主日礼拝説教「成熟を目指して進もう」

日本基督教団藤沢教会 20061015

7主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、8早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」9主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。10今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」

11モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。12どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。13どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」14主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。

 (出エジプト記 32714節)

 

5:11このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。12実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。13乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。14固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

6:1‐2だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。3神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。4一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、5神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、6その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。7土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。8しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。9しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。10神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。11わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。12あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

(ヘブライ人への手紙 511節〜612節)

信仰の初歩の教え

教会の中に、新たに信仰を与えられて洗礼〔バプテスマ〕を受ける決意に導かれ、受洗に向けて準備を進めている方が、何人かいらっしゃいます。受洗準備会を重ね、役員会での試問を経て、ふさわしいときに洗礼式を迎えられることになります。お一人お一人がよい備えのときを過ごされて、信仰者として新たに誕生するときを迎えていただきたいと願いながら、受洗準備会を進めています。

その準備会を進めて行く牧師は、さながら産科か小児科の医師や看護師の心境で過ごしています。本来、教会という母体が健康であって、御言葉の種が確かに芽を出しているならば、放っておいても信仰の乳飲み子として健康に誕生するときを迎え、幼子として歩み出し、成長していくのに違いありません。牧師が手取り足取り、学校の教師のような態度で教え込む必要はないのです。ただ、誕生に向かって順調に進んでいかないときに手助けをさせていただくのが、受洗準備会を進めていく牧師の役割です。

そうではあっても、受洗準備会では、通例、信仰の教えの初歩と言えるような冊子をお読みいただきます。具体的には、《信仰問答》と呼ばれるような類の書物などです。その内容は、堅い言葉で言えば要するに《教理》が書いてあるのです。代々の教会が培い、蓄えてきた、信仰の教えの言葉に触れていただくのです。そして、信仰者として誕生して歩み出していった後に、聖書の御言葉をバランスよく聴き取る下地を造っていただくのです。

ヘブライ人への手紙が書かれたのは、キリスト者の中に主イエスの直弟子たちの世代がいなくなり、教会という群れとしての歩みが整えられていった第三世代目の時代です。その時代に、すでに、信仰の基礎教育の形が出来上がって来ていたと言われます。私たちが《信仰問答》と呼ぶような教育形態です。当時は、受洗準備に三年の期間をかけたという記録もありますが、その最後の最後、洗礼式とほとんど同時に教えられたのが、《信仰問答》にあるような、神の言葉の初歩の教え(5:11)キリストの教えの初歩(6:2)、でした。そこで、それは、信仰者として新たに誕生した乳飲み子の飲む《》であると呼ばれたのです(5:13またTペト2:2、Tコリ3:1~2)

 

あなたがたの耳が鈍くなっているので…

ヘブライ人への手紙は、そのような信仰の乳飲み子に向けてではなく、すでに《乳》を飲む時期を過ごし終えて離乳し、固い食物つまり聖書の御言葉そのものを食べ始めているはずの信仰者に向けて語られています。ところが、この手紙の書き手(=説教者)は、当然食べ始めているはずの固い食物を聞き手がうまく食べられないでいる様子を見て取った。そして、教えを中断して語り始めたのです。

このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです(ヘブ5:11~12)

あなたがたの耳が鈍くなっている」というのは、もちろん、生理的に難聴になっているとか、聴覚が失われているということではありません。信仰の言葉、聖書の御言葉を聴き取る、《信仰の耳》が鈍くなっている、ということです。私たちの《信仰の耳》は、鈍くなっていないでしょうか。

M・ルターは、この箇所の御言葉を解説して、「あなたがたは無気力で、注意深く熱心に神の言葉を聞こうとしていない。そして、自分の物差しで測り、自分の升で量って、適当なものだけを受け取っている」ということだと言いました。私たちは、教会に自分の聖書を持参して、あるいは持参してこなければ貸し出し用聖書を手にとって、礼拝で聖書の朗読を聴き、説教を聴く、という習慣を持っています。ところが、最近、少なからぬ教会で、少なくとも聖書朗読の際は自分の手元の聖書を開かないようにと指導するようになっているそうです。朗読を耳から聞くとき、私たちは、朗読者に主導権を握られています。朗読者が読み間違えれば、聞く者も間違えて聞きます。ところが、聖書を開いて文字を追っているとき、御言葉の主導権は、読み手である自分で握ってしまうことになります。自分の好きなように読んだり、読み飛ばしたり、できてしまうのです。それでは、まさにルターが言うような「自分の物差しで測って、自分に都合のよい適当なものだけを受け取っている読み方」になってしまう危険があります。そこで、聖書朗読の際には自分の聖書を開かない。そのような形を通して、聖書を神の御言葉として受け身で聴く姿勢を確かめ、正していこうということのようです。

信仰の初歩の教えを学ぶことで、《信仰の耳》の下地を整えることも大切です。しかしまた、《信仰の耳》が鈍らせてしまわないようにするために大切なことは、まず、私たちは、自分の《耳》が鈍りやすく、都合のよい言葉しか聞こうとしなくなる、ということを自覚することから始めるということかもしれません。

 

キリストの教えの初歩を離れて…

だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰…などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう(6:1~2)

私たちは、《信仰の耳》が鈍ってしまったら、初歩の教えに返って基礎からやり直すべきであるように思います。胃腸の手術をした後の人のように固い食物を食べられないような状態になっているとしたら、なおさら、乳のようなものからやり直さなければならないようにも思えます。けれども、この手紙の説教者は、意外にも、「だから…基本的な教えを学び直すようなことはせず」と言います。

ですから、私たちも今、ここでは、ここに列挙されているキリストの教えの初歩の具体的な内容について学び直すようなことは割愛しましょう。それについては、別の機会に学ぶことにしましょう。そして今は、この手紙の語る「初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」という言葉に促されて、先に進む道へと導かれたいと思います。鈍った《信仰の耳》を研ぎ澄まさせていただき、神の御言葉を聴き取り、聞き分ける道を、開かれ、導かれたいと思います。

神がお許しになるなら…

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます(6:4~8)

ここには、厳しい教えが語られています。文字通り受け取って、教会から離れた信仰者を切り捨ててきた歴史も、教会にはあります。しかし、私たちの実感とはズレがあるかもしれません。教会から一時離れた人が、何十年ぶりに戻ってくる例は、少なくないからです。信仰をひとたび失いながら、もう一度キリストと出会う経験をして、確かな信仰に立ち返った人がいることを、知っています。ですから、この厳しい教えは、続く教えの言葉の光の中で聴くべきかもしれません。

しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません(6:9~10)

神は、私たちの行いも振る舞いも、一切を決してお忘れになられるようなことはない、というのです。私たちの罪も知っておられるでしょうけれども、私たちの救いにかかわることをお忘れになられるようなことは、決してない、のです。

救いにかかわること。その最たる集約されたものは、《洗礼》です。洗礼を受けるとき、私たちは、信仰の初歩の教えを学びながら、誕生する赤子のように一度光に照らされる経験をするのです。神の光に照らされる経験です。そして天からの賜物を味わい聖霊にあずかり、神のすばらしい御言葉と来るべき世の力とを体験するのです。その経験、《洗礼》の経験をおぼえていたら、その後に信仰から離れるはずがないではないか。いや、たとえ自分では忘れてしまっても、神がこの私のためにしてくださった《洗礼》の経験は、神がお忘れにならない。そうだとしたら、神は、私を堕落するに任せられるはずがないのです。だから、私たちは、自堕落に不信仰な歩みに留まるのではなく、神の祝福を受ける、実りある信仰の成熟を目指して進もうではないか。そのように呼びかけているのです。

成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるならば、そうすることにしましょう(6:2~3)さり気なく語られている、この「神がお許しになるならば」という言葉に、神の恵みの中に生きる者の確信と希望を教えられます。神が、私たちの信仰の成熟をお許しくださっているのです。一歩、また一歩、成熟を目指して進むことが許されている喜びを、私たちは共に分かち合っていくのです。

 

祈り

主なる神。洗礼という救いのしるしに感謝します。私どもの不義ではなく、あなたの恵みを信じます。主にふさわしい者へと成熟させてください。アーメン