主日礼拝説教「高き神は低き神」
日本基督教団藤沢教会 2006年10月29日
1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
2 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。
3 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
4 わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。
知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。
5 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。
6 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
7 そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い 神の子らは皆、喜びの声をあげた。
8 海は二つの扉を押し開いてほとばしり 母の胎から溢れ出た。
9 わたしは密雲をその着物とし 濃霧をその産着としてまとわせた。
10 しかし、わたしはそれに限界を定め 二つの扉にかんぬきを付け
11 「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。
12 お前は一生に一度でも朝に命令し 曙に役割を指示したことがあるか
13 大地の縁をつかんで 神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。
14 大地は粘土に型を押していくように姿を変え すべては装われて現れる。
15 しかし、悪者どもにはその光も拒まれ 振り上げた腕は折られる。
16 お前は海の湧き出るところまで行き着き 深淵の底を行き巡ったことがあるか。
17 死の門がお前に姿を見せ 死の闇の門を見たことがあるか。
18 お前はまた、大地の広がりを 隅々まで調べたことがあるか。
そのすべてを知っているなら言ってみよ。 (ヨブ記 38章1〜18節)
8リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。9この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、10「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。11群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。12そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。13町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。14使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで15言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。16神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。17しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」18こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。
19ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。20しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。 (使徒言行録 14章8〜20節)
ルターの「九十五箇条の提題」
1517年10月31日、カトリック司祭マルティン・ルターは、ヴィッテンベルク城教会の扉に「九十五箇条の提題」を掲示して、いわゆる免罪符(贖宥状)の効力をめぐる討論を始めました。そのときから、ヨーロッパのキリスト教社会では、多くのプロテスタント諸教派教会の歩みが生み出されていったのです。
ルターの提示した「九十五箇条の提題」が、第一項「わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」で始められることは、よく知られています。ここから、宗教改革者たちの取り組みが始められたのです。そして、それによって、私たちは、信仰者が内面の主体性をもって悔い改めた者として神の前に立ち続けるべきことを、明確に教えられるようになったのです。
そこで、「プロテスタント(抗議する者)」というのは、ローマ・カトリック教会に対して抗議する者というだけでなく、自分自身や自分の属する社会・団体に対して抗議し続ける者という意味もあるのだと言われます。自分や自分の属するところを、決して絶対化することなく、絶えず反省し、悔い改め、新たにされ、改革され、造りかえられる。そのような営みの中にこそ、宗教改革の教会に属する信仰者の生き方があるのです。
ところで、ルターの提示した「九十五箇条の提題」の最後、第九十五項は、このように記されています。「そしてキリスト者は、平和の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国に入ることを信じなければならない。」
私たちは、日々の生活で心身の平和や安全を得ることが信仰の目的であるかのように思っているところがあります。教会の目的は、教会に集う人々に平安や幸福を提供することであると考えているところがあります。ところが、ルターの「九十五箇条」は、それとは全く違うことを述べて終わっている。キリスト者は、平和の保証を与えてもらって天国に入ることを信じるのではない、そうではなく、多くの苦しみを与えられることによって信じるのだと、ルターは言うのです。
この提題の最後の問いかけに、私たちは戸惑わないでしょうか。もちろん、信仰を与えられてからも、苦しみや悩み悲しみがあることを、私たちは知っています。けれども、できればそれらを避けて通りたいのです。いや、私たちの信仰はそれらの苦しみや悩み悲しみを軽減するためのものであって欲しい、教会もそのために存在していて欲しいと、私たちは考えているのではないでしょうか。そういった私たちの思いや考えと、ルターが問いかけることとは、どこか相容れないように、私たちには思われるのではないでしょうか。
私たちは、このルターの問いかけを、聖書の御言葉に耳を傾けることによって、正面から受けとめたいと思うのです。
ヨブの苦しみ
ヨブ記は、信仰の人ヨブの物語を通して、私たちに、苦しみや悩み悲しみの意味を問いかけてきます。ヨブは、裕福な、しかし神を畏れ、正しく生きようと願い続けた信仰の人です。ところが、神は、サタンによって彼が悲劇に陥れられるのを見過ごしにされる。彼は、ある日突然、子供たちや僕、全ての財産を失います。自分自身も、重い皮膚病に罹り苦しみます。そのような中で、妻から、「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(2:9)と言われても、彼は、なお、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)と言って、信仰に立ち続けようとします。けれども、やがて友人たちが見舞いにやってくると、ヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪(3:1)い始めるのです。
ヨブは訴えます。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」(3:11)、「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか」(3:20)。ヨブは、不幸さえも神から与えられるものだと知っている信仰者でした。しかし、自分の苦しみの意味が分からないのです。慰めに来た友人たちは、次々に、苦しみの意味を明らかにしようとします。人の苦しみには、理由がある、人の身に降りかかる苦難は、罪の報いだ、というのです。けれども、ヨブは言うのです。「人を見張っている方よ、わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれが何だというのでしょうか。なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか…」(7:20~21)。
友人たちとの対話の中で、ヨブは、彼らの答えには納得できません。ヨブは、友人たちに問い、そして、神に問うのです。「神よ、なぜですか!」
いったい、神はどのようにお答えくださるのでしょうか。
人間にすぎない!
ヨブ記の物語は、38章に至って、ヨブが神の御言葉を聴く場面へと入ります。主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった(38:1)のです。神は言われます。
これは何者か、知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ(38:2~3)。
神の経綸とは、世界を創造され支配される神のご計画のことです。神は、続いて、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ…」(4節以下)と、次々にご自分の創造された被造世界を指し示され、ヨブに問われるのです。「あなたは、何者か。神に造られた人にすぎないではないか!」
神は、世界の創造主として、ヨブに語られます。人間よりもはるかに高いところにおられる方として、語られるのです。しかし、神は、ヨブの問いに直接は答えられません。「なぜ、苦しみが…?」という問いには、神はお答えくださらないのです。ただ、ご自分が、ヨブよりも、私たちよりも、はるかに高いところにおられることを、明らかに示される。そして、ヨブは、最後に答えるのです。
あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か、知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます(42:2~6)。
ヨブは、今初めて、自分はこの目で神を仰ぎ見る、と言います。それ故に、自分を退け、悔い改めます、と告白します。ヨブは、苦しみの理由を知るに至ったわけではありません。神を完全に知るに至ったわけでもありません。しかし、それを知らなくてもよいということを理解したのです。それは、彼が神と出会うことができたからです。はるか高きにおられる神が、しかし遠くの彼方におられるのではなく、自分の目の前に、仰ぎ見ることのできる近さまでおいでくださる方だと知ることができたからです。人間の低さまで降りてきてくださり、親しく御言葉をもって語りかけてくださる方だと知ることができたからです。
神はわたしたちのところにお降りになった
ヨブは、すでに友人との対話の中で、こう言っていました。「このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天にはわたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す」(16:19~20)。ヨブが最後に出会ったのは、証人となり、弁護してくださり、執り成し、友となってくださる神であったのに違いありません。そのような神と出会って、ヨブは、自分を退け、悔い改めて、そして涙を流したのではないでしょうか。自分の苦しみのために、神自らが証人となり、弁護してくださり、執り成し、そして友となって苦しみを担ってくださることを知ったからです。
ヨブが出会った神を、私たちは、主イエス・キリストの中にはっきりと知ります。私たちは、十字架に苦しまれたキリストと、苦しみの中で出会うようにされているのです。苦しみの中でこそ、キリストは、私たちのために証人となり、弁護してくださり、執り成し、友となってくださるのです。
キリストこそが、私たちのところまでお降りくださった神であることを、深く知るものでありたいと思います。そして、それゆえに、「キリスト者は…多くの苦しみによって、天国に入ることを信じなければならない」というルターの問いかけを、真摯に受けとめる者でありたいと願います。
祈り
主なる神。御子が私どもの低さまでおいでくださることを感謝します。苦しみの中でこそ、御子と出会い、御言葉に耳を傾ける者とならせてください。アーメン
|
---|