終末前々主日礼拝説教「神の選びを信じる」 日本基督教団藤沢教会 2006年11月12日 1主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。2目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、3言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。4水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。5何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」6アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」7アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。8アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。 9彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、10彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。11アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。12サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。13主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。14主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」15サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」 (創世記 18章1〜15節) 1皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。4これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。5谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、6人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」 7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。 (ルカによる福音書 3章1〜14節) 《終わり》から始まる クリスマス(降誕祭)に備える待降節(アドヴェント)を迎える前、教会暦の一年の終わりにあたる11月の期節、教会は伝統的に、《終末》=《終わりの日》に思いを向けて礼拝を守ってきました。聖徒の日に合わせて行われる永眠者記念の礼拝で一人一人の人間の地上での生涯の《終わりの日》に目を向けることから始められて、3週ほどの歩みを通して、《終末》、すなわち、世の《終わりの日》に焦点を合わせるようにして、この期節を過ごしてきたのです。 しかし、それは、単に、教会暦の一年の終わりだから《終末》と重ね合わせることによって憶えよう、と言うばかりのことではありません。世の《終わりの日》に再び来られるという主イエス・キリストの再臨に目を向け、そして、その再臨の約束の内に、新たな思いで、最初の来臨であるクリスマスに備える待降節へと向かっていくのです。ですから、待降節に結びついていく期節という意味で、日本基督教団の現在の教会暦は、この期節を「降誕前節」と呼んでいます。すでに二千年前に幼子として来られた御子キリストのご降誕を待ち望む待降節に先立って、私たちは、いつの日か世の《終わりの日》に再び来られるキリストの再臨を待ち望む信仰を、新たにされたいと願います。 終末に焦点を向けるこの期節、すでに先週、私たちは、一人一人の人間の地上での生涯の《終わりの日》に目を向けてきました。そして、今日、私たちは、一人一人の人間の生涯の《終わりの日》に目を向けつつ、その先に約束されている、新しい命、新しく始められる命へと、視点を導かれているようです。今日、耳を傾けているのは、年輪を重ねて、人生の《終わりの日》が視野に入ってきた老夫婦のもとに、新しい命の誕生が告げられる物語、創世記のアブラハム物語です。 主を迎える アブラハムの信仰者としての歩みは、すでに七十五歳になってから始められたものでした(創12:4)。彼の両親が神を信じる信仰者として生きていたのかどうか、聖書は何も語っていません。ただ、彼が、神の言葉を聴くという信仰者としての歩みを始めたのは、七十五歳という年齢になってからのことであったのです。 私たちの教会でも、今、七十歳を超えた方が洗礼を受ける準備を続けてくださっています。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12:1、口語訳)という御言葉のとおり、若いとき、幼いときに、すでに創造主であられる神を覚え、信仰に生きるようになることも、幸いなことに違いありません。けれども、また、年齢を重ねられて、この世に生きる者として人生の酸いも甘いも味わってこられた年配の方が、その上で人生の集大成として、神を覚え、信仰に入る決心をなさることも、私たちの交わりに与えられた大きな恵みではないでしょうか。七十五歳で、神の御言葉を聴く信仰者としての歩みを始めたアブラハムは、私たちの人生の終わりに向かう日々の歩み方を教えてくれるのです。 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げてみると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください…」(18:1~3)。 幼いときに信仰を持つようになっても、成人したとき、幼子の日々のように素直に神の前に立つことが難しく感じられることがあります。ましてや、成人してから、あるいは年配になってから信仰に入られた方は、幼子のような素直さで神と出会うことは難しいと感じられるかもしれません。けれども、七十五歳で信仰の歩みを始めたアブラハムは、年を重ねて行くに連れて、むしろ徐々に幼子のような素直さを増して、神の前に立つようになっていくのです。否、むしろ、神のほうが、徐々にアブラハムにより近く現れてくださるようになっていったのです。 アブラハムが一人黙想し、祈っているとき、神は現れ、語りかけられました。彼が祭壇を築いて礼拝をささげているとき、神は、現れ、語りかけられました。そしてまた、彼が日々の生活の中を過ごしているときにも、神は、彼が気づかぬうちに、彼に現れ、語りかけられたのです。 三人の旅人がアブラハムの天幕の前に現れたとき、彼は、その三人が、神の御使いであるとか、主ご自身であるとか、まったく思い至りません。彼はただ、中東の世界で当たり前のこととして、旅人を最大限もてなそうとしたのです。中東の世界には、今でも、家族が食べるのを我慢してでも旅人や客人をもてなす、という考えが根強くあると言います。アブラハムもまた、多くの使用人を抱えた裕福な族長として、熱心に、旅人を客人として迎えようとしたのです。 ところで、実際には、アブラハム自身も、他人の土地に寄留している旅人のような者でありました。その彼が、突然現れた旅人を客人として迎え入れ、もてなしたというこの逸話は、私たち教会のあり方を考えさせるものでもあるように思えます。教会は、長く同じ土地に建てられた会堂で教会としての歩みを歩んでいるうちに、いつの間にか、《マイホーム主義》とでも言うのでしょうか、自分たちの過去と現在を守ることばかりに、気を取られるようになってしまうところがあるのです。そして、表向きは新来者を歓迎するように言っておきながら、実際には、何の縁も無いような人のことは、案外放ったらかしにしているのです。 翻って、アブラハムが旅人を客人として歓待した逸話は、アブラハム自身が寄留の旅人であるという自覚を強く持っていたからこそ、旅人を我が客人として迎えることができたのではないでしょうか。そして、そのような中で、アブラハムは、主なる神と出会うときを与えられたのです。 教会もまた、《終わりの日》に向けてこの世を《旅する神の民》と呼ばれる存在です。《終わりの日》に目を向ける信仰者として、「いわば旅人であり、仮住まいの身」(Tペト2:11)であるという自覚の中でこそ、私たちは、隣人を迎え入れ、そこで神と出会うという信仰の歩みに生きる者とされるのではないでしょうか。 「不可能なこと」の中からこそ …彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(9~10節) アブラハムの信仰の歩みは、神の祝福の約束から始められた歩みでした。祝福の約束は、アブラハムに子が与えられ、子孫が数多く増すことになる、そしてまた、子孫たちが生きる広大な土地が得られることになる、というものでした。そのような祝福の約束に対して、アブラハムは、その実現を待ち続けました。しかし、すでに自分自身の《終わりの日》を意識する年齢のアブラハム夫妻は、ただじっと待つだけではいられなくなり、行動を起こしたこともあったのです。妻の代わりに女奴隷に子を産ませるという、当時は当たり前に行われていたことを、彼らは実行したのです。そして、それはうまくいったように思えました。 ところが、すでに百歳になろうとしているアブラハムに対して、神が再び約束として告げられたのが、九十歳になる妻サラが男の子を産むことになる、という、およそ不可能としか考えられないことでした(17章)。そして、アブラハムの天幕を訪れた三人の客人もまた、そのことを告げたのです。 御使いとも主ご自身とも分からない見かけはただの客人に、アブラハムとサラは、神のご計画の約束を告げられます。すでに二十年以上前から神ご自身から告げられてきた約束の実現を告げる言葉です。しかし、サラは、心の中で笑います。 …サラはひそかに笑った…(10~12節) 主ご自身に告げられていると知っていれば、サラは違った態度を取ったでしょうか。しかし、それとは分からぬ姿で来られる神の前で、サラは、神ご自身のご計画の約束を、不可能なことと笑い、切り捨ててしまったのです。けれども、このサラの不信仰を、私たちは笑うことができません。これは、私たち自身の姿であると、言わざるを得ないからです。 「なぜサラは笑ったのか。…主に不可能なことがあろうか」(13~14節)。 アブラハムとサラは、自分たちに示された神のご計画が実現するまで、二十五年の年月を待たされ、最後には、ほとんど信じ得ない思いになっていたのです。私たちはどうでしょうか。私たちは、私たちには不可能としか思えないような神のご計画を信じ、神のご計画の成る《とき》を待つことができているでしょうか。 些か頼りない、不信仰な私たちであります。しかし、それでも、私たちは、今、教会の群れに加えられているのです。《終わりの日》までこの世を旅するアブラハムの子孫、神の民に連なる枝とされているのです。私たち一人一人は、神に選ばれて、他の人々に先んじて、ここに招かれ、枝とされている。神のご計画の《とき》を待てずに行動してしまう不信仰な者であっても、私たちは、神に選ばれて、ここにいることを信じ、共に《終わりの日》に向けて歩み続けるのであります。 祈り 主なる神。この群れの内で終わりの日まで歩ませてください。不信仰ではなく、不可能を信じる信仰に生き、真の笑いと喜びに満たされますように。アーメン |
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