終末主日・収穫感謝合同礼拝説教「刈り入れのとき」

日本基督教団藤沢教会 20061126

14また、わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。15すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています。」16そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。

17また、別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。18すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」19そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。20搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった。             (ヨハネの黙示録 141420

 

実りの収穫を感謝しよう

今年三度目の合同礼拝の今日は、「収穫感謝日」の合同礼拝です。例年は、この時期に、クリスマスの前の備えをする「アドヴェント」の合同礼拝を、教会学校の皆さんと大人の人たちが一緒に守っていますが、今年は、「アドヴェント」に入る前の日曜日、私たちの教会が「終末主日」とか「収穫感謝日」と呼んでいる日曜日に、皆で一緒に合同礼拝を守ることになりました。

「収穫感謝」というのは、畑でできた収穫物(お米や野菜、果物などの実り)などを神さまに感謝しましょう、ということです。私たちは、毎日、お店で買ってきた食べ物を料理して食事をすることができます。たぶん、多くの家では、食事でもおやつでも、食べ残してしまうほど食べ物があることでしょう。それは、お金を出してお店で買ってきたものかも知れませんが、もともとは、畑や山でできたもの、牧場で育ったもの、海や山から採ってくるものなどです。それは、農家や牧場の人が一所懸命に働いて育てたり、漁師の人が船に乗って汗を流して採ってきたものです。農家や牧場の人、漁師の人がいなかったら、私たちは、自分で畑を耕して野菜を作ったり、庭で牛や豚を飼ったり、船に乗って魚を捕ってきたりしないと、毎日、こんなにいろいろなものを食事で食べることはできないでしょう。ですから、そういう仕事をしている人たちのこともおぼえて、毎日の食事を食べることも、大切なことです。

私たちは、食事を食べるときに、「いただきます」と言います。日本人の私たちには、食事を食べるときに「いただきます」と言うのは当たり前のようですが、外国の言葉では、あまり、そういう言葉は無いのだそうです。「いただきます」と言うのは、米や野菜や肉など食べ物の命を「いただく」という意味です。また、もともと誰かが作ってくれたものを「いただく」という意味もあるかも知れません。「いただきます」と言って、私たちは、もともと自分のものではなかった食べ物を「いただく」ことができて感謝します、だれかが働いて作ってくれたものを「いただく」ことができてありがとう、という気持ちを言い表しているのです。そういう気持ちを持って食事をいただくことも、とても大切なことです。

けれども、もっと大切なことは、そういうお米や野菜、牛や豚、魚などを、私たちが食べることのできるものとしてこの世界にお造りくださり、そして育つような環境をお造りくださった方、世界を創造された神さまに感謝することです。イエスさまのことを世界中に伝えたパウロというお弟子は、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Tコリ3:6)と言っています。人も、動物も植物も、世界も地球も、この宇宙も、すべてをお造りくださり、命を与えてくださり、そして、私たちが働く場所も与えてくださった神さまです。

この世界のものは何でも、神さまのお考えのとおりに私たちが用いることができるならば、きっと、良いものに違いありません。収穫感謝礼拝で、私たちは、特に畑の実りの収穫を神さまに感謝していますが、それだけでなく、神さまが世界中のすべてのものをお造りくださり、私たちに必要なものを恵みとしてお与えくださっていることをおぼえて、神さまに感謝したいと思います。

 

収穫を分かち合おう

アメリカでも、ちょうど今の時期に、感謝祭Thanksgiving Dayがあります。アメリカでは、クリスマスの次に大切にされているお祭りだそうです。収穫感謝祭になると、いつもは離ればなれに暮らしている家族が皆、帰ってきて、一緒に祝います。そして、七面鳥のお料理など、家ごとに受け継がれてきた食事を食べて過ごすのです。

このアメリカの収穫感謝祭の始まりは、有名ですから、皆さんもよくご存じでしょう。1620年、まだアメリカという国ができる前、イギリスからアメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズというグループの人たちがいました。この人たちは、神さまを熱心に信じるクリスチャンの人たちでしたが、アメリカに渡った最初の冬には、たくさんの仲間が死んでしまいました。とても寒かったのと、食べ物を作ることができなかったからです。ところが、この人たちが住むようになった土地のすぐ近くにいた先住アメリカ人(インディアン)の人たちが食べ物を分けてくれたりして、助けてくれたのです。そして、春になると、先住アメリカ人の人たちにトウモロコシの作り方などを教えてもらって、秋には、たくさんの実りを収穫することができたのでした。そこで、イギリスから渡ってきたピルグリム・ファーザーズの人たちは、助けてくれた先住アメリカ人の人たちも招いて、秋の実りの収穫を感謝する礼拝と食事をしました。このような出来事をおぼえて、アメリカの人たちは、今でも、毎年、皆で盛大に感謝祭をお祝いするのです。

ところで、聖書の中にも、似たようなお話しがあります。それは、申命記26章などに伝えられているお祝いです。

聖書のお話しは、イスラエルの人たちが神さまに導かれて歩んだお話しです。イスラエルの人たちは、エジプトの国に長く住んでいましたが、あるとき、神さまは、モーセさんに命令して、イスラエルの人たちをエジプトから連れ出させられました。「出エジプト」と呼ばれる出来事です。エジプトの国を出たイスラエルの人たちは、荒れ野を旅して、毎日毎日、神さまが天から降らせてくださる「マナ」や「うずら」を食べて暮らしました。けれども、神さまは、いつまでもイスラエルの人たちに荒れ野での旅を続けさせたわけではありません。神さまは、「乳と蜜の流れる土地」と呼ばれる、すばらしい土地に、イスラエルの人たちを導き入れてくださって、そこに住むことができるようにしてくださったのです。そこで、イスラエルの人たちは、神さまが与えてくださった土地で取れる実りのうち、毎年最初にできる初物を別に分けて取ってかごに入れて、神さまを礼拝する祭壇に持って行って供えたのです。そして、昔、自分たちがエジプトから神さまに導かれて、新しい土地に入ることができたことを思い出したのです。そして、そればかりか、神さまから与えていただいたものを、町の中の貧しい人や困っている人たちみんなに分けて、みんなで満腹するまで食べて、自分たちだけでなく町中の人たちと一緒に喜び、お祝いするときを持ったそうです。

神さまは、畑のものだけでなく、たくさんのものを、私たちにくださいます。私たちは、大人の人であれば、自分が働いて稼いだお金で買ったものは、もちろん自分のものだと思っています。子どもでも、お父さんお母さんに買ってもらったものは、自分のものだと思っています。もちろん、それは、お金を自分で払ったかどうかはともかくとして、一人一人に神さまがお与えくださったものですから、自分のものとして大切にしなければなりません。けれども、もっと大切なことは、私たちは、本当は何も持っていなかったのに、神さまが、私たち一人一人にそれぞれの持ち物をお与えくださったということです。ですから、私たちは、自分でお金を払って買った物であっても、どうしてそれが自分の持ち物として神さまから与えられているのか、よく考えてみる必要があります。自分だけのために神さまからいただいたのか、それとも、だれかと分かち合うため、だれかに分けてあげるために、神さまからあずけられているのか。神さまの御心がどうなのか、私たち一人一人、自分のこととして、よく考えてみたいと思います。

 

《信仰》の実りを実らせよう

神さまは、私たちに、たくさんの実り、恵み、賜物をくださいます。あまりに豊かなので、私たちは、いちいち感謝しきれないでいるかもしれません。それどころか、もしかしたら、私たちは、こんなにたくさんのものを神さまからいただいているのに、「もっと、もっと」と、あれを欲しがったり、これを欲しがったり、しているのではないでしょうか。

イエスさまがお話しくださったたとえ話に、「愚かな金持ちのたとえ」という話があります。

「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:16~21)

そして、イエスさまは、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」(ルカ12:33)とおっしゃられました。天の神さまのもとにある倉に、私たちの実りを蓄えるのです。

でも、どうして、そんなことができるのでしょうか。それは、イエスさまが、天におられて、私たち一人一人の実りを収穫してくださるからです。私たち一人一人が、神さまからいただいた実りや恵み、賜物を用いて、毎日毎日、神さまに喜ばれる実りを実らせる生き方をするとき、その実りを、イエスさまは、天におられて、刈り取って、収穫してくださって、天の倉に納めてくださるのです。

先週、教会では、一人の方のご葬儀がありました。76歳で洗礼を受けて、6年間、神さまを信じる信仰の歩みを歩みました。その歩みを終えて、天に召されたとき、その人の実りは、全部、イエスさまによって、神さまのもと、天に刈り取られていきました。どのような実りだったのかは、イエスさまと父なる神さまだけがご存じです。でも、神さまを信じて歩んだ歩みの中で、たくさんの実りを実らせ、刈り取っていただいたと思います。

私たち一人一人も、人生の一日一日の歩みの中で、神さまに喜ばれる実りを実らせる歩みを続けたいと思います。私たちは、もうすでに、神さまから命をいただき、食べ物をいただき、家族をいただき、世界をいただき、たくさんの良い物をいただいているのですから、この良い物を用いて、良い実りを実らせる歩みをさせていただけるよう、祈り続けたいと思います。イエスさまの刈り入れのときは、もう始まっています。

 

祈り

主なる神。たくさんの恵み、この世界で造り出される実りに感謝します。いただいた実りと恵みを、世界中の人々と分かち合うことができますように。私たち一人一人も、あなたに喜ばれる実りを実らせる者とならせてください。アーメン