主日礼拝説教「神の民の刻印」 日本基督教団藤沢教会 2006年10月22日 1 主よ、あなたはわたしの神 わたしはあなたをあがめ 御名に感謝をささげます。 あなたは驚くべき計画を成就された 遠い昔からの揺るぎない真実をもって。 2 あなたは都を石塚とし 城壁のある町を瓦礫の山とし 異邦人の館を都から取り去られた。 永久に都が建て直されることはないであろう。 3 それゆえ、強い民もあなたを敬い 暴虐な国々の都でも人々はあなたを恐れる。 4 まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦 豪雨を逃れる避け所 暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 5 乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように 異邦人の騒ぎを鎮め 暴虐な者たちの歌声を低くされる。 6 万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。 それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。 7 主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。 9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。 わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。 (イザヤ書 25章1〜9節) 1この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた。2わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、3こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」4わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。5ユダ族の中から一万二千人が刻印を押され、ルベン族の中から一万二千人、ガド族の中から一万二千人、6アシェル族の中から一万二千人、ナフタリ族の中から一万二千人、マナセ族の中から一万二千人、7シメオン族の中から一万二千人、レビ族の中から一万二千人、イサカル族の中から一万二千人、8ゼブルン族の中から一万二千人、ヨセフ族の中から一万二千人、ベニヤミン族の中から一万二千人が刻印を押された。 9この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、10大声でこう叫んだ。 「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」 11また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、12こう言った。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」 13すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」14そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。15それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。16彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。17玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」 (ヨハネの黙示録 7章1〜17節) 天上を見る ヨハネの黙示録は、キリスト信仰のゆえに捕らえられてパトモスと呼ばれる島に幽閉されていた僕ヨハネが、そこで、ある主の日に、おそらく礼拝を守っていたときに見ることになった幻――神が示してくださった黙示が、記されています。 僕ヨハネは、キリストから七つの教会に宛てて書き送る手紙を示され(2~3章)、続いて、天上へと目を向けさせられます。 その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた。あの最初の声が言った。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう」(4:1)。 礼拝にいつもおいでになられる方の多くは、大概、いつも決まった席を選んで座られます。初めから前の方に座られる方もいらっしゃいますが、決して前の方に座られない方もいらっしゃいます。「どうぞ、前の方へ」とご案内しても、「いいえ、結構です」と遠慮なさる方も少なくありません。礼拝堂の席のことであれば、それでよいかもしれません。けれども、もしも、キリストか天使が呼びかけて、「どうぞ、天の方へ」と案内されたならば、私たちは、どうしたらよいでしょうか。この礼拝のただ中で、キリストの声が響き、「天に上って来い」と呼びかけられて、素直に従っていくことができるものでしょうか。 ヨハネは、主の日の礼拝の最中、キリストの御声に耳を傾けていました。聖書が朗読されているときか、讃美歌が歌われているときか、祈りが捧げられているときか、説教が語られているときか、分かりませんが、ヨハネは、礼拝の中で、キリストの御声にひたすら耳を傾け、キリストの呼びかけを聴き取ったのです。そして、キリストに招かれて、天の上で示されることを見ることになったのです。 神の刻印 ヨハネは、キリストに招かれて上った天上で、天使たちに導かれた二十四人の長老たちの不思議な礼拝を見ます(4:2以下)。そこでは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな…」(4:8)と歌われる讃美が鳴り響き、荘厳な礼拝が続けられていました。その中で、神は七つの封印で封じられた巻物をお示しになられ、これを開くのにふさわしい者としてキリストを指名されるのです。そして、小羊の姿であったキリストがその巻物の封印を開き始めると、ヨハネは、次々と世で起こっている災いと神の怒りを見せられます(その様子は6章をお読みください)。 ところが、だれも耐えられないような激しい災いを見ていたヨハネは、突如として、まったく違った情景を見ます。 この後、わたしは大地の四隅に四人の天使が立っているのを見た。彼らは、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも吹きつけないようにしていた(7:1)。 当時、人が立つ大地は、球体ではなく四角形の平板であると考えられていたようです。そして、その四隅(北東、北西、南東、南西)からは災いをもたらす風が吹いてくると考えられていたといいます。その災いをもたらす風を、四人の天使がしっかり押さえて、大地にも海にも、どんな木にも災いをもたらさないように守っている、というのです。 災いが吹き荒ぶ世界にあって、私たちは、「なぜ、このような災いが?」と思わざるを得ないことがあります。しかし、事実は、もっともっと多くの災いの元があるのに(否、正しくは、この私たちが生み出しているのに!)、神の天使が、必死になって、その災いの風が私たちの世界に吹き込まないように押さえていてくれている、ということなのかもしれません。 ヨハネは、さらにもう一人の天使が現れてくるのを見ます。 わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」(2~3節)。 刻印とは、その印が示す者の所有物であることを示すために押される印です。初代教会は、洗礼のことを神の刻印(証印)と呼びました(Uコリ1:22、エフェ1:13等)。洗礼によって、神の所有物、神のものとなる刻印を押されると信じたのです。洗礼式では、水に沈められた後に、白い服を着せられると、油で額に十字の印を付けられました。キリストの十字架の印です。それによって、洗礼を受けた者が、神のもの、キリストのものになったことを確かめたのです。 天上の礼拝 ヨハネは、刻印を押された人々の数を聞いて、すでに押された人々が14万4千人であることを告げられています(4~8節)。ある人たちは、この数を世の終わりに救われる者の数だと教えますが、そういう意味ではないでしょう。ヨハネは、すでに刻印を押された人々が14万4千人いるのだ、と聞いたのです。そして、続いて、多くの人々が、洗礼を受けた者が着せられるような白い服を着て集まってくるのを、ヨハネは見たのです。 この後わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」(9~10節)。 ヨハネは、続けて、天使たちが応えて礼拝する姿を見ます。 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなく私たちの神にありますように、アーメン」(12節)。 礼拝に集う私たちは、もしかすると、自分が何かを得ようとして、礼拝をささげているかもしれません。救いを自分のものとしようとして、賛美に満足することを求めて、この世で役立つ栄光や知恵を与えてもらおうとして、神に仕える自分が感謝されようとして、誉れを与えられようとして、また、明日からのこの世での生活を支える力や威力を得ようとして、礼拝に期待しているかもしれません。 ところが、天上で礼拝する大群衆は、「救いは神とキリストのもの」と告白するのです。天上の天使たちは、「それらはすべて、神にありますように」と告げるのです。神の刻印を押され、神のものとされた信仰者は、礼拝で自分が何かを得ようとするのではありません。自分が神のものであること、神が一切のものの所有者、支配者でいらっしゃることを告白するために、礼拝をささげるのです。 刻印された神の民として生きる すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。それゆえ彼らは神の玉座の前にいて昼も夜もその神殿で神に仕える…」(13~17節) ヨハネと天上の長老との間でかわされた、この不思議なやりとりは、私たちに語られているのではないでしょうか。私たちは、洗礼を受け、神の刻印を押されていても、自分が誰で、どこから来た者なのか、分からなくなることがあるのです。そのような私たちに対して、天上の長老は、私たちが何者で、どこから来た者なのかを、告げ教えてくれるのです。「彼らは大きな苦難を通ってきた者で…」。 私たちは、この世にあって、この世に属さず、神の国に属する、神の民として生きます。その私たちは、礼拝をささげるために集められます。神の民として礼拝をささげます。けれども、私たちは、この世の支配や、この世の価値観に引きずられて、自分が何者なのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、分からなくなってしまうことがあるのです。ですから、私たちは、ヨハネが見てきたように、天上から示されるものを見るのです。天上の礼拝を見るのです。天上から告げられる言葉を聴くのです。そのとき、私たちは、天上の礼拝を写し出す礼拝をささげる。天上からの言葉によって、自分が何者なのか、自分がどこから来て、どこへ行くのかを知る。そのとき、目に見えない神の刻印は、私たちの生き方を通して、はっきりとこの世に証しされるものとなるのです。 祈り 主なる神。あなたの刻印を押された私ども一人一人と教会を、この世にあって天上の真実を写し出し、御国を証しする者として歩ませてください。アーメン
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