主日礼拝説教「希望の源」 日本基督教団藤沢教会 2006年12月10日(待降節第2主日) 1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。 穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。 2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか。 わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる。 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。 3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。 わたしはあなたたちと とこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。 4 見よ かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし 諸国民の指導者、統治者とした。 5 今、あなたは知らなかった国に呼びかける。 あなたを知らなかった国は あなたのもとに馳せ参じるであろう。 あなたの神である主 あなたに輝きを与えられる イスラエルの聖なる神のゆえに。 6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。 7 神に逆らう者はその道を離れ 悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。 主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。 わたしたちの神に立ち帰るならば 豊かに赦してくださる。 8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。 9 天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。 10 雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。 それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。 11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。 それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。 (イザヤ書 55章1〜11節) 4かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。 7だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。8わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、9異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。10また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、11更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。12また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」13希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 (ローマの信徒への手紙 15章4〜13節) 希望 待降節の第二週目を迎え、アドヴェント・クランツの二本目のロウソクがともりました。この二本目のロウソクを、ある人たちは、「平和のロウソク」と呼びます。四本のロウソクそれぞれを「希望」「平和」「喜び」「愛」と呼び、アドヴェントの四週のうちに順にともしていくのです。 アドヴェントの二本目のロウソクをともした今日、待降節第二主日に与えられている御言葉は、イザヤ書55章からの御言葉とローマの信徒への手紙15章からの御言葉です。特に、ローマの信徒への手紙15章の13節までの御言葉は、伝統的に待降節第二主日に朗読されることが大切にされてきた御言葉です。 この手紙を書いた使徒パウロは、この箇所の終わりの部分で、こう記します。 「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」 ここには、アドヴェントの4本のロウソクに託される言葉のうち三つ、すなわち、「喜び」と「平和」と「希望」が「あなたがたを満たすように」と、パウロによって祈られています。希望の源である神が、そのことを実現してくださるように、との願いです。そのことをあなた方が信じて、待つことができるように、との勧めです。この願いと勧めを語る御言葉を、今、主の降誕を待ち望む待降節に、私たちは、あらためて心開いて、聴き取ろうとしているのです。 希望の源である神。パウロは、主イエス・キリストの神、つまりキリストを私たちのためにお送りくださった神を、そのように呼びます。私たちが希望を置くべき方、私たちに希望をお与えくださる方、それが主イエス・キリストをお与えくださった父なる神でいらっしゃると、パウロは言うのです。 パウロの記した手紙を読んでいきますと、「希望」という言葉を大変よく用いていることに気づきます。比べるようなことではないかも知れませんが、福音書をいくら読んでも、主イエスの御言葉の中には「希望」という言葉を見つけることができません。主イエスは、「希望」について語られることはなかったのです。ところが、パウロは、どの手紙でも繰り返し「希望」について語ります。例えば、このローマ書では、「(アブラハム)は希望するすべもなかったときに、なおも望を抱いて、信じ」(4:18)、「わたしたちは…神の栄光にあずかる希望を誇りにし」(5:1~2)、「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(5:3~5)、「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(8:24~25)、といった具合です。 私たちの時代は、「希望なき時代」などとも言われます。特に若い世代や子どもたちの間で、将来に対する希望が失われていると報告されたりします。「子どもたちが将来に対する希望を持てる社会にしなくては!」などと言われたりします。けれども、一方では、昔から、希望というものに対する冷ややかな見方もあるのです。ギリシア神話の「パンドラの箱」の話では、人間世界の災いを封じ込めていた箱が開けられてしまったとき、最後にどうにか閉じこめられたのが「希望」だった、と語られます。中国の小説家・魯迅は、「絶望が虚妄であるのは、まさに希望と同じである」ということを述べています。また、「人類が最後に罹るのは、希望という病気だ」と言った人もありました。将来への希望など持たずに、今現在に執着して刹那的に生きる方が賢い生き方だという考えは、古今東西、少なからずあるのです。 私たちも、信仰者として生きていながら、いつのまにか、そのような「希望なき生き方」に傾いているのではないでしょうか。目に見えないものをはるかに望む姿勢を忘れ、信仰者としての歩みの中でも、教会の歩みの中でも、見えるもの、現に見ているものばかりに、私たちはあまりに囚われすぎているのではないでしょうか。希望を持って生きる姿勢から離れていく中で、希望の源である神を知ることからも、いつのまにか離れようとしてしまっているのではないでしょうか。 聖書から学んで パウロは、キリスト者が希望を持ち続けるようにと、繰り返し言葉を尽くしました。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(Tコリ13:13)。 しかし、私たちは、どのようにして希望を持ち続け、希望の源である神から離れずに生き続けることができるのでしょうか。パウロは、こう語ります。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」(4節)。パウロが言う聖書というのは、もちろん、私たちの言うところの旧約聖書のことです。パウロは、この箇所でも、いくつもの旧約聖書からの引用をしています。そして、私たちにも、今日は、イザヤ書の御言葉が与えられているのです。そこに告げられているのは、まさに、私たちがこの社会の中で現に見ているものとは違うもの、この現実とは違う神の真実の事柄であります。 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。(イザ55:1) この御言葉を、口語訳聖書はこう訳していました。「さあ、かわいている者は、みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。」ある聖書学者は、ここに語られているのは、畏まって王座からの恩寵を告知する者の言葉ではない、そうではなく、市場で物売りが根太い声で客引きをしている言葉だと説明します。人々が行き交う広場で、神が物売りのように人々を呼んでいられる。しかも、無償で買い求めよと、すべての人に呼びかけていられる。王宮にるべきはずの方が、わざわざ出てきて、そうされている。およそ現実の社会ではあり得ないことを、神は私たちに対してなさっていられる。神が、私たちを招き、糧をお与えくださり、魂に命を得させてくださるというのは、そういう、私たちの知っている現実の世界ではあり得ないような事柄が、現実の中で起こることなのだというのです。 もちろん、この主の御言葉を取り次いだ預言者イザヤは、自分の目でそのような神のなさる事柄を見ることはなかったかも知れません。けれども、主の御言葉から慰めと忍耐を学んだ、そして希望を持って預言の御言葉を語り伝えたのではないでしょうか。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」と言われる主の御言葉を心に刻みながら、イザヤは、そこにこそ、主の御言葉にこそ、人間が過去への愛着に囚われず、現在のしがらみから抜け出て、新しい神の御業の現実へと導かれる道があることを、希望を持って告げ伝えているのです。 キリストが受け入れてくださった… パウロは、イザヤをはじめとする旧約の信仰者が記した御言葉から忍耐と慰めを学んだ、と言います。そして、こう言うのです。 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように…(ロマ15:5~7) 御言葉から忍耐と慰めを学んだというパウロが、すぐに、「忍耐と慰めの源である神が」と続けていることに、心留めたいと思います。パウロは、忍耐と慰めを学んだと言ったけれども、それは何よりも、神その方が忍耐され、慰めを告げられる方であるということを学んだということなのだと、示しているのです。人間の思いを超えて忍耐され、慰めを告げられる方、主イエス・キリストにあって、それを現実になさってくださった方、その方にパウロは「受け入れていただいた」と言うのです。 希望なき世界で、希望なき生き方に留まろうとする私たちの姿を、なお忍耐してくださり、慰めを語ってくださり、この私たちにもまだ希望があるのだと告げてくださる神、その御子キリストの来てくださるところに、私たちは立ち帰らなければなりません。 祈り 主なる神。今も、御子によって御業をなしてくださる主のもとに立ち帰らせてください。忍耐と慰めを学び、希望に生きる者とならせてください。アーメン |
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