主日礼拝説教「ただ神に感謝しよう」

日本基督教団藤沢教会 2006924

 

1七年目ごとに負債を免除しなさい。2負債免除のしかたは次のとおりである。だれでも隣人に貸した者は皆、負債を免除しなければならない。同胞である隣人から取り立ててはならない。主が負債の免除の布告をされたからである。3外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない。

4あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなるが、5そのために、あなたはあなたの神、主の御声に必ず聞き従い、今日あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守りなさい。6あなたに告げたとおり、あなたの神、主はあなたを祝福されるから、多くの国民に貸すようになるが、借りることはないであろう。多くの国民を支配するようになるが、支配されることはないであろう。

7あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、8彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。9「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。10彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。11この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。          (申命記 15111節)

 

6つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。7各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。8神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

9「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。

 彼の慈しみは永遠に続く」

と書いてあるとおりです。10種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。11あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。12なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。13この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。14更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。15言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

     (コリントの信徒への手紙二 9615節)

《奉仕》または《贈り物》

教会生活において、《礼拝》と共に関心の中心を占めるのは、しばしば、《奉仕》についてではないでしょうか。教会では、《奉仕》の大切さが繰り返し訴えられ、いかにして皆で《奉仕》を担い合うのかという議論が絶えません。

新約聖書で《奉仕》と訳される元の語《ディアコニア》は、《バタバタして埃をたてる》という意味から生まれた言葉なのだといいます。家事雑用に忙しく動き回る姿を想像させられます。教会にも、諸事雑用に忙しく立ち回ってくださる奉仕者がいます。貴いお働きです。まさに言葉本来の《ディアコニア》に仕えてくださっている姿です。けれども、その一方で、「自分にはできない」という思いを深くする人も、少なくないかもしれません。教会で必要な仕事を上手にこなす力が自分にはない、と思うと、《奉仕》に引け目を感じてしまうのです。

新約聖書で《奉仕》と訳される《ディアコニア》の表している事柄は、本来の意味よりも狭いようです。この語は、初代の教会の中で、自分たちの交わりの中の貧しい者たち(やもめなど)のための食事の分配の世話をする働きについて、あるいは、そのために必要な経済的援助、つまり献金について、用いられたのです。ですから、今でも、《ディアコニア》の働き人を《執事》と呼んで立てる教会がありますが、特に会計担当の奉仕者として理解されるのだそうです。

コリントの信徒への手紙二8~9章には、繰り返し《奉仕》という言葉が出てきます。ここでも、《奉仕》とは、当時の教会間で行われた経済的助け合いとしての献金のことです。使徒パウロの時代、エルサレム教会の人々は、経済的に極度に困窮していました(ロマ15:26など参照)。そこで、パウロは、異邦人教会の人々に援助の献金を呼びかけ、エルサレム教会に援助金として送り届けたのです。コリントの教会も献金活動に参加していたのですが、その献金としての《奉仕》のあり方について、パウロは、この手紙の8章から、懇切丁寧に教えているのです。そして、すでにひとくだり述べた後に、9章の初めに、パウロはこう記しました。

聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません(9:1)

ところが、これ以上書く必要がないと言いながら、パウロは更に筆を進めて、この《奉仕》のあり方について、言葉を加えていったのです。コリント教会の人々に、ぜひ知ってもらいたことが、まだあったからです。そして、こう記します。

そこで、この兄弟たちに頼んで一足先にそちらに行って、以前あなたがたが約束した贈り物の用意をしてもらうことが必要だと思いました。渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして、用意してもらうためです。…惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです(5~6)

パウロは《奉仕》の献金を、贈り物と言い換え、惜しまず差し出してほしい、と呼びかけます。6節には、恐らく当時の格言(箴言11:24~25?)を引用して、贈り物として惜しまずささげてほしいという願いを、繰り返すのです。

援助の献金は惜しまず差し出す贈り物だ、というのは、私たちにもよく分かることです。私たちも、様々な援助の募金に協力しますが、義務感や責任感から、あるいは褒められようと思って財布を開くよりは、無償の贈り物だと思って出した方が、よほど気持ちがよいものです。パウロは、ある意味で、私たちが経験して良く知っている、献金の心を、あらためて想い起こさせてくれているのです。

ところで、パウロの用いている言葉をよく調べてみると、彼は、そのような、言ってみれば当たり前のことだけを、ここで語っているのではないようです。実は、ここで「贈り物」「惜しまず差し出したもの」「惜しまず豊かに」「豊か」と訳されている言葉は、すべて原語では同じ「エウロギア」という語なのです。「エウロギア」は、もっとも一般的には「祝福」と訳される語です。つまり、パウロはここで、「あなたがたが約束した祝福の用意をしてもらいたい」、「祝福を蒔く人は、祝福を刈り入れるのです」と言っているのです。この言葉をわざわざ用いることによって、《奉仕》の献金を通して、コリントの教会の人々とエルサレムの教会の人々が、祝福を祈り合うことを、彼は願っているのです。

《奉仕》ということを考えるとき、私たちは、それが献金であれ、他の働きであれ、自分が何を行うかということばかり考えがちです。けれども、パウロはここで、献金という、ある意味で一方的な《奉仕》のあり方について、相手との相互の関係の中で取り組むべきものとして教えるのです。《奉仕》を通して関わる相手に祝福を祈り送る、そして相手からも祝福を祈ってもらう。そのような関係が生まれてくるものとして《奉仕》をとらえ直し、しっかり位置づけることを、私たちもあらためて心に刻みたいと思います。

 

「喜んで与える人を神は愛してくださる」

献金をささげる《奉仕》を、祝福の贈り物として考えるならば、私たちのささげる心も、随分違ってくるように思います。祝福を祈り合うというからには、パウロは、そこに、神からの祝福があることを信じているのです。

「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(7)

申命記15章には、イスラエル社会での負債免除についての規定が語られていました。当時は、自分の土地を担保にして借金をしたのですが、七年ごとの負債免除の年になると、担保を借り手に返して、借金を免除したのです。そのような規定の解説が、ここには書かれているのですが、要するに、貧しい人に貸したら、返してもらおうと思うな、というのです。そして、未練がましく自分の持ち物を増やそうとするのでなく、貧しい人を助けるように振る舞うならば、そのことによって神が祝福してくださる、というのです。

私たちは、「信仰によって義とされる」ということを信仰の根幹として大切にしていますから、つい、「信仰こそが大切だから、何を行うか、どう行うかということをあれこれ言うべきではない」などと考えがちです。もちろん、規則や戒律としての行動規範を定めるようなことがあってはいけません。けれども、パウロは、申命記の意図を深く汲んで《奉仕》のあり方を教え、そして、一つのふるまい方の中に神からの祝福を信じているのです。私たちも、信仰者として、神に喜ばれ、祝福され、愛される生き方、ふるまい方を、信仰によって知ることを、もっと求めるべきなのではないでしょうか。

恵みが満ちあふれて…

もちろん、私たちの行いや働きを可能にするのは、私たち自身ではありません。

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります…。…あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます(8~10)

神は、私たちの善い業を行うために必要な物も心も、恵みとして与えてくださり、満たしてくださるのです。パウロのこの確信は、素朴な信仰かもしれません。けれども、このような確信なしには、どんな信仰の教えも意味がありません。私たちに必要なことはすべて神が満たしてくださる。私たちの善い業を行う意志さえも、神が恵みとしてお与えくださる。そのような確信に、私たちも立つのです。

神の恵みを豊かに受けて結ぶ実を成長させていただいている私たちは、自分自身の罪深い思いからは想像もできない、不可能としか思えない、大きな、豊かな、神に喜ばれる、祝福される善い業に用いられることをも、信じるのです。

 

神に感謝する

祝福の贈り物を贈る《奉仕》が、私たちの間で、真実のものとなることを、本当に心から願いたいと思います。パウロは、この《奉仕》が真実になったときには、私たちの間で、神に対する感謝が沸き起こってくると言います。

あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します…(11~12)

この《奉仕》は、信仰の告白に他なりません(13)。信仰の証しとしての《奉仕》だからこそ、神への賛美と感謝が沸き起こってくるのです。《奉仕》の結果として、皆に神への賛美と感謝が沸き起こってくるのです。そのようにして、私たちは、自分たちの《奉仕》が真実なものとされていくことを知るのです。

《奉仕》の活動が盛んに行われているとき、私たちは、まさか、そこでお互いの働きに感謝することもない、などということはないでしょう。けれども、そこで、神への賛美と感謝が沸き起こっていなければ、私たちは、立ち止まって、振り返らなければなりません。《奉仕》の働きを通して、一人一人が、信仰へ心向けられ、神に向き合わされ、神への感謝に実を結ぶせられること。私たちは、このためにこそ、教会の交わりを与えられていることを、心に留めるのです。

言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します(15)

あらためて、主イエス・キリストという神からの最大の贈り物を、心に刻みたいと思います。祝福にいたる《奉仕》への道を備えてくださったキリストによって、私たちは、共に《奉仕》に生き、神に感謝して歩むことが許されています。

 

祈り

主なる神。主の奉仕によって命を与えられていることを心に刻ませてください。祝福の贈り物を贈り合う奉仕に導かれ、共に御前に感謝をささげます。アーメン