主日礼拝説教「もっと大きな賜物を!」

日本基督教団藤沢教会 2006910(修養会)

1 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。

2 わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き

 バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた。

3 エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。

 しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。

4 わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き

 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた。

5 彼らはエジプトの地に帰ることもできず アッシリアが彼らの王となる。

 彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。

6 剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち たくらみのゆえに滅ぼす。

7 わが民はかたくなにわたしに背いている。

 たとえ彼らが天に向かって叫んでも 助け起こされることは決してない。

8 ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。

 イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。

 アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。

 わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。

9 わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。

 わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

  (ホセア書 1119節)

 

27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。29皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。30皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。31あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。13:1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。4愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。8愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

     (コリントの信徒への手紙一 1227節〜1313節)

「賜物」共同体

コリントの教会に対して、パウロは、繰り返し、長い手紙を送ったようです。それには、理由がありました。コリントの教会では、パウロが去った後、教会の内部で対立やもめ事が頻繁に起こっていたのです。しかも、パウロの後にコリントを訪れて教会を指導したアポロや、大使徒ペトロなど、指導者の誰につくのかということで相対立しているような状態でしたから、パウロ自身も教会の混乱に巻き込まれてしまっていたのです。そのような中で、パウロは、繰り返し手紙を送り、教会の歩みを整えるための教えを語らなければならなかったのです。

パウロは、この手紙で、コリントの教会の問題に対する指導を記しながら、「教会とは何か」ということを述べます。そして辿り着いたのが、12章で詳しく語られている「賜物」の教えです。

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです(12:4~7)

教会を《賜物共同体》と呼ぶことがあります。パウロが、ここで教えているようなことに基づいて、そう呼ばれるのです。

賜物とは、新約聖書の言葉では「カリスマ」という語です。私たちが、特別な能力(神業?)を持った人を指して言う「カリスマ」の語源となった語です。もともとは、恵みという意味の「カリス」からできた語で、「恵みとして与えられるもの、贈り物」という意味で用いられるようになりました。この「カリスマ」という語を、パウロは、特に「神から恵みとして与えられる贈り物」という意味で用いました。日本語では特に敬語表現で「賜り物=賜物」と訳しているのです。

パウロは、教会の働きや務めを担う人々の能力を、その人自身の能力と言わずに、それは神からの賜物だと言いました。その意味で、それは霊的な賜物=霊的なもの、12:114:1であり、本来神に属する力(=神業!)なのだと言うのです。そして、そのような神から与えられる賜物の器としてキリスト者は召され、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった(12:13)、だから、一人一人に与えられている賜物は違っても、優劣はなく、ただ一つの体キリストの体の働きに仕える部分として、互いに尊重し合い、互いに支え合う。そのような《賜物共同体》として教会を理解するならば、教会の中で主導権を争って対立したり、自己主張を通そうとして他の人を蔑ろにしたり、自分勝手な行動で周りを振り回したり、というようなことは起こりようがないではないか。パウロは、そのように教えているのです。

「あなたがたはキリストの体…」

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です(27)

この言葉は、《賜物》に基づく教会のあり方を言い表す、一つの頂点のようなものだと言えます。この一句を取り上げて、教会というものを語ることさえ、できるかもしれません。そのような一句を述べた後に、パウロはこう続けるのです。

神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです(28)

多くを説明することはできませんが、パウロは、恐らくこの時代の教会の中で働きや務めを与えられていた人々を例を挙げているのです。実は、すでに12章の前半でも挙げていたものです(8~10)。最初の三つの使徒、預言者、教師は、すべての教会に共通の、教職制度のもとになるような役職として確立し始めていた務めと考えられます。後のものは、教会によって有ったり無かったりする務めであったようです。いずれにしても、パウロは、霊の賜物に基づくキリストの体としての教会では、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分もなく、皆互いに神の前に等しい一人一人として尊重されるのだけれども、それでもなお、賜物に応じて、一人一人の教会での働き務めは異なるのだと、あらためて例を挙げながら告げているのです(ロマ12:3~8も参照)

私たちは、教会活動のあり方を考えるときに、「教会の奉仕は、教会員の誰でもが出来るものにしなければいけない」などと考えます。どの奉仕についても、一人一人ができるだけ平等に分担すべきだというのです。けれども、パウロの教える《賜物》に基づく教会では、教会の奉仕の務めは、そのようには考えられてはいません。働き務めのための賜物は、一人一人に別々に与えられているので、《賜物リスト》のようなものから各自が自由に選んで奉仕をするというようなわけにはいかない、というのです。

皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか(29~30)

パウロは、初めから、賜物についてきちんと教えていなかったのでしょうか。そうかもしれません。彼は、初めからこのことを教えなければならないと思わなかったのかもしれません。キリストの体として結ばれる洗礼を受けた一人一人であれば、当然、キリストの霊に従って、分裂など起こさずに、自分勝手などせずに、教会の働きに仕えるようになると、パウロは考えたのかもしれません。しかし、彼は、コリントの教会に宛てて、あらためて丁寧にこのことを語って教えなければならなかったのです。コリントの教会の中で、一人一人の者が、神から与えられる賜物に従って歩むことをせず、むしろ、自分の所有するものに従って歩み、バラバラになってしまっていたからです。あるいは、賜物も、神から与えられる「賜り物」としてよりも、各自が自分のものとして獲得しようとするものとして見られるようになってしまっていたのです。

「もっと大きな賜物を…」

あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい(31)

パウロは、「もっと大きな賜物を…」と呼びかけます。しかし、それは、コリントの教会の人々が求めていたような、自分で自由に《奉仕リスト》の中から選ぶことができるような賜物をレベルアップして受けなさい、という呼びかけではありません。自分に与えられている賜物では不満だから、もっと自分の満足の大きな賜物を与えられるように求めなさい、というのでもありません。

パウロは、先に進んだところで、皆が熱心に求めるべき賜物は、預言するための賜物だと、明確に勧めています(14:1以下)。御言葉の賜物、御言葉を語る賜物を求めなさい、というのです。しかし、そのことを述べる前にパウロが立ち止まって語ったことに、私たちは、今は耳を傾けることにしたいと思います。それは、私たちがすでに深く心に留めて、「愛の賛歌」などとも呼んできた、13章の御言葉です。すでにパウロの時代に、教会で歌われるようになっていた讃美歌の歌詞に基づくものだとも言われる、御言葉です。

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも…。…それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(12:31~13:13)

パウロは、「愛の賛歌」によって、を語ります。キリスト者が、キリストのゆえに導き入れられている愛のを語ります。私たち一人一人は、人間としては、まったく真の愛にふさわしくない者かもしれません。しかし、そのような私たちが、神からの賜物を与えられ、その賜物を用いて生きる場として教会を与えられ、キリストの体部分とされているのです。真のの方であるキリストの体の一部分とされているのです。一人一人のが欠けの多いものであっても、謙遜に《賜物》共同体に生きるとき、この世にあって神のを証しするキリストの体として、に生きる者とされているのです。

ここに、私たちは、パウロの言う「もっと大きな賜物」の意味を知るのではないでしょうか。に欠けた者が、キリストの体の一部分とされ、真の神のを証しする器として生きることがゆるされている。私たちは、神から与えられている賜物を、過大に見るのでも過小に見るのでもなく、誠実に認め、それに仕え、用いさせていただくことに忠実に生きる。そのとき、私たちは、この交わりの中で、に満ちたキリストの体というもっと大きな賜物を受けることになるのです。私たちは、ただ、各自が自分に与えられている賜物に忠実に生きることによって、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努める者となるのです。

 

祈り

主なる神。一人一人を賜物に忠実に歩ませてください。共にもっと大きな賜物を受けてキリストの体として主の愛を証しする教会とならせてください。アーメン