもそうではないでしょうか。お互いに、新しい人を着させていただいている者として、聖霊を注がれて成長させられている者として、キリストに向かって成長することをやめてしまう者を見たならば、古い人を着込んで開き直っている者を知ったならば、私たちは、悲しまないではいられないのではないでしょうか。 私たちは、聖霊によって互いにキリストの体の一部です。ひとつの新しい人=キリストを共に身に着ける群れとして、私たちは、互いにおぼえ合い、キリストに向けて成長させられていくことを祈りあう歩みへと導かれているのです。 祈り 主なる神。真の義と聖であられるキリストを新しい人として身に着けることを許され感謝します。私どもをキリストに向けて共に成長させてください。アーメン |
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