主日礼拝説教「主の言葉を聴こう」

日本基督教団藤沢教会 200693

1:わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。

 わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。

2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。

 その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。

 しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。

3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ

 わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。

4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで

 何か、しなかったことがまだあるというのか。

 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに

 なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。

5 さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。

 囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ

6 わたしはこれを見捨てる。

 枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。

 雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。

7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑

 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。

 主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに

 見よ、流血(ミスパハ)。

 正義(ツェダカ)を待っておられたのに

 見よ、叫喚(ツェアカ)。                     (イザヤ書 517節)

 

44次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。45しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。46そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。47主はわたしたちにこう命じておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、

 あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」

48異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。49こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。50ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。51それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。52他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。      (使徒言行録 134452節)

 

主の言葉を聴こうとして…

パウロとバルナバは、シリア州アンティオキアからキプロス島に渡って最初の伝道活動を行い、続いて大陸に戻り、ピシディア州のアンティオキアという町にしばらく滞在しました。そこにはユダヤ人の会堂がありました。二人は、安息日に行われる礼拝に加わって、そこで、ユダヤ人として奨めを語ることができたのです。もちろん、彼らが会堂に集う人々に告げたのは、従来のユダヤ教の教えではありませんでした。聖書の御言葉による使信であることはユダヤ教と同じであっても、彼らの告げる言葉の中心は、キリストの福音であったのです。キリストによって神の恵み深いご計画が実現された、「神はイエスを復活させて約束を果たしてくださった」(33)「信じる者は皆、この方によって義とされる」(39)と、二人は語ります。それは、聞いた者の心をとらえる使信でした。人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ(42)のです。そして、集会が終わってからも、二人と語り合い続ける多くのユダヤ人や神をあがめる改宗者(43)が残ったのでした。二人は、結局、その人たちに、神の恵みの下に生き続けるように勧め(43)て、引きあげて行きました。

新しい伝道地に入った二人にとって、恵まれた安息日の一日でした。もちろん、その日会堂に集った人々にとっても、恵まれた一日でした。人々は、パウロの勧めに従って、迎えた新しい一週間を、神の恵みの下に生き続ける=とどまることに心を用いて過ごしたに違いありません。語った者も、聞いた者も、御言葉に聴く礼拝を終えてなお、その恵みの御言葉から離れずに、神の恵みの下に歩む歩みを日々過ごしたのです。それは、語らずにいられない恵みの御言葉を、人々に告げ伝える日々となったでありましょう。否、むしろ、多くを語らずとも自ずと周囲の人々に神の恵みを告げ伝える、証しの生活であったのではないでしょうか。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まってきた(44)のです。「ほとんど町中の人が」というのは大げさかもしれません。しかし、パウロらは、次の安息日に、自分たちが宣伝して回っただけでは到底集めきれないほど多くの聴衆と、会堂で出会うことになったのです。

教会の伝道が進展するかどうかは神の御心次第でありましょう。教会は、神の御業として伝道が行われるときにのみ、成長発展するのです。けれどもまた、教会は、一人一人が神の恵みの下にとどまり続け、神の御業に用いられるように歩み続けるときにこそ、まさに神の御業としての伝道が進展することを経験してきたのです。私たち皆が、週に一度日曜日の礼拝のときだけでなく、そこから始まる一週間の歩みを、本当に徹底して御言葉にとどまり、神の恵みの下にいることをおぼえ続け、身をもって神の御業の行われることを証しして歩むならば、私たちは、次の主日に、驚くべき光景を教会堂で見ることになるかもしれないのです。

 

ねたみ

恵まれた安息日の一日から始まった恵みに満ちた一週間が過ぎ、迎えた次の安息日、会堂には溢れんばかりの人々が集まりました。もちろん、前の安息日に会堂に集って礼拝を共に守ったユダヤ人や改宗者たちも、いつものとおり集まってきていましたが、この日は、普段寄りつきもしないような人々で、会堂が一杯になっていたのです。私たちの教会で起こったならば、うれしい悲鳴が聞こえてきそうな状態です。ところが、パウロらの会堂では、ここで悶着が起こったのです。

しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した(45)

一週間前には、パウロらの話を静かに聞いていたユダヤ人たちです。反対するどころか、むしろ心とらえられ、好意的に受けとめ、次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだユダヤ人たちです。そのユダヤ人たちが、この日は、パウロらを口汚くののしり、反対し始めたというのです。

一週間の間に何かあったというのでしょうか。そうではありません。ユダヤ人たちにとっても、この一週間は、神の恵みの下に過ごしたときであったのです。ところが、この日、会堂に集ってきた彼らは、ねたみの心を燃やし始めたのです。自分たちの会堂に、普段は寄りつきもしないのに、この日ばかり集まってきた群衆を見て、ひどいねたみの心を抱き始めたのです。そして、そのねたみの矛先は、パウロらに向けられたのです。彼らは、手のひらを返したようにパウロらを口汚くののしり、反対行動を始めたのです。

《ねたみ》という感情は厄介なものです。《熱心さ》とか《真面目》ということと、根っこでつながっているからです(「ねたみ」と訳されている語は「熱心」とも訳される語です)。人一倍熱心であり、真面目に取り組んでいるからこそ、自分が認められていないと感じるときに、ねたみの心が起こってくるのです。

パウロの話を聞いたユダヤ人たちは、比較する相手が見えていなかったときには、彼の言葉を喜んで聞いていました。「信じる者は皆、キリストによって義とされるのです」と告げられたときも、彼らは、「そうだ、自分たちは生まれながらのユダヤ人で、信仰者だから、義とされる、正しい者と認められる、そのとおりだ」と、喜んで聞いていたのでしょう。ところが、次の安息日、普段は安息日を守ることもしない大勢の異邦人、不信仰な者たちが、パウロの話を聞こうと集まってきたとき、突然、気づいたのです。「おいおい、この連中も、今日突然会堂に集まってきて信仰者面をしてるからって、義とされる、正しい者と認められる、って言うんじゃないだろうな。冗談じゃない。一緒にされてたまるか!」。

弟アベルの献げ物が主に受け入れられたことをねたんだ兄カイン(4)。父ヤコブが溺愛する年少の弟ヨセフをねたんだ十人の兄たち(37章以下)。ペリシテ人との戦いに勝利して凱旋し、民衆に大歓迎されたダビデをねたんだサウル王(サム上18)。主イエスが弟子たちに語られた放蕩息子の譬えの中に描かれる、父親に仕え続けてきた兄息子の、放蕩の限りを尽くした弟へのねたみ(ルカ15:11~32)。聖書は、人間のねたむ心の根深さを、私たちに語り続けています。ねたみの心こそ、私たちの主の言葉を聞くべき耳を閉ざし、主の恵みの御業を見るべき目を覆い、私たちの心を自分という小さな世界に閉じこもらせてしまうのです。

 

神の言葉は、あなたがたに語られるはずでした…

パウロらは、ねたみから口汚くののしり始めたユダヤ人たちに告げます。

「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」(46)

パウロらの言葉は、厳しい言葉です。滅びの宣言のようにも聞こえます。実際、二人は、ユダヤ人たちに背を向けるようにして言うのです、「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」(46)。もちろん、パウロらの真意は、彼らが滅んでも良いということではないでしょう。パウロは、「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるのです」(ロマ11:25~26)と述べてもいるのです。

しかしながら、ユダヤ人たちは、このとき確かに、ねたみの心によって自らの心を閉ざし、神の言葉を拒んでしまっていたのです。神の言葉を聞くことができなくなれば、人は、神との交わりを持つことはできません。神の永遠の命に希望を抱いて生きることもできません。彼らユダヤ人が、ねたみの心を解いて、神の言葉を聞き取ることができるようになるには、神のときを待つしかないのです。

 

主の言葉を聴く群れの成長

異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った…(48~49)

ユダヤ人と異邦人。同じパウロの話を聞いた人々について、使徒言行録は対照的に描きます。ユダヤ人は、パウロの説教を主の言葉として聴き取ることができなかったのです。同じ説教を聞いた異邦人は、それを主の言葉として聴き取ったのでした。そして、この結果の違いは、ねたみの心を起こしたかどうか、自己を高めようとする我欲にとらわれたかどうか、ここに分かれ目があるというのです。

私たちは、主の言葉、神の言葉を聴くことができているでしょうか。説教者の語る言葉を、神の言葉として聴き取っているでしょうか。語る者も、聞く者も、共に、ここで語られる言葉が神の言葉として聴かれるようになるために、自分を低くして祈っているでしょうか。説教を聞く者は、説教者が神の言葉を語る者として立てられるように、説教者のために祈っているでしょうか。説教者は、説教を聞く者が神の言葉を聴き取ることができるように、聴く者のために祈っているでしょうか。私たちの願いは、私たちの深い悔い改めをともなう祈りのうちに聖霊が生き生きとお働きくださるとき、私たちが、この群れの中で語られる言葉のすべてを、互いに、主の言葉、神の言葉として聴き取る者とされることです。

主の言葉を聴こう。このことのために、教会の営みがもっと深く祈りに根ざすものとされるよう、私たちは祈りに祈り、聖霊に満たされることを求めるのです。

 

祈り

主なる神。私どもを恵みの下にとどまらせてください。ここで読まれ、語られる言葉を、主の御言葉として深く聴き取る群れとならせてください。アーメン