聖徒の日・永眠者記念礼拝説教「恵みの契約に包まれて」

日本基督教団藤沢教会 2006115

8神はノアと彼の息子たちに言われた。9「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。10あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。11わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」

12更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。14わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、15わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。16雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」

17神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」                     (創世記 9817節)

 

12このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。15しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。16この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。17一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。18そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。19一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。20律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。21こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。 (ローマの信徒への手紙51221節)

《永眠者》を記念する

私たちは、日本基督教団の定める暦に従って、毎年11月最初の日曜日を「聖徒の日」としておぼえ、永眠者記念礼拝をささげます。週報には、「聖徒の日・永眠者記念礼拝」と記されています。藤沢教会では、数年前まで、この日の礼拝を「聖徒の日礼拝」と呼んでいたことがありました。けれども、今は、あえて「聖徒の日・永眠者記念礼拝」と呼ばせていただいています。「聖徒の日に行う、永眠者=死者を記念する礼拝」と理解していただきたいと願っています。

ある教会は、「聖徒の日」とは別の日付ですが、地上の生涯を終えて亡くなられた方を記念する礼拝を、「在天会員記念礼拝」と呼んでいるようです。あまり使われない呼び方だと思いますが、言わんとしていることは、よく分かるように思えます。生前、教会員として歩んで地上の生涯を終え、今は天にある方を記念する礼拝、ということでありましょう。

私たちの教会は、今のところ、「聖徒の日・永眠者記念礼拝」という呼び方をしています。代々の聖徒すなわち信仰者を記念し、憶える日に、永眠者=死者を記念して礼拝をささげます。いまだ地上に生きている聖徒=信仰者が、すでに地上の生涯を終えて死んだ聖徒=信仰者を記念して、共に主にあって交わりを与えられていることを感謝するのです。

今年の「藤沢教会召天者名簿」には、歴代牧師ですでに逝去された12名のお名前を含めて、356名のお名前が記されました。ここの礼拝堂に集った私たちは、その356名の方々を初めとする先達を記念しています。そして、信仰において、私たちは、その356名以上の先達と共に、今、ここで、礼拝をささげている、と言っても良いのです。

 

箱船に乗って…

最近、事情があって、ハリストス正教会(ロシア正教会)の信者である方のご葬儀を執り行う機会がありました。亡くなられたのは、すでに90歳を超えていらした方でしたが、もともと正教会信者のご家庭に育たれ、お若い頃に洗礼を受けられていたのです。けれども、その後、未信者のご夫君と築かれたご家庭では、生前、次の世代に信仰を継承することはお出来になりませんでした。ところが、その方が亡くなられたとき、いざご葬儀という段になって、ご子息方が、「母はクリスチャンだったのだから、やはり葬儀はキリスト教式で…」と願われたのです。ただ、ご子息方は、正教会には子供の頃以来接触したことがなく、ご本人も長らく教会とは接触しておられなかったので、お母様の属しておられた教会に連絡を取りようがなかったのでした。そこで、ご子息方は、葬儀屋を通して、全く教派の違う私たち藤沢教会の牧師(つまり私)のところに、葬儀執行のご相談に来られることになったのです。

ご遺族方は、正教会のやり方は分からないから、こだわらない、プロテスタント教会のやり方でしてもらってよい、とおっしゃられました。けれども、私は、その方が正教会の信仰を持っておられたのであれば、正教会の習慣や信仰について、最低限のことはわきまえておかなければならないと思い、急遽、いろいろと調べたのです。その調べた中に、ちょうど葬儀について簡潔に説明されているものがありました。それによると、正教会では亡くなられた方をお納めする棺を舟形にする伝統があるというのです。実際に舟形の棺を日本で使用することができるのかどうか分かりませんが、正教会ではそのような棺を使うのだと教えているのです。そして、そうするのは、葬儀が来世への支度だからだ、と説明されていました。亡くなられた方は、葬儀を通して、舟に乗ってこの世の荒波を超え、主キリストの待つおだやかな港に入る。そのことを示すために、舟形の棺に納められるのだそうです。

これは、正教会の葬儀の習慣ですが、キリスト教会は古来、教会を「箱船」に見立ててきました。会堂自体を「箱船」に模して建築することもありましたが、何よりも、教会という群れが「箱船」に乗って共にこの世の荒海を越えて行く運命共同体なのだということを教えてきました。教会という「箱船」は、終末の日にたどり着く終着点まで、神から招かれて乗り合わせた信仰者たちを乗せて、導かれていくのです。

今、私たちは、教会という「箱船」が、この地上にある教会堂という枠を超えて、天上と地上を結ぶ壮大な「箱船」であると思い描きたいと思います。天上の聖徒たち(地上の生涯を終えた信仰の先達)と、いまだ地上での歩みを続けている私たち信仰者が、同じ一つの「箱船」に乗せられているのです。

 

虹のしるしの契約

ところで、私たちは、この教会という「箱船」に乗せられている者として、地上に歩む者の教会員名簿を作成し、地上の歩みを終えた方については召天者名簿を作成しています。もちろん、これは人間である私たちが為していることですから、主なる神が作成される名簿と正確に一致するとは言えないかもしれません。けれども、それでも、私たちは名簿に名を記すことを通して、確かに天上と地上を一つに結ぶ大きな「箱船」に招かれている者であることを、信仰において憶えているのです。

しかし、それにしても、私たちの作成する名簿は、地上のものも、天上のものも、あまりに貧弱で、席はたくさんあるのに空席ばかりが目立つように思えます。「箱船に乗ろう」と呼びかけても、なかなか、この世の人々には、耳を傾けてもらえず、もどかしさを感じないではいられません。いや実際に、この礼拝に出席されている方々の中にも、今日はかろうじて受付でお名前を記して、席に着いてくださっているかもしれないけれども、名簿に名を記されることは無用だと思われている方がいらっしゃるのではないでしょうか。

創世記に物語られるノアの箱船の物語と重ね合わせて考えないではいられません。この物語でも、結局、箱船に乗り込んだ人間は、ノアの家族八人だけでした。教会という「箱船」を考えるとき、私たちは、ただノアの家族のような少数の限られた者だけが招き入れられる所を考えているのでしょうか。

「箱船」の歩みということだけを取り上げるならば、そういう面も否定できないかもしれません。ノアの箱船も、教会という「箱船」も、この世全体の中では少数者のように振る舞い、そこに留まらなければならないのかもしれません。

しかしながら、永眠者記念礼拝の今日はぜひ、私たちは、ノアの物語から、もう一歩先のことを聴き取りたいと思うのです。

神は、洪水が引いて、箱船から出てきたノアとその息子たちに告げて語ります。

「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」(9:9~11)

この世の滅びかと思わせる洪水の出来事の後に、唯一の救いの方法として神から与えられた箱船に乗って助かったノアたちは、「二度と洪水によってことごとく滅ぼすことはない」という神の祝福と契約の言葉をいただきます。箱船に乗った甲斐があった、と言いたいところですが、神はその契約について、「箱船から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる」(10)と告げられたというのです。箱船に乗っていた者たちだけではない。地の全ての者たちに対しても、「滅ぼさない」という契約を神はお立てくださった、というのです。箱船に乗らなかった者たちまで、箱船に乗った者と同じように、神は恵みの契約のうちに入れてくださったのです。

この、何とも不可思議な契約を聴くとき、私たちは、この世界がどんなに悪くとも、それでも世の終わりまで神の守りの内に保たれているということを聴いている、と言って良いでしょう。神は、招きに応じて箱船に乗り込む者、そこに留まる者のゆえに、世界をそのように保たれている。「箱船」のゆえに、箱船ばかりか世界中が、神の恵みの契約の内に、御手の守りの内に、保たれているのです。

ノアの物語は、この恵みの契約には、しるしとして虹が与えられていると語ります。虹のしるしの契約です。虹は、天上のものと地上のものとを結びつけます。その虹が、箱船の内の者と外の者とをも結びつけるのです。

教会という「箱船」の名簿に、私たち一人一人の名が記されます。天上の名簿、そして地上の名簿に、名が記されます。そのとき、私たちは、神がこの世界に恵みの契約を告げてくださる出来事に与らせていただいているのです。今日、私たちは、この礼拝で、天上の先達の名を記した名簿を憶えます。そのとき、私たちは、私たち一人一人も、今、この名簿の地上のものに自分の名がはっきりと記されるよう招かれていることを、深く悟る者とならせていただきたく願います。

 

祈り

主なる神。天上の聖徒らと共に、今、招きに応えて主の箱船に名を連ねさせてください。あなたの恵みの御業が世界中に遍く行われますように。アーメン