主日礼拝説教「宝の箱を開けて」

日本基督教団藤沢教会 20061231

1 主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた。

わたしを遣わして 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。

打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために。

2 主が恵みをお与えになる年 わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め

3 シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ

 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。

彼らは主が輝きを現すために植えられた 正義の樫の木と呼ばれる。

4 彼らはとこしえの廃虚を建て直し 古い荒廃の跡を興す。

廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

5 他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い 異邦の人々があなたたちの畑を耕し

 ぶどう畑の手入れをする。

6 あなたたちは主の祭司と呼ばれ わたしたちの神に仕える者とされ

 国々の富を享受し 彼らの栄光を自分のものとする。

7 あなたたちは二倍の恥を受け 嘲りが彼らの分だと言われたから

 その地で二倍のものを継ぎ 永遠の喜びを受ける。

8 主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。

まことをもって彼らの労苦に報い とこしえの契約を彼らと結ぶ。

9 彼らの一族は国々に知られ 子孫は諸国の民に知られるようになる。

彼らを見る人はすべて認めるであろう これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。

10 わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。

主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。

花婿のように輝きの冠をかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる。

11 大地が草の芽を萌えいでさせ 園が蒔かれた種を芽生えさせるように

 主なる神はすべての民の前で 恵みと栄誉を芽生えさせてくださる。  (イザヤ書 61111節)

 

1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

        (マタイによる福音書 2章1〜12節)

礼拝から礼拝へ

新年を迎えるための装いへと急ぎ足に衣替えした街々をよそに、教会は、年末年始のこのときを、いまだクリスマスの祝いの余韻の中で過ごしています。古くからの習慣で、教会は、1225日の降誕日から16日の公現日までの12日間をクリスマスの祝いの時としてきました。私たちもまた、クリスマスの装いのままの会堂で、新年を迎えようとしています。もっとも、カレンダーだけは、年末の片づけの中で、すでに新しい年のものに掛け替えてしまいました。

古いカレンダーを取り外していて、ふと、つまらないことに気づきました。今年2006年は、年の初めも年の終わりも、日曜日だったということです(実は、閏年でなければ、年の初めと年の終わりは同じ曜日になるのです)。11日、私たちは、今年最初の主日礼拝をささげました。そして、今日1231日に、私たちは、今年最後の主日礼拝をささげているのです。つまらないことかもしれませんが、私は、大変うれしいような気分になりました。「礼拝から礼拝へ」、「信仰から信仰へ」、「恵みから恵みへ」。私たちの歩んだこの一年は、そのように振り返ることのできる恵みの年として与えられていたのだと思えたからです。

実際には、私たちは、「礼拝から礼拝へ」という週ごとの日々を、息を切らしながら、どうにかこうにかやり抜けてきたのであったかもしれません。

当たり前のように日曜日ごと教会に集い、礼拝をささげることのできる生活が守られた方もいらっしゃったでしょう。けれども、中には、一週間、万全の備えをなさらないと、日曜日に教会に来て礼拝をささげることがおできにならない方も、いらっしゃいました。なかなか備えが万全とはいかず、日曜日ごとに礼拝をささげることがおできにならなかった方も、少なくありません。いや、それどころか、ほとんど礼拝に集うことがおできにならなかった方も、私たちの教会にはいらっしゃるのです。ご高齢で、ご病気で、体調が優れなくて、あるいはお仕事やご家庭の事情で、日曜日の朝の定められた時間にこの場所においでになることが難しい方が、幾人もいらっしゃるのです。「せめて、一年に一度、クリスマス礼拝だけは」との願いを持って、先週のクリスマス礼拝においでになられた方もいらっしゃったでしょう。それでも、礼拝出席は180人あまりで、全教会員の数には遠く及ばなかったのです。

そのような中で、皆さんの多くは、一年に一度、大晦日しか礼拝に出られない、というような方ではないでしょう。むしろ、ほとんどの方は、ほぼ毎週、あるいは欠ける週があってもほぼ定期的に、礼拝に集うことができていらっしゃる。もちろん、牧師である私も、その一人です。「礼拝から礼拝へ」という恵みの日々を満喫する贅沢を許されていて、私たちは、大晦日の今日も、日曜日の礼拝に集うことができたのです。ですから、このような贅沢を許されている者として、やはり、「礼拝から礼拝へ」という礼拝の生活を確保できないでいらっしゃる教会の兄弟姉妹のことを思わないではいられません。そのような方たちが、来る年には、礼拝に集う機会を一回でも二回でも増やしていただけるように、「礼拝から礼拝へ」という礼拝の生活が少しでも豊かなものとして確保していただけるようにすることが、私たち贅沢を許されている者に与えられた責任、使命なのではないでしょうか。

 

クリスマス=キリスト礼拝

クリスマス後最初の日曜日です。私たちの属する教団の聖書日課は、この日曜日に、ほぼ毎年、マタイによる福音書2章にある物語、東方の占星術の学者たち(三人の博士)が幼子イエスを訪ね、礼拝する物語を読むように定めています。

私は、牧師になって初めの数年、この物語がクリスマスの最も盛大な祝いの後のこの日に読まれることが、どことなく腑に落ちませんでした。この物語は、子どもたちがクリスマスの祝いで演じるページェントでも、クライマックスを彩る場面です。天使に導かれて飼い葉桶に寝かせてある幼子イエスを訪ねたのは羊飼いたちでしたが、その様子を伝えるルカ福音書(2)によれば、彼ら羊飼いたちは、確かに天使の告げたことが本当だったので驚き、神を賛美しながら帰っていったのですが、幼子イエスに対して拝んだり、献げものをしたりはしなかったのです。けれども、占星術の学者たちは違います。彼らは、はじめからユダヤ人の王としてお生まれになった方拝みに来たのです(2)。そして、星に導かれたところで家に入り、彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた(11)のでした。クリスマスの物語がまさにクリスマス=キリスト礼拝として物語られている、その意味では、私たちのクリスマス礼拝の原型がここにあるということのできる物語が、この占星術の学者たちの物語なのです。ですから、私たちの習慣ですでにクリスマス礼拝が終わっているこの日に、この物語が読まれるというのは合点がいかないような気がしていたのです。

けれども、毎年毎年、この聖書の箇所を与えられて味わう中で、この日にこの物語の箇所に耳を傾けることも、味わい深いことなのだと思うようになってきました。クリスマスの祝いが一段落した後にこの物語を聴くと、私は、「ああ、今年のアドベントからクリスマスまでの歩みを、自分は、また教会は、この学者たちのように、幼子のキリストを探し求めて御言葉に聴いてきただろうか。星に導かれるようにして、幼子と出会い、キリストを礼拝しただろうか。この学者たちのように、自分の宝の箱を開けて、主に贈り物をお献げしただろうか」と、今一度振り返る機会を与えられるような思いになるからです。

先週のクリスマス礼拝で、三人の兄姉が受洗され、一人の姉妹が堅信礼を受けられました。今日発行の「はこぶね」には、それぞれの方の証しの言葉が記されています。あらためて、感謝と喜びを与えられる思いがします。振り返って、お一人お一人に多くの時間を割いていただき、洗礼あるいは堅信礼への備えのときを歩んでいただきました。長い方は半年にもわたって毎月一度程度の準備会を持ち、最後に、役員会での試問でご自分の信仰の言葉を述べていただきました。その歩みを共にさせていただいて、本当に恵み深い思いを与えられています。

教会に集われるようになってから受洗や信仰告白の決心をなさるまで、また、決心をなさってから式に至るまで、それぞれの方の歩みがありました。占星術の学者たちが星の知識を頼りに歩みを進めたように、どなたも、ご自分の知るところから始めて、御子キリストへの信仰を確かにしようと歩んでこられました。学者たちがエルサレムでユダヤの祭司長たちや律法学者たちの示す聖書の御言葉に出会ったように、どなたも、聖書の御言葉によって歩み方を正されながら、歩んでこられました。初志貫徹まっすぐに式の当日を迎えられた方も、途中で迷いながら歩みを進めて来られた方も、皆、幼子を礼拝するクリスマス礼拝に導かれて、洗礼の恵みに、また堅信礼の恵みにあずかることがおできになられました。そして、そこで、どなたも、自分を御子キリストにささげる献身の思いを誓約なさったのです。それは、本当に貴い信仰の言葉であったと思います。学者たちが、東方から携え持ってきた大事な宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を幼子に献げたように、四人の方々は、ご自分の心の中の大切なところを開いて、自分自身を、自分の中に生まれてきてくださる幼子キリストに献げ、委ねられたのです。

 

別の道へ

私たちも皆、そのようにして信仰の歩みを始めたのであったと思います。ただ、私たちは、そのように始めた信仰の歩み、そしてキリストを礼拝する生活を、順風満帆に歩んできたのではないかも知れません。「礼拝から礼拝へ」といっても、いつも喜びにみちて日曜日を迎えているのではないかも知れません。「日曜日が来るから礼拝に行く」というだけのことかも知れません。洗礼を受けた者として最初の「礼拝から礼拝へ」のひと巡りを喜びのうちに歩まれた方も、「礼拝から礼拝へ」という歩みが守れなくなる日が来るかも知れません。それでも、私たちは、礼拝に導かれる一回一回を共に支え合って守り続けたいと思います。なぜなら、私たちは、礼拝から送り出されるときにこそ、今まで歩んできたところに戻るのではない、新しい別の道へ歩みを進めることを、導かれるからです。幼子を礼拝した学者たちが、主のお告げくださるところによって、もと来た道ではない、別の新しい道に進み行くことができたように、です。

一年ひと巡り、毎年同じようにクリスマスを祝い、新年を迎えます。けれども、行く年は日曜日だった11日を、来る年には月曜日として迎えるのです。私たちは、自分では遅々とした歩みのようにしか思えなくても、クリスマスを祝うたびに、キリストを礼拝するたびに、主の導きによって、今までとはちがう、新しい別の道へと導かれて行くのです。

 

祈り

主なる神。礼拝へと導き、御子と出会わせてくださる恵みに感謝いたします。どうぞ、あなたが備えてくださる新しい別の道を歩ませてください。アーメン