クリスマス礼拝説教「御言葉の実現」 日本基督教団藤沢教会 2006年12月24日 1 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち 2 その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊。 3 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。 目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。 4 弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。 その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。 5 正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。 6 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。 子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。 7 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。 8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。 9 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。 10 その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。 そのとどまるところは栄光に輝く。 (イザヤ書 11章1〜10節) 26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。37神にできないことは何一つない。」38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。 (ルカによる福音書 1章26〜38節) 《出来事としてのクリスマス》 待降節の期節を過ごしてきた私たちは、クリスマスの祝いの主日を迎えました。教会の伝統的な慣わしではいまだ待降節の内であり、ようやくアドヴェント・クランツの4本目が灯されるはずの、この待降節第4主日と呼ばれる日曜日に、少しばかり前倒しにして、クリスマスの祝いの礼拝をささげているのです。そして、今晩には、クリスマス・イブ燭火礼拝も、共々にささげようとしています。 イギリスに古くから伝わる《クリスマスの12日》という歌があります。クリスマスの一日目の贈り物、二日目の贈り物、三日目の贈り物、というようにして十二日目までのクリスマスの贈り物を歌う数え歌で、特に子どもたちにとってはクリスマス・シーズンに欠かせない歌のひとつだそうです。12月25日から1月6日までの12日間をクリスマス・シーズンとして、大人も子供も皆共に連日祝っていた時代の名残だと言われます。今では、そのように12日間にも渡ってクリスマスを祝い続けるところはほとんどありません。それに代わって万国共通に行われているのが、クリスマス前に贈り物や飾り物の売り買いで大にぎわいすることかもしれません。今や、クリスマス・シーズンは、アドヴェントの内にピークを迎えて、12月25日をもって急速に終わりを迎えるものとなっているのです。 ある説教者が、「わたしたちが迎えるクリスマスには少なくとも三つのクリスマスがある」と述べています。一つ目は「季節としてのクリスマス」です。それは、宗教や信仰にかかわらず年中行事としてだれのところにも訪れてくる、しかし一過性のクリスマスです。二つ目は「思い出としてのクリスマス」です。それは、幼い頃、若い頃に経験した楽しく甘美でメルヘンの世界のような、しかしその意味では過去のクリスマスです。そして三つ目は、「出来事としてのクリスマス」です。それは、一人の人間にとって、また世界にとって、これからの生き方を定め、進んでいくべき方向をいつまでも指し示し続けるような、それゆえに過去と将来とをはっきり区切る決定的な出来事として迫ってくるクリスマスです。 私たちは、どのようなクリスマスを過ごしてきたでしょうか。今、この年のクリスマスを、どのようなものとして歩んでいるでしょうか。 クリスマスの物語を伝える聖書は、私たちに、「出来事としてのクリスマス」を告げます。神の御子イエス・キリストの誕生によって、ひとつの生き方が定められ、進んでいくべき方向が与えられた人々、新しい歩みが始められた人々。その人々の経験した出来事としてのクリスマスです。そのようなクリスマスを告げる御言葉に、私たちは耳を傾けます。クリスマスの出来事が、時を超えて今、私たちの間でもひとつの出来事となる、という使信を聴きます。私たちもまた、このクリスマスの出来事の中に加えられていることを、共に確かめたいと思います 天使の告げるクリスマス 六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった(ルカ1:26~27)。 聖書の告げるクリスマスの出来事は、天使の御告げと共に始まります。御子イエスの母マリアのもとに、またマリアの夫ヨセフのもとに、天使が現れ、神からの御言葉が告げられました。天使の御告げと共に、マリアとヨセフはクリスマスの出来事へと導き入れられたのです。また、御子誕生の証人である羊飼いたちも、天使の御告げと共に、このクリスマスの出来事へと導き入れられたのでした。 私たちの人生の中で決定的な出来事とは、どのようなものでありましょうか。それは、しばしば、外から否応なく与えられて、受けとめざるを得えずに起こされる出来事であるように思います。私たち自身の中で積み上げていった経験や企てが役に立たなくなる出来事です。マリアとヨセフにとって、クリスマスの出来事とは、まったく思いがけず、自分たちの外から否応なく与えられて、受けとめざるを得なかった出来事でした。神から遣わされた天使の御告げによって始められる出来事など、人はだれも、期待することも予定することもできないからです。 多くの説教者が、クリスマスの出来事とは、神がマリアやヨセフの生活の中に介入してきた出来事だと、あるいは突入してきた出来事だと、語ります。神が、天使に託した御言葉によって、人間の営みを遮り、その中に入り込んでくるのです。神が、御言葉によって、私たちの人生の中に介入してこられる、入り込んでこられる、そのような経験を、私たちもいたします。聖書の御言葉が、ただ自分の語る言葉を補ってくれるというようなこととはちがう、むしろ、御言葉が、自分の語ろうとする言葉を遮り、沈黙させるように迫ってくる経験です。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが…」。マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか…」…(ルカ1:28~37)。 天使の告げる言葉に戸惑い、何のことかと考え込むマリアが、ここにいます。天使の告げる御言葉に対して、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と否定的に問わずにいられないマリアです。もちろん、マリアは、そのように反応するしかなかったのです。結婚前の、いまだ婚約期間を過ごしているにすぎない、恐らく十代前半の少女です。子を身ごもるという御告げを、素直に喜べるはずがありません。それが事実とすれば、受けとめがたい事実であったはずです。戸惑い、考え込み、「そんなこと、あり得ない」と否定しても当然なのです。 けれども、そのように応じるしかないであろうマリアに対して、天使が告げる御言葉は、圧倒するような響きをもって迫るのです。「おめでとう、恵まれた方」(28節)、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(30節)、「神にできないことは何一つない」(37節)。それは、マリアに、ひとつの決断を迫るものです。神から与えられる恵みを、受けとめるのか、受けとめないのか。神のご計画に、乗るのか、降りるのか。神の御言葉の支配に服して、御言葉の実現を待つのか、それとも、自分の言葉を主張して、自己実現を計り続けるのか。 私たち各自の中で、このマリアが迫られたような決断が問われているのです。 「お言葉どおり、この身に成りますように」 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った(38節)。 マリアの決断です。「自分ではなく、神の御言葉が実現しますように。自分の身が、自分の計画のためのものではなく、神のご計画の実現するための器となりますように」。マリアの信仰の決断に、私たちは、もしかすると圧倒されるかも知れません。自分とはちがう、高尚な、立派な信仰者の姿を見るかも知れません。 もちろん、マリアは、私たちとは違います。「聖母マリア」として崇敬しなくても、マリアは、明らかに私たちとは違うのです。彼女は、神の御子・主イエスを生んだ母なのですから。神が世界でただ一人選ばれた女なのですから。けれども、また、このマリアは私たち自身でもあると、私たちは知らなければなりません。マリアの中に神の御子キリストが宿るというクリスマスの出来事は、私たち一人一人の中でも起こることだからです。御言葉と共に、私たちの内にあってお働きくださる御子が宿り、成長し、御言葉に服すこと、御言葉の実現を待つことをお教えくださる、ということが、私たち一人一人の内でも、起こるのです。 私たちは、忘れてはなりません。私たちは、すでにクリスマスの出来事を祝う交わりに加えられているのです。私たち一人一人は、すでにクリスマスの出来事の中に導き入れられているのです。すでに、こうして、クリスマスに降誕されたキリストの御体である教会に集められているのです。洗礼を受けた者は、すでに御子キリストが宿ってくださるという神の御言葉を聴いて受け入れ、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈って、洗礼を受けた者なのです。今から、受けようとしている者も、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈って、洗礼を受ける者なのです。 もしかすると、「あなたは恵まれた方、神から恵みをいただいている」と告げられても、戸惑うかもしれません。考え込むかも知れません。「あり得ない」と、心の中で叫ぶかも知れません。それでも、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈ることから始まる生き方があることを、私たちは知っています。そのように生きている人々の群れ、教会があることを知っています。 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18:20)。キリストは、マリアの胎に宿られたように、私たちの間にも宿られます。ここで、クリスマスの出来事が起こるのです。今日、主の天使が私たちに告げています、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と。私たちは、戸惑いつつも、共々にお答えさせていただきたいと思います。「私たちは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」。 祈り 主なる神。私どもと共にいて恵みをくださることに感謝します。今、私どもの間に御子を宿らせてください。御言葉が、私どもの間で成りますように。アーメン
|
---|