主日礼拝説教「待つべきもの」 日本基督教団藤沢教会 2006年12月3日 14見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。15その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。16その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。 (エレミヤ書 33章14〜16節) 25「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」 29それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。31それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。32はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。33天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 34「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」 (ルカによる福音書 21章25〜36節) 「待つ」 教会の歩みが、待降節(アドヴェント)に入りました。教会暦の新しい一年の始まりです。四週の待降節主日を経て、御子キリストのご降誕を祝うクリスマスを迎えます。実際には、私たちは、待降節の第四主日にあたる日曜日に繰り上げて、クリスマスを祝う主日礼拝を迎えます。 待降節は、日本語の用語が明らかにしているように、御子のご降誕を「待つ」期節です。カトリック教会でもプロテスタント教会でも、多くの教会が「待降節」という言葉を用いています。この期節、アドヴェント・クランツのロウソクに点燭しますが、毎週一本ずつ増えていくロウソクの火について歌う「主を待ち望むアドベント」(242番)という讃美歌があります。教会学校などで盛んに歌われる讃美歌のひとつです。主を待ち望む心、御子キリストを待望する信仰を、素直に歌う讃美歌です。これは、スイス人の女性が、特に子どもたちと共に守る礼拝で歌われることを願って作られた讃美歌だそうです。クリスマスの祝いの日を迎えることを楽しみに待つ子どもたちと共に、主を待ち望むことの意味を分かち合おうと願って歌われます。「待降節」という用語は、ちょうど、そのような私たちの信仰の姿勢――クリスマスの祝いの日を楽しみに待ちつつ、主を待ち望むことの意味を思い起こす――を言い表していると言っても良いかと思います。 ところで、教会によっては(例えば、聖公会の教会などでは)、この期節のことを、「降臨節」という用語で呼びます。主キリストが、天から降りて来られ、私たちのもとに臨まれる、という意味の用語です。この「降臨節」という呼び方のほうが、もとになっている「アドヴェント」という言葉の意味をよく表しているようです。「アドヴェント」という言葉は、ラテン語の「到来、出現」という意味の語から来ていますから、主が来られる、現れられる、という意味です。 ですから、私たちは、「待降節」という用語を用いてこの期節を言い表していますが、あらためて、これは、主が来られるのを待つことなのだ、主が現れられるのを待ち望むことなのだと、しっかりと心に刻み直したいと思います。待降節に、私たちは、定められたクリスマスの祝いの日から逆算して、必要な準備を進め、祝いの当日を迎えるまで待機していればよいもののように、うっかりすると思ってしまいます。年末になると、お正月を無事に迎えられるようにと備えて新年を待つ、それと同じように、クリスマスの祝いの日を無事に迎えられさえすればよい、と思ってしまっているかもしれません。 先週、私たちは、子どもたちと共に収穫感謝礼拝をささげましたが、同時に、教会暦の一年の最後の主日である「終末主日」としても憶えました。一年の最終主日に、復活の主が再び来られる再臨の日、終わりの日、終末へと心向けて礼拝をささげたのです。そして、私たちは、復活の主が再臨される終末の日へと心向けた、その余韻のうちに、御子キリストの来臨を待ち望む「待降節」を迎えたのです。再臨の主を待ち望む信仰のうちに、御子のご降誕を祝うクリスマスの祝いへと向かっていくのです。終末の日の主の再臨を待つのと同じ信仰の姿勢で、私たちは、御子のご降誕を祝うクリスマスを待ち望む「待降節」の期節を歩むよう、導かれているのです。 そこで、今日私たちに聖書日課として与えられているのは、ルカによる福音書が伝えている、終末についての主の教えの御言葉です。ここには、クリスマスの祝いを迎える備えのときには似つかわしくないような、世の終わりの日々の暗闇の現実が語られています。しかし、そのような暗闇の現実に目を向ける中で、御子キリストのご降誕の意味を知るようにと、導かれているのです。 「なすすべを知らず、不安に陥る」 クリスマスの集会案内が配られました。今年のクリスマスのテーマは「待つべきものは?」。そして、待降節の最初の主日にあたって、この礼拝の説教題は「待つべきもの」とさせていただきました。 「待つべきもの」という言葉をめぐっていろいろと調べていましたら、今、国会で審議されている教育基本法の改正問題の中で取り上げられている文章に行き当たりました。現行教育基本法の前文の最初には、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」とあるのですが、現在審議されている改正基本法では、この後段部分の「この理想の実現は、根本において教育の力にま(待)つべきものである」というくだりが削除されるようになっているのだそうです。改正に反対する人たちは、まず、この部分を削除しようとする政治家たちの意図を案じて、様々なところでこのことを論じている。そこに、私はたどり着いたというわけでした。 ここで、このことについて何か論じたりするつもりはありません。ただ、このようなことが論じられているときに、私たちの関心は、いったいどこに行ってしまっているのだろうかと、このことを、皆様と共に問いたいのです。学校の現場で起こっていることは、すでに私が子供の頃から繰り返し問題として取り上げられてきました。様々な問題が、形を変え、あるいは根底では同じものとして、繰り返し、子どもたちの現実を襲っています。学校や子供の問題だけではありません。様々な社会の問題、国際政治の問題が、私たちの手に負えない姿で、私たちを覆い尽くしている。そのように感じているのは、私だけでしょうか。 主イエスは、終わりの日々の徴として人々の姿を描きだされました。「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」。これは、何も、天変地異が世界を覆わずとも、すでに今の現実世界の私たちの姿なのではないでしょうか。もちろん、気を失って、ひっくり返ってしまったりはしていないかも知れません。けれども、この現実の中で、なすすべを知らず、不安に陥り、おびえ、恐れをおぼえ、しかし、気を失わないために、一所懸命になって別のことに関心を向け、気を紛らわせている、ということなのではないでしょうか。 このような私たちの現実の中に、主はおいでになられる、と言うのです。 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、主は、何をしてくださるのでしょうか。すべての私たちの不安を取り除いてくださるように、世界を変革してくださるのでしょうか。突如として、この世界がパラダイスに変えられるのでしょうか。私たちは勝手に想像しますが、主イエスは、何も約束の言葉を語られていません。ただ、言われるのです。 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」 このようなことが起こり始めたら、つまり、私たちがなすすべを知らず、不安に陥るような暗闇の現実へと世界が落ち込み始めたら、そのときは、人の子であるキリストが来られるのを見るときなのだから、身を起こして頭を上げなさい。そして、主を見上げなさい、と主イエスは私たちに言われるのです。 今は、なすすべを知らないかもしれない。不安に陥っているかも知れない。気を失わんばかりかも知れない。けれども、そのような今こそ、身を起こして頭を上げ、主を見上げる。主がすでに来られているのを、信仰の目をもって見る。そこに、私たちの力や栄光ではないもの、主の力と栄光があることを見るのです。 「いつも目を覚まして祈りなさい」 しかし、主が来られるのを、どのように見るのでしょうか。信仰の目をもって見ると、断りなく言いましたが、それはどういうことでしょうか。信仰があれば、ここに書かれている通り、雲に乗って来るのを…見ることができるのでしょうか。 おかしな言い方かも知れませんが、ちょうど孫悟空が雲に乗って飛ぶようにして、主イエスが雲に乗って来られたら、そのとき、私たちには見えるのでしょうか。雲が余程低いところにあれば別ですが、通常、私たちは雲の下側しか見ていません。雲の上側の様子は、高い山に登ったときや飛行機に乗ったときにしか見ることができません。ですから、屁理屈かも知れませんが、私は、主イエスが雲に乗って来られても、地上からは見えないのではないかと思えてならないのです。 それでは、雲に乗って来るのを…見るというのは勝手な想像で言っているだけなのかと言えば、そうではないと思います。聖書で雲が登場するのは、神のご臨在が語られる場合です。ですから、主イエスが雲に乗って来られるというのは、まさに神ご自身として主がご臨在なさる、ということなのではないでしょうか。 では、私たちは、肉眼では何も見えないけれども、ただ信仰の目で見ることを信じるだけなのでしょうか。 主イエスは、たとえを話されて、言われます。いちじくの木やほかの木が葉を出し始めれば、既に夏の近づいたことが分かる。それと同じように、これらのことが起こるのを見たら、つまり、私たちがなすすべを知らず、不安に陥るような暗闇の現実へと世界が落ち込み始めたら、神の国が近づいていることを悟りなさい、と言われる。また、続けて言われます。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。…あなたがたは…人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」 主は、私たちに、しるしを見落とさずに、神の国の接近を悟りなさい、心を鈍らせないで、主の現れられる日を待ちなさい、と言われます。主の来られることは、信仰の感受性を高めて、鋭い心をもって集中しないと、見落としてしまうのです。不意に、思いがけず、主は来られるからです。私たちの予定外のところで、予想とは違うところで、期待してもいないところで、主は来られるからです。ちょうど、二千年前に、田舎の少女のもとに来られ、馬小屋の飼い葉桶の中に現れられたように、です。しかし、そこで、確かに、人は主のご存在を見ることができる。マリアやヨセフや羊飼いたちが見たように、私たちも、この暗澹たる暗闇のような現実世界の中のどこかで、主のご存在に出会うのです。主が来てくださっていることを見るのです。私たちの間で新しい御業を始めてくださる主を見る。 今は、そのお姿を見いだす信仰の感覚を研ぎ澄まさせていただくときです。 祈り 主なる神。主のおいでを待ち望みます。この暗闇の世界で、主がすでに来てくださって、御業をお始めくださっていることに、気づかせてください。アーメン |
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