世界聖餐日礼拝説教「キリストを記念して」

日本基督教団藤沢教会 2006101

21モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。

「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。22そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。23主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。

24あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。25また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。26また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、27こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」
民はひれ伏して礼拝した。
             
(出エジプト記 122127節)

 

23このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。24なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。25また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。26もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。27また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、28キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
          (ヘブライ人への手紙 
92328節)

 

世界聖餐日

19469月、日本基督教団は全教会に対して「世界聖餐日遵守の件」という通知を出しました。こう記されていました。「謹啓、今般世界基督教聯合会より来る十月六日を期し、全世界の教会が主の聖餐を執行し、主にある交わりを堅くしたいとの通達がありました。就いては貴教会に於いても同日聖餐式を御執行相成りその趣意を徹底せしめていただきたくここに御通知申し上げます。」第二次大戦で世界の分裂を味わった世界中の教会が、聖餐を通してキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を願い求めて呼びかけた「世界聖餐日」でした。それを日本のキリスト教会が守るようになり、今年でちょうど六十年になるのです。

聖餐は、主イエスが弟子たちに、「わたしを記念してこのように行いなさい」(Tコリ11:24,25)と命じられたことに基づいて行われます。教会は、キリストを記念して聖餐を祝います。そして、キリストを記念して聖餐を祝うとき、教会は、キリストにある交わりを信じ、一致を信じてきました。聖餐で、私たちは、キリストがご自身の「御体」として差し出してくださるパンを与えられ、食べます。キリストの御体を与えられて、キリストの体の一部とされるのです。そして、キリストの体の一部とされた者として、キリストとの交わり、また、互いの交わりを与えられるのです。そこに、教会は、キリストにある一致を信じてきたのです。聖餐式の最初に告げられる勧めは、このことをまずはっきりと言い表しています。

六十年前に世界中の教会が祈りの中に信じた、聖餐によって証しされる交わりの信仰、一致の信仰を、この礼拝で、あらためて深く心に刻もうとしています。

 

最後の晩餐のキリストを記念する

キリストを記念する聖餐は、何よりもまず、聖餐をお定めくださった主イエスがその食卓で行われた行為そのものを記念することにほかなりません。聖餐式は、キリストが十字架にかけられる前夜、最後の晩餐で弟子たちの前で行われた行為を記念し、なぞって行われるのです。その晩餐での主イエスの行われた行為は、四つの行為に集約されると言われます。主イエスは、「パンを取り」「感謝(または讃美)の祈りをささげ」「それを裂き」「与えられる」、という四つの行為を行われて、弟子たちに「わたしの記念としてこのように行いなさい」と命じられたのです。これらの四つの行為を表すようにして、聖餐式は整えられてきました。

ところが、私たちの教会の習慣では、この中で特に「パンを裂く」ということが、どうしても十分に表すことができません。私たちの教会の習慣では、聖餐式の始まる前、いや礼拝の始まる前から、パンは小さく一人分ずつに切り刻まれていて、それ以上「裂く」ことをして見せるわけにはいかないからです。

ある教会の受難週の礼拝で聖餐にあずかったことがあります。聞き慣れた式文の言葉が続きました。ところが、まもなくパンと杯に与ろうかというとき、司式の牧師は、おもむろにパン皿の白布を開いて、直径三十センチほどもあろうかという大きなパンを取り上げ、会衆に見えるようにして、大きく二つに裂いて見せてくれたのです。そして、それに続いて、会衆は十人ほどずつ聖餐卓に招かれて、そこで牧師が一人ずつに裂いて渡してくれるパンと、杯に与りました。

一つのパンが裂かれるとき、私たちは、そこに何を見るのでしょうか。何よりもそれは、一つのパンを皆で分かち合うという姿を見ることができるでしょう。使徒パウロは、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(Tコリ10:16~17)と教えます。キリストによって実現される交わりと一致を、聖餐のパンが裂かれるところに見ているのです。

聖餐のパンが裂かれるとき、私たちはそこに、キリストがご自身の体に私たちを結びつけ、交わりと一致を実現してくださることを、信仰の目で見るのです。

キリストの「死」を記念して

そのことと共に、教会は、聖餐のパンが裂かれるところに、また別の局面も見てきました。聖餐のパンが裂かれるとき、そこでキリストご自身の御体が裂かれたこと、そしてキリストが血をお流しになられたことを、見たのです。私たちの罪を贖うために十字架上で裂かれたキリストの御体から流された血潮を、まさにキリストの御体であるパンが裂かれるときに、見るのです。キリストがご自身を死に渡されたことを、見るのです。

ヘブライ人への手紙は、キリストが、御自身をいけにえとして献げて(ヘブ9:26)、私たちの罪を贖うための血を流してくださったのだと、繰り返し教えます。

主イエス・キリストも、最初の教会も、旧約聖書の世界の中に生きていました。旧約聖書の世界で、イスラエルの人々の代表として立たされる大祭司は、一年に一度だけ入ることになっている至聖所(第二の幕屋)で、贖いのいけにえの儀式を行わなければならなかったのです。それは、自分自身とイスラエルの人々がこの一年間に犯した過ちや罪を贖うためでした。その罪の贖いのために、大祭司は、命の代償としてのいけにえの血を携えて、至聖所に入り、祈ったのです。

ヘブライ人への手紙は、旧約聖書の世界で大祭司が行ってきた贖罪を、繰り返し行う必要のない永遠の贖いとして成し遂げてくださったのが、キリストなのだと言います。しかも、それは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように(25)ではなく、御自身をいけにえとして献げ(26)御自身の血によって (12)というのです。

私たちは、聖餐のパンが裂かれ、キリストの御体であるパンが裂かれるのを見るとき、キリストが真の大祭司として御自身の血をもって私たちの罪を贖ってくださることを、信仰の目で見るのです。そのとき、私たちは、キリストがその血をもって贖ってくださらなければ赦されない罪を、自分が犯してきたことを見ないわけにはいきません。もしも、私たちが大した罪人でもないとしたら、どうしてキリストが御自身の血をもって贖ってくださる必要があったでしょうか。キリストは、その御体を自ら裂いて血を流され、私たちの罪の贖い、命の代償となってくだったのです。パンの裂け目に、私たちは、キリストの血を見るのです。

 

キリストを待望して

キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです(28)

このヘブライ人への手紙と響き合うようにして、パウロは、聖餐制定の主のみ言葉を伝える中で、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Tコリ11:26)と告げています。主が再び来られる、それを待望する、というのは、今はキリストが天の神の御前におられると信じているからです。…キリストは…天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです」(ヘブ9:24)

旧約聖書の世界で、一年に一度大祭司が入る至聖所は、神と最も近く相対する場所と考えられたそうです。そこに、贖罪のために入っていった大祭司は、神が人々の罪をお赦しくだされば、清められて、無事に出てくることができると、考えられました。その日、人々は、贖罪の儀式を終えて大祭司が出てくることを、心待ちにしたと伝えられます。

聖餐にあずかるとき、私たちは、今は神の御前におられるキリストが、再び私たちの前に現れて立ってくださることを、心待ちにしているのです。そのときこそ、私たちの救いが完成するときだからです。しかしまた、私たちは、そのことを心待ちにして、ただ惰性で過ごすのではありません。主の日を待ちながら、パウロが語るように、主の死、血の贖いをこそ、心に刻み、告げ知らせて、今のときを歩むのです。

ヘブライ人への手紙は、こう語ります。「永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(9:14)。考えてみれば、私たちが、人間としてはいまだ罪深く、互いにバラバラであるにもかかわらず、このように共に生ける神を礼拝するようにさせられている、ということ自体、本当にキリストの血の贖いによらなければ起こりえないことでありましょう。そうであれば、私たちは、聖餐のたびに味わうキリストの贖いの血を、どうして無駄にしてよいでしょうか。どうして、キリストの血を台無しにするようなことを続けてよいでしょうか。どうして、これ以上、自分の罪を姑息に正当化していてよいでしょうか。

私たちの告白する使徒信条は、「聖徒の交わりを信ず」と告白します。「聖徒の交わり」とは、人間的な親密さを意味する言葉ではありません。「聖餐」を意味する言葉です。聖餐は、私たちがキリストの体の一部とされていることを信じて、キリストにある交わりと一致を証しすることです。この信仰に生きるとき、私たちはまた、「罪の赦しを信ず」るのです。私たちには赦されなければならない罪があることを認めるのです。キリストによらなければ、「聖徒の交わり」である聖餐に加えられてキリストの血を思い起こすのでなければ、罪を清めていただく道にとどまることができないことを、認めるのです。

私たちは、聖餐にあずかります。私たちの信仰者としての、また教会という群れとしての歩みは、すべてここから始まります。逆ではありません。御言葉に聞き、聖餐にあずかる礼拝から、私たちのすべてが始まるのです。礼拝に集中しましょう。御言葉によって示され、聖餐を通して告げられるキリストのすべてに、私たちの思いを集めるのです。ここから始められるものこそ、キリストの体の営みです。ここから始められるものだけが、キリストの体に結ばれた歩みです。

 

祈り

主なる神。御言葉に集中させてください。キリストを記念する聖餐に思いを集めさせてください。御体に連なる者にふさわしく清めてください。アーメン