敬老の日合同礼拝説教「キリストにささげる人生」 日本基督教団藤沢教会 2006年9月17日 35イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。36ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。 『主は、わたしの主にお告げになった。 「わたしの右の座に着きなさい。 わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』 37このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。 38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 (マルコによる福音書 12章35〜44節) 「敬老の日」 今日は、年に三回行っている合同礼拝(教会学校礼拝と主日礼拝)の二回目、「敬老の日合同礼拝」です。六月に行ったのが「子どもの日花の日合同礼拝」で、特に子どもたちのことをおぼえて、神の家族として一緒に礼拝をささげました。今日は、特にご高齢の方たちのことをおぼえて、一緒に礼拝をささげています。 聖書に、「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である」(レビ19:32)という御言葉があります。神さま御自身がお語りになられた言葉として聖書に記されている御言葉で、神さまを信じるあなたたちは、白髪の人の前ではきちんと起立していなさい、ご高齢の人を敬いなさい、と命じられています。大切な、神さまからのご命令です。 けれども、私たちは、ただ命令されているからご高齢の方たちのことを敬う、というのではありません。詩編に、次のような言葉があります。 神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。 主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。 白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう、 わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない、と。(詩92:13~16) 神さまを信じて従う人は、高齢になり白髪になっても、神さまからの祝福をたくさんいただいて、神さまのことを皆に伝えるでしょうと、昔の人が歌った詩編です。今日、神の家族である教会に共に集められている私たちは、ご高齢の皆さんが神さまからの祝福をますます豊かにいただいて、神さまに従う歩みを続けられるよう、共に祝福をお祈りするときにしたいと思います。そして、私たちも、人生の先輩であり、神さまを信じる信仰の先輩であるご高齢の皆さんの、歩まれてきた道を辿りながら、私たちの人生の歩みが神さまに導かれることを願ってお祈りするときにしたいと思います。 「やもめの献金」 この合同礼拝に、私たちは、「やもめの献金」と呼ばれて知られる聖書の御言葉を聴きました。 主イエスさまがお弟子たちと一緒に神殿の境内にいて、多分お祈りをささげていらっしゃったときのことです。イエスさまは、献金をおささげする賽銭箱のむかいに座っていらっしゃいました。私たちの礼拝では、献金は布で覆われた献金籠を回して献金をおささげしますから、普通は、献金のときでも静かですね。お札でおささげする人が多ければ、ほとんど音はしません。ところが、イエスさまがいらしたエルサレムの神殿では、大きな金属でできた漏斗形(ラッパの先のような形)の献金箱に、金貨や銀貨、銅貨などの硬貨を投げ入れるようにしてささげました。ちょうど、神社に参拝した人が賽銭箱に賽銭を投げるようにして、献金をおささげしたのです。ですから、たくさんの献金を入れれば、大きな音が響き、少しの献金しか入れなければ、小さな音しか鳴りませんでした。ユダヤの人たちは、聖書に書いてあるとおりに、皆だれでも神殿で献金をささげるきまりになっていました。お金持ちはたくさんの献金をしました。お金持ちでなくても、皆、自分の持っているものに応じて、それぞれに献金をしました。とても貧しい人も、決められた一番少ない献金をしました。皆、聖書に書かれている神さまのご命令だからと思い、きちんと献金をおささげしたいと思っていました。 イエスさまが神殿の献金箱(賽銭箱)の向かいに座っていらしたときも、大勢のお金持ちたちが、次々に、たくさんの献金を持ってきては、献金箱に投げ入れ、大きな音を響かせていきました。献金を投げ入れる大きな音がするたびに、神殿にお祈りに来ていた人たちは、「誰が献金したんだろう」「どれくらい献金したんだろう」と、献金箱の方に目を向けていたに違いありません。(41節) ところが、お金持ちたちが次々にたくさんの献金を投げ入れていく中で、一人、とてもお金持ちとは思えない貧しい身なりの女の人が、献金箱の前に進み出て、財布を取り出すと、財布の底に残っていたレプトン銅貨と呼ばれる銅貨二枚を取り出して、献金箱の中に投げ入れて行ったのです。レプトン銅貨一枚は、今の日本のお金では百円玉一枚くらいの価値のお金です。貧しい身なりの女の人は、二百円くらいしか持っていなかったのですが、そのお金を全部、献金におささげしてしまったのです。(42節) 主イエスさまは、すぐにこの女の人に気づかれました。そして、そばにいた弟子たちに、こう言われたのだそうです。「大切なことをお話しします。この貧しい女の人は、ここで献金をささげている人の中で、だれよりもたくさんのものを献げました。なぜなら、他の人たちは皆、たくさん余るほど持っている中から献金をささげたけれども、この女の人は、少ししか持っていない中から、自分の持っている物を全部、生活に必要なすべてを、献げたのです」。(43~44節) 「この人は…全部入れた」 主イエスさまは、この貧しい女の人が持っているお金の全部を献金におささげしたと、弟子たちに言われました。イエスさまはこの女の人のことを、よくご存じでいらしたのでしょうか。いいえ、イエスさまは、この女の人のことだけでなく、私たち皆のことを、よくご存じでいてくださるのです。 この女の人は、持っていたお金のすべてを献金におささげしました。と言っても、たった二百円ほどです。それでも、この女の人にとっては、大切なお金だったでしょう。それがあれば、今日の食事にありつくことができたかもしれないお金です。でも、そのお金を献金してしまった今、この女の人は、もう、今日の食事を買うことはできなくなってしまったのです。それどころか、明日からの生活のためのお金も、もうなくなってしまった、ということだったのかもしれません。 そんな大変なことになってしまった女の人を見て、イエスさまは、お弟子たちに、「あの人を助けてあげましょう」とか「パンを分けて差し上げなさい」と言われたのではありません。いや、本当は、聖書には書かれていないけれども、イエスさまは、お弟子たちに命じられて、この女の人を助けてあげたのかもしれません。でも、聖書に書かれているのは、そのようなことではなくて、イエスさまがお弟子たちや私たちに向けてお教えくださったことです。イエスさまは、この女の人の献金の姿を見るように言われて、私たちが献金をささげるときによく考えなければならないことを、お教えくださったのです。 イエスさまは、たった銅貨二枚の献金をした女の人を指して、「この人が一番たくさんささげた」と言われます。実際には、お金持ちの人たちが、もっともっとたくさんの献金をささげているのですが、イエスさまは、「この人が一番たくさんささげた」と言われるのです。なぜなら、他の人は、持っている物の一部をささげただけだけれども、この女の人は、持っている物の全部をささげたからだと、主イエスさまは言われます。 でも、どうして、イエスさまは、このようなことを言われるのでしょう。全財産をささげたのが素晴らしい、と言って、この女の人を褒めているのでしょうか。 「この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」と訳されていますが、最後の部分は「生活すべてをささげたからである」という意味です。イエスさまは、この女の人が持っているお金を全部献金したことで、自分の生活全部を神さまにささげたのだと言われるのです。持ち物のすべてをささげてしまって、自分ではもうどうすることもできなくなってしまったから、もう、神さまに自分の生活全部をおまかせするしかなくなったのです。 私たちは、そんなこととてもできないような気がします。全財産を献金してしまって、明日からは、神さまにお任せして生きていきます、とは、とても言えません。でも、イエスさまは、本当に神さまを信じて、信頼して、神さまにお任せして、お委ねして生きられた方です。そのように生きることが、本当に幸いなことだと、御自身で生きて示してくださった方です。そして、私たち一人一人をも、そのような生き方に導き入れてくださろうとしていてくださるのです。 私たちの人生をおささげして… ある小さな教会で、こんなことがあったそうです。小学生の女の子が大人の人と一緒に礼拝に出て、自分のお小遣いの中から十円を献金におささげしました。その女の子にとっては、大切なお小遣いの中から出した十円でした。ところが、礼拝が終わると、教会の会計係のおじさんが女の子のところにやってきて、女の子に十円玉を渡して、「これは献金にしないから、自分で持っていなさい」と返してくれたのです。女の子は、「やったあ、十円が返ってきた」とは思いませんでした。せっかく自分で考えてお小遣いの中からおささげした献金だったので、献金係のおじさんが十円玉を返してきて、ガッカリしてしまったそうです。 私たちは、他の人から見たら少しの献金しかできないかもしれません。持っている全財産を献金する勇気なども、とてもありません。それでも、私たちは、献金をおささげするときに、イエスさまが貧しい女の人の献金を見るように言われて、弟子たちに教えられたことを思い出し、心に刻みたいと思います。 私たちは、献金をおささげするとき、すべてを神さまにおささげし、お委ねし、お任せして生きるイエスさまの道に導かれていることを、心に刻みます。ただ献金だけでなく、私たちの生活、私たちの人生を神さまにおささげするイエスさまの道に導かれていることを、心に刻みます。私たちの持ち物も、生活も、人生もおささげして、神さまに用いていただくイエスさまの道に、私たち皆が導いていただけるよう、お祈りいたしましょう。 祈り 主なる神。神の家族として共に招かれていますことを感謝します。皆が、人生を主におささげし、用いられる一人一人として生涯を導かれますように。アーメン けんきんのいのり 「めぐみのかみさま、みんなとともにさんびをささげ、せいしょのおはなしをききました。ありがとうございます。このいっしゅうかん、かみさまと人とにつかえるしるしとして、けんきんをささげます。どうか、わたしたちをもちいてください。」(『こどもさんびか改訂版』より)
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