主日礼拝説教「わたしは生きる」

日本基督教団藤沢教会 2006108

神学校日 齋藤 真行神学生

1主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。2主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。3そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」4そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。5これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。6わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」

7わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。8わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」

10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。

11主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

(エゼキエル書 37章1〜14節)

 

 

15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

(ヨハネによる福音書 14章15〜19節)

 

 「なぜあなたは牧師になろうと思ったのですか」しばしば、私はこのような質問を受けることがありました。私はこの質問を受けるたびに、それにうまく答えることができませんでした。そして、そういう風に答えられない自分は間違っているのではないか、と思っていました。しかし、時間がたつごとに、私は実はこの問いかけのほうが間違っているのではないか、と思うようになりました。もし私がなぜ牧師になるのか、という答えを自分のうちに持っているのなら、その答えが私のうちからなくなったとき、私は牧師をやめることになります。しかし、牧師という職務はそういうものではないのです。自分を超えた大いなる意志によって牧師になるように命じられている、そう信じ、確信することを召命感といいます。私には長い間、この召命感がありませんでした。2001年に洗礼を受けてから1年半の間、私は非常な信仰の試練のうちにありました。そのときの私の問題というのは、自分の罪が赦されているのかどうかわからない、ということでした。もちろん、私は洗礼を受けたとき、自分の罪のために主イエスが十字架にかかられたことを信じました。しかし、いざ洗礼を受けてみると、そこにいたのは人を欺き、自分を傷つけ、人をも傷つける、そういう罪にまみれた自分の姿でした。そこで、私は自分の罪が赦されているのかどうか、わからなくなってしまいました。聖書には、告白すれば罪は赦される、とあります。そこで、私はひたすらに罪を告白しました。しかし、告白すればするほど、罪にまみれた自分を見せ付けられ、袋小路のなかへと追い詰められてゆくばかりでした。そんなとき、私はほとんど必死になって、神学の研究をしました。私はいわば世俗の大学に行っていたわけですけれども、生きるために、必死にやりました。そして、あるときある神学者の書いた本を読みました。そこで、「イエス・キリストは十字架によって、過去の罪、現在の罪、将来の罪さえも、終わりにさせられた」という言葉に出会いました。それを読んだとき、私の心のなかでなにかがはじけました。そのとき、私を覆っていた恐怖と不安が一瞬で取り除かれる、ということを経験しました。それ以来、私は試練から解放されました。

 

その1ヶ月後、私はUテモテ4章の「御言葉をのべ伝えなさい」という言葉を読みました。この言葉は、私の心にぐっさりと突き刺さってきました。そのとき、私は神が自分に牧師になるように命じておられる、と直感しました。しかし、私はそれを疑いました。しばしば、激しい思い込みによって人間の道は狂わされます。私は、これもまた自分の思いこみなのではないか、と疑いました。すると、その更に1ヶ月後、もうこの大学には少しもいたくない、と思わされる出来事に出会いました。そのとき、私は「御言葉をのべ伝えなさい」という言葉が与えられていたことを思い出しました。それで、大学をやめて神学校に行こうと考えました。周囲の先生や友人は、大学を卒業してからでもいいではないか、と言いました。私もそれで悩みましたけれども、あるときマタイによる福音書でペトロたち漁師が召されるところを読みました。そこには、ペトロたちは「すぐに網を捨てて従った」とあります。この「すぐに」という言葉が私の心にひっかかりました。そこで、私は神に服従するのに延期はありえない、という思いを与えられて、大学を退学して神学校に行くことになりました。

 

召命感、という言葉を「使命感」という風に言い換えてみます。私はしばしば、自分の使命がどこにあるのか、考えることがあります。周囲を見回しますならば、状況は閉塞していると言わざるをえません。あと20年後を考えるとぞっとします。地方の教会から土地を売ったり建物を売ったりして縮小していく。信徒が牧師を支えられなくなり、牧師はアルバイトをしなくてはならなくなる。説教を準備する時間は削られ、教会全体の士気が低下していく。都市の教会では、激しい勢いで世俗化が進んでいく。霊的なことが忘れられ、神が見失われる。日本の教会全体が深い危機に直面している、と私は見ています。そんななかで、私は一体なにができるのか。一方で、私は信じてもいます。神があと20年のうちに、日本になにか偉大な業をなさる。新しい神の業が始められる。だれもいままで聞いたことがないような、偉大なことが起こる。私はそのように信じています。私の使命は、その神がなさる新しい偉大な業にいくらか、お仕えしたいということです。これが私の抱いている小さなビジョンです。

 

今日共に聞きましたエゼキエル書37章を私が読んだとき、私は神が日本になさろうとしていることを少し垣間見ることができました。それを共に聞いていきたいと思います。

 1節に「主の手がわたしの上に臨んだ」とあります。この言い方は、預言者が幻を見るときに使われるものです。「主の言葉がわたしに臨んだ」というときにエゼキエルは預言し、「主の手がわたしの上に臨んだ」というときには幻を見るのです。ここでいう「幻」というのは、単なる空想、想像の産物なのではありません。むしろ、現実の奥深くにある真の姿、それが幻という形で預言者に啓示されるのです。「わたしは主の霊によって連れ出され」とあります。普通、現実というのは多くの覆いに覆われていて、その本当の姿を見ることはできません。しかし、聖霊が働くとき、私たちはその真の姿を見ることができるのです。聖霊というと、しばしば熱狂的な喜びや陶酔を生み出すものと考えられがちですが、しかしそうではありません。むしろ、聖霊の働きは現実を直視させるところにあるのです。現実の真の姿を見抜くところにあるのです。現実の本当の姿を知ることなくしては、どんな現状打破もないのです。

 

エゼキエルが見たもの、それは谷に散乱する骨でありました。「見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらははなはだしく枯れていた」ここで「骨」といいますのは、「力強い」という語源からきていまして、生活や生き方の確かさを示しています。それがばらばらに散乱していた、というのは生活の確かさが粉々に砕かれてしまっていた、ということです。また、「枯れる」といいますのは、箴言に「霊が沈み込むと、骨まで枯れる」とありまして(17:22)、激しい憂鬱と絶望を示しています。エゼキエルが見たのは、生活を粉々に砕かれて、憂鬱と絶望に満たされた、イスラエルの民の姿でありました。紀元前587年、バビロンという国がユダというエルサレムのある国に攻めてまいりました。都の一角が破られ、そこから兵士がなだれこみました。神殿は焼き払われ、破壊されました。多くのユダの人々は、強制的にバビロンに連行されました。そしてそこで、みじめな生活をしなくてはならなくなりました。これが、「バビロン捕囚」といわれる歴史上の出来事です。エゼキエルが見たのは、捕囚によって絶望し憂鬱に満たされた、イスラエルの民の姿だったのであります。しかし、この姿は私たちの現実ともだぶらせることができます。私たちの直面している現実も、これと似ているのではないでしょうか。信仰の継承がうまくいかない。若い人が教会に来ない。どんどん人が減っていく。教会だけではありません。社会も深い不安と恐れのなかにあります。崩壊している教育、噴出する様々な問題。最近、私は友人からこんなことを聞きました。いま、病院の小児科に精神科があるそうであります。子供が心の病にかかって、やってくるのです。この小児科の精神科が、いまあふれるほど人がきているそうです。子供にまで、心の病が広がっている。まさに、私たちが直面しているのは、骨の散乱する谷なのかもしれません。

 

そのとき、神から問いかけがあります。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」エゼキエルも人の子であります。死すべき者であります。骨が生き返ることなどできないことはよくわかっています。エゼキエルはこう答えることもできたでしょう。「神よ、不可能です。そんなこと、できるはずがありません。そんなこと、ありうるわけがありません」しかし、彼はそうは答えませんでした。むしろ、「主なる神よ、あなたのみがご存知です」と答えたのです。エゼキエルは信じていました。人間にはできないことでも、神にはできる。人間的にはどんなに不可能と思えても、神にはできる。そういう、神への望みをエゼキエルは捨てないのです。私たちも、心に留めたいと思います。人間的にどんなに状況が閉塞していても、絶望する必要はないのです。神には、必ず望みが残されているからです。

 

神はエゼキエルに言われます。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちのうえに筋を置き、肉をつけ、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」エゼキエルにみ言葉が与えられました。それは常識からすればまったく外れたものでした。骨が生き返る、というのです。私たちは、神の言葉というものが私たちの思いを超えている、ということを心に留めたいと思います。イザヤ書にこういう言葉があります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」(55:8)神の思いは私たちを超えているのです。だからこそ、神の言葉も私たちの常識を超えているところがあります。エゼキエルは、このみ言葉をもしかしたら、信じなかったかもしれません。半信半疑だったかもしれません。しかし、とにかくエゼキエルはみ言葉に従って預言するのであります。すると、「骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」み言葉の通りのことが起こるのです。私たちがみ言葉に従うとき、驚かされる、圧倒的な出来事に遭遇し、目撃することができることがここに約束されています。けたはずれの出来事を経験して、うれしさではちきれそうになる、そういうことを経験することができるのです。「見よ」という言葉が二度使われているのは、預言者自身が神の創造の御業に深く圧倒され、驚かされていることを示しています。私たちもまた、神の御業を目撃することができるのです。

 

生き返ったからだのなかに「霊はなかった」と言われています。「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば、彼らは生き返る』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らのなかに入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」ここに、聖霊の働きが記されています。その第一の働きは「生かす」というものです。聖霊が来られないところでは、喜びと命が失われ、死んでゆく。しかし、聖霊が来られるところでは、喜びと命が新しくされる。第二の働きは「自分の足で立った」というものです。聖霊が来られ、神の支配が到来するとき、私たちは本当に自立した人間になるのです。神の支配が来ないうちは、私たちは人に頼って生きています。もしくは、自分の力に頼って生きています。しかし、聖霊が来られるとき、私たちは神のみにより頼むことによって、本当に独立した、自立した人になるのです。聖霊の第三の働きは、「非常に大きな集団となった」ということです。つまり、共同体が形成される、ということです。教会が集められるのは、聖霊の働きなのです。こうして、聖霊の働きによって私たちは生かされ、自立した人にさせられ、共同体を形成するのです。聖霊を呼び求めるのは教会の義務です。聖霊が来られるとき、これらのことが成し遂げられることを心に留めたいと思います。

 

「主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」私たちはおぼえたいと思います。ここに、「お前たちはわたしが主であることを知るようになる」とあります。私たちは自分が生きること、教会が存続することを考えます。しかし、私たちの問題は、それ以上に神の問題でもあるのです。神が私たちに責任を負っておられる。神が私たちを担っておられる。私たちはしばしば、人間的な視点のみによって、閉塞状況だけを見て絶望的になっています。しかし、神への信仰において物事を見るならば、世界は別な形に見えてくるのです。ヨハネによる福音書14:15以下において、主イエスは聖霊を遣わすことを約束されました。そして言われました。「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」わたしたちは自分が生きることを考えます。家族が、友人が、教会が生きることを考えます。しかし、それよりも大切なのは、主イエス・キリストが「わたしは生きる」と語ってくださることです。主イエスが生きられるからこそ私たちもそのいのちにあずかって、生きることができる。私たちはさらに前進していくでありましょう。なにが起こるかわからない。ただ一つ確かなことは、主イエス・キリストが私たちのために生きられるということ、彼が勝利を得られ、私たちがその栄光を見ることができるということ、ただそれだけであります。共に祈りましょう。

 

 愛する天の父よ、御名をほめたたえます。あなたのお遣わしくださった御子が生きてくださるということ、それによって私たちも生きることができるということを聞きました。主よ、どうぞ私たちが生きることができるようにしてください。聖霊を呼び求める者としてください。私たちがあなたのいのちと恵みによって、前進していくことができますように。神よ、私たちを祝福し、導いてください。あなたの御子によりすがらせてください。私たちのうちに清い心を創造し、自由の霊によって支えてください。藤沢教会を通して、あなたの業が進められますように。今日共に集い得ましたことを感謝し、主の御名によって祈ります。

アーメン。