主日礼拝説教「時が来れば実現する」 日本基督教団藤沢教会 2006年12月17日(待降節第3主日) 14 娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。 15 主はお前に対する裁きを退け お前の敵を追い払われた。 イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。 16 その日、人々はエルサレムに向かって言う。 「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。 17 お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。 主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」 18 わたしは 祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。 彼らはお前から遠く離れ お前の重い恥となっていた。 19 見よ、そのときわたしは お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。 わたしは足の萎えていた者を救い 追いやられていた者を集め 彼らが恥を受けていたすべての国で 彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。 20 そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。 わたしが、お前たちの目の前で お前たちの繁栄を回復するとき わたしは、地上のすべての民の中で お前たちに誉れを与え、名をあげさせると 主は言われる。 (ゼファニヤ書 3章14~20節) 5ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。7しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。8さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、9祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。10香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。11すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。12ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。13天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。14その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。15彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、16イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。17彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」18そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」19天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。20あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」 21民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。22ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。23やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。24その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。25「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」 (ルカによる福音書 1章5~25節) 喜びの告知 待降節の第3週を迎え、アドヴェントの三本目のロウソクに火がともりました。この日曜日を、ある人たちは「喜びの主日」と呼び、控えめな喜びを表す意味で、アドヴェント・クランツの三本目のロウソクだけを薄いピンク色のものにしたりいたします。主のご降誕を祝うクリスマスを前にして、来るべき真の喜びの先駆けを聴き、希望のうちにこの主日を祝うのです。 クリスマスを前にしての喜びの先駆け。それは、あの洗礼者ヨハネとともに訪れます。待降節第三主日に、教会は、イザヤの預言とともに語られる洗礼者ヨハネを憶えてきました。 洗礼者ヨハネは、主イエスと同じ時代に、主に先立って人々の前に現れ、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた(ルカ3:3)人でした。各福音書は、この洗礼者ヨハネの姿は、預言者イザヤが告げていたとおりの姿だと語るのです。 「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」(ルカ3:4~6≒イザ40:3~5)。 洗礼者ヨハネは、荒れ野で人々に呼びかけ、神の怒りを告げました。人々が自らの罪を深く悔い改めるべきことを告げました。そして、悔い改めのしるしとして洗礼を授けました。主イエスもまた、この洗礼者ヨハネの洗礼の業にあずかられたことを、私たちは、よく知っております。 そのような洗礼者ヨハネの姿を思い浮かべるとき、私たちは、果たして心のうちに喜びを抱くのでしょうか。むしろ、日々の生活に流されて易々と喜んではいられない、と思わされ、信仰に立ち帰り、襟を正して神の御前に立ち直さなければならない、という思いを与えられるのではないかと思います。けれども、教会は、そのような洗礼者ヨハネを、むしろ喜びの先駆けとして憶えてきました。主の道を備え、真の喜びをお与えくださる方へと心を向け直すために、先に立ってくれる人物として、この、厳しく罪を指摘し、悔い改めを迫った、洗礼者ヨハネを、大切に憶えてきたのです。 ルカ福音書は、その洗礼者ヨハネの誕生の次第を伝えます。幼子の誕生それ自体、その家族や親しい者にとっては、大きな喜びです。洗礼者ヨハネも、そのような喜びのうちに生まれました。しかも、年寄り子として、特別な喜びのうちに生まれました。けれども、ただそれだけではありません。年老いた夫妻を通して、神がご自身のご計画――人々に真の喜びを告げ、もたらしてくださるご計画――を実現なさるために、幼子ヨハネは誕生されられたと、告げられるのです。 神の御前に立つ 洗礼者ヨハネの父は、ユダヤの祭司職にあるザカリアという人でした。彼については、アビヤ組という組に属する祭司の家系であったことしか伝えられません。しかし、そのようなことよりも、彼と妻は、二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めを守り、非のうちどころがなかった(6節)と言われているように、神の御言葉に従う敬虔な信仰者であったのです。 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた(7節)。神の前に正しく、信仰深くあっても、必ずしも、すべて期待どおり順調に運ぶわけではありません。彼らは、子が与えられないまま、年を重ねていたのです。それは大きな嘆きであったに違いありません。人々からは、恵みから落ちている者と見られたでしょう。けれども、それもまた、彼らが信仰を深めていくために神によって備えられた道であったかも知れません。だからこそ、神の時が満ちたとき、ザカリアは、神の御前に立つことになったのです。 …ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた(8~10節)。 ユダヤの祭司の組は二十四あって、週ごとに当番を受け持ちました。各組は、年に二度、当番が回ってきて、神殿の務めに就いたのです。ただ、そのとき聖所にまで入って香をたくのは、くじを引いて当たった祭司だけでした。当時、祭司職にある者は二万人ほどもいて、この務めに就く機会は、生涯に一度あるかないかであったといいます。ザカリアは、すでに年を重ねていましたが、このとき、はじめて聖所に入って香をたく務めを行うことになったのです。 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた(11~12節)。ザカリアは、もちろん、聖所で香をたく手順については、十分に訓練を受けてきていたでありましょう。しかしまた、どれほど準備して臨むことでも、初めて行うことは緊張をともなうものです。ザカリアも、神の御前に立って大勢の人々の代表として祈り、香をたくという、この儀式の、その手順を間違いなく行うことに、多くの気をとられていたかも知れません。それゆえ、思わぬ出来事に動揺し、不安になり、恐怖の念に襲われたのです。 神の前に正しく生きてきた信仰深いザカリアです。一生の不覚であったかも知れません。まさに万事を整えて人々の代表として神の御前に立ったとき、事もあろうに神の遣わされた天使に出会うとは、思わなかったのです。 神の御前に立ち、御言葉を聴くために礼拝に出席しながら、主の遣わされた者に出会い、神の御言葉に触れて、びっくり仰天してしまった。考えてみれば、おかしな話です。しかし、案外、私たちにとっても他人事ではないかもしれません。礼拝に集っていながら、本当には、そこで主の遣わされた者と出会い、神の御言葉に聴くという準備が、できていなかったりするのです。ザカリアがそうであったように、牧師や司式者など奉仕に就く者は、なおさら、そういう準備が不十分のまま礼拝を始めてしまう危険にさらされているとさえ言えるかもしれません。 沈黙 主の天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり…」(13~17節)。 天使がザカリアに告げたことは、私たちがすでに洗礼者ヨハネという人物として知っている事柄です。大いなる器として神に用いられるために、ヨハネは生まれたのです。しかし、このとき主の天使の出現に動揺していたザカリアは、神のご計画を告げる御言葉に素直に黙って耳を傾け、従うことができませんでした。 そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。 考えてみれば、このザカリアの答えは、至極真っ当なものかも知れません。人間の知恵や知識、常識やしきたりを重んじる者であれば、ザカリアのように主の天使の前で動揺していなくても、こう答えるかも知れません。神のご計画が告げられる御言葉に、私たち人間の理解は、必ずしも届かないのです。神の御前に出て礼拝をささげることを知っている者であっても、まさに神の御前に出たときに告げられた御言葉を、神の御言葉として信じ、受けとめることができないことがある。このザカリアの姿は、今礼拝をささげている私たちの姿に他なりません。 そのような者に対して、主の天使は、沈黙を命じられました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」(19~20節)。ザカリアの「何によって?」という問いかけに応えて与えられた主のしるし、それは沈黙です。しかし、それは罰としての沈黙ではありません。信じられなかった神の御言葉を、信じることができるようになるための、その御言葉が実現するときまでの、神から与えられた沈黙です。 神は、私たちに沈黙するときをお与えになるのです。私たちは、自分の知恵や知識で語り、計画し、実行しなければならないような強迫観念のもとに生きている。けれども、神は、「あなたは、自分の知恵や分別で語らなくてよい」と告げてくださる。それは、主の御言葉は時が来れば実現するということを、私たちがこの目で見て、信じるようになるためです。 主の御言葉は、時が来れば実現する。私たちは、主の御前に立ちます。御子のご降誕を祝うときを前にしています。このとき、今一度、御言葉の前に、沈黙が命じられ、また許されていることを、心に刻みたいと思います。そして、主の御言葉の実現することを見る者、そして信じる者とならせていただきたく思います。 祈り 主なる神。私どもの語る言葉を遮ってください。御前に沈黙させてください。御言葉が確かに実現する時まで、ただ御言葉だけに留まらせてください。アーメン
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