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主日礼拝説教「天が開く」 日本基督教団藤沢教会 2007年1月7日 1ヨシュアは、朝早く起き、イスラエルの人々すべてと共にシティムを出発し、ヨルダン川の岸に着いたが、川を渡る前に、そこで野営した。2三日たってから、民の役人は宿営の中を巡り、3民に命じた。「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。4契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」5ヨシュアは民に言った。「自分自身を聖別せよ。主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」6ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。 7主はヨシュアに言われた。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。8あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい。」9ヨシュアはイスラエルの人々に、「ここに来て、あなたたちの神、主の言葉を聞け」と命じ、10こう言った。「生ける神があなたたちの間におられて、カナン人、ヘト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人をあなたたちの前から完全に追い払ってくださることは、次のことで分かる。11見よ、全地の主の契約の箱があなたたちの先に立ってヨルダン川を渡って行く。12今、イスラエルの各部族から一人ずつ、計十二人を選び出せ。13全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう。」14ヨルダン川を渡るため、民が天幕を後にしたとき、契約の箱を担いだ祭司たちは、民の先頭に立ち、15ヨルダン川に達した。春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、16川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。そのため、アラバの海すなわち塩の海に流れ込む水は全く断たれ、民はエリコに向かって渡ることができた。17主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。 (ヨシュア記 3章1〜17節) 15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。19ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、20ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。 21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 (ルカによる福音書 3章15〜22節) 洗礼から始まる クリスマスの祝いのときであることを示していた様々な装飾も、6日の公現日をもって、取り外されました。この主日からは、幼子イエスの誕生というクリスマスの物語から進んで、洗礼から始まる主イエスの公生涯をたどりつつ、御言葉に導かれる期節に入ることになります。 主イエスの洗礼。それが、主イエスの公生涯のはじまりです。私たちが従うべき方の、公の歩みのはじまりです。 私たちは皆、洗礼を受けたときを節目に、信仰者としての歩みを始めました。教会の群れには、つい先日のクリスマス礼拝で洗礼を受けられて、信仰者としての新しい歩みを始められた方がいらっしゃいます。洗礼を受けられてから、ようやく半年、一年の歩みを歩んでこられた方もいらっしゃいます。そしてまた、十年、二十年、数十年と、洗礼を受けてからの信仰者としての歩みを歩んでこられた方も、ここにはいらっしゃいます。主イエスに従って歩んできた年数はそれぞれ違います。その歩みの中で経験してきたことも、また違います。けれども、私たちは皆、ここに、洗礼を受けることから始まる歩みを歩む信仰者として、集められているのです。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方も、洗礼を受けることから始まる歩みへと招かれて、ここにいらっしゃる。洗礼から歩み始めた者として、あるいは、洗礼へと招き導かれている者として、私たちは、ここに共にいる。その意味で、教会は《洗礼共同体》だと言っても良いのです。その《洗礼共同体》の一人ひとりとして、私たちは、主イエスの洗礼の出来事に耳を傾けるのです。 主イエスの洗礼。私たちが受ける洗礼を、主イエスも受けられました。主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのです。洗礼者ヨハネは、人々に呼びかけて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え(ルカ3:3)ていました。多くの人々が、ヨハネのもとにやってきて、罪を悔い改め、洗礼を受けたのです。彼の教えや導きは、実に力あるものであったようです。もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた(15節)ほどに、彼は人々を惹きつけていました。カリスマ宗教家です。多くの人が教えを請い、「わたしはどうすればよいですか」と尋ねに来ました。もちろん、それによって高ぶり、自らメシアを名乗るようなことをするほど、彼は愚かではありませんでした。むしろ、彼は、なおいっそう謙虚になって、来るべき方に備える自分の務めに徹したのです。 「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履き物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(16節)。 ヨハネは、いわば来たるべき方の前座です。真打ちが登場する前に舞台を整えるために、彼は自分の務めを果たしました。罪人に悔い改めを呼びかけ、主の道を整え、その道筋をまっすぐにすること、そのしるしとして人々に洗礼を授け続けたのが、ヨハネです。ところが、ここまで舞台が整えられながら、来たるべき方であるはずの主イエスは、むしろひっそりと登場してこられるのです。 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると…(21節)。 主イエスが、民衆と同じようにヨハネから洗礼を受けられた。ヨハネから人々が受けていた洗礼を、主も受けられた。人が人の為せる行為として行い得た悔い改めのしるしとしての洗礼という営みの中に、主イエスが入ってこられたのです。 私たちが行う洗礼も、ある意味でヨハネの場合と同じ、人間の為せる行為として行われるものです。牧師という職務にあるとはいえ、皆さんと同じ人間として洗礼を授けるのです。けれども、洗礼式で洗礼を授けていてふと思わされるのは、この洗礼式に主イエスが入ってこられて、いわば共に洗礼を受けてくださっているのだ、ということです。牧師が父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける、主イエスの名によって洗礼を授ける。そのとき、洗礼を受けられる方のかたわらに主イエスがいらっしゃって、共に洗礼から始まる歩みを歩み始めてくださるのです。 天が開く・聖霊が降る・これはわたしの愛する子 私たちと共に、洗礼から始まる歩みを歩んでくださる主イエスは、ヨハネから洗礼を受けられました。ヨハネの宣べ伝えていた悔い改めの洗礼を、受けられたのです。けれども、そのヨハネの洗礼を、そのまま私たちが受け継いで、教会で行っているわけではありません。ヨハネの洗礼は、主イエスが洗礼を受けられたときから、新しい洗礼、ヨハネの言う聖霊と火による洗礼に変えられたからです。 …天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた(21~22節)。 この主イエスが洗礼を受けられたときの不思議な様子を、他の福音書は主イエスご自身が御覧になられた出来事として伝えています。ところが、このルカ福音書では、むしろ周囲の人々がそれを目撃したかのように伝えます。事実がいかようであったかは、何とも言えません。けれども、ここには、主イエスが傍らに伴ってくださって受ける私たちの洗礼のときに起こることが告げられている、と言えないでしょうか。主イエスの御名によって、主イエスと結びつく洗礼を受けるとき、私たちは、民衆が目撃したように、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿で…降って来るのを見る、そして天からの声を聞くのです。 天が開く。それは、神と人との通路が開かれるということです。天上の神のもとで大合唱の賛美を続けている天使たちの、その賛美の歌声に、耳が開かれるということです。ヨハネの黙示録には、洗礼者ヨハネとは別のヨハネが幻のうちに天上の礼拝を目撃した様子が語られています。天が開くとき、黙示録のヨハネのように、天上の礼拝を知るようになるのです。 それはまた、聖霊が人間のもとに降って来るということです。聖霊は、一言で説明するのが難しいものかもしれませんが、あえて言うならば、神の御心が地上にあるものの中で、もちろん人間の中でも、実現し働いてくださることです。天が開いて聖霊が降るとき、天上の神の御心に適った礼拝が人に知られるようになり、人は、御心に適った礼拝へと導かれるのです。 そして、天からの声、「あなたはわたしの愛する子」。主イエスが神に愛された御子であることの宣言です。そして、それはまた、主イエスが傍らに伴ってくださる洗礼を受けた私たちに告げられてもいるのです。「神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェ1:4~5)。 主イエスの祈りを信じて… 教会が洗礼式を行うとき、私たちは、そこで、主イエスの洗礼を思い起こします。洗礼を受けられる方の傍らに主がいてくださって、共に洗礼を受けてくださり、あの不思議な出来事を起こしてくださっていることを、思い起こすのです。 けれども、洗礼式の中で、私たちは必ずしも、主イエスの洗礼の際に起こったような不思議な出来事として、天が開いたり、聖霊が降ったり、「あなたはわたしの愛する子」という宣言を聞いたりしていない、と言うかも知れません。それらのことは、式の中で式文の言葉として語られるだけかも知れません。洗礼を受けたけれども、ちっとも実感がない、というかも知れません。 それは、私たちの信仰の備えが足りないからでしょうか。ヨハネが導いてくれたような悔い改めが十分でないからでしょうか。あるいは、祈りがおざなりだからでしょうか。そうなのかもしれません。私たちは、一所懸命、信仰の備えをしようともします。悔い改めも深めようとします。祈りを真実のものにしようとします。けれども、私たちは、いつも中途半端なのです。だから、自分でそれをとらえようとしても、とらえることができない。 それでも、私たちは、礼拝をささげている中の一瞬に、天が開かれたような思いを与えられることがあるのではないでしょうか。聖霊がこの群れに降って来たと信じられる一瞬があるのではないでしょうか。「わたしは神に愛されている」と知る一瞬があるのではないでしょうか。思い込みでなく、確かにあるのです。 なぜ、そういうことが、私たちの経験に起こるのでしょうか。主イエスが祈っていてくださるからです。主イエスは、洗礼を受けて祈っておられた。そのときから、私たちが皆、洗礼を受けた者としての歩みを真実にされ、神の御心に適う生き方へと導かれるために、祈り続けてくださっているのです。 主イエスが祈っていてくださる。私たちは、そのことを、礼拝の中で、なかでも聖餐式の中で、確かめさせていただくのです。礼拝の中で、聖餐にあずかる中で、天が開かれることを心に憶える。聖霊が降ってくることを信じて、「あなたは神の愛する子」と告げられていることを思い起こさせていただく。主の御名による洗礼を受けた私たちは、主が祈っていてくださることを信じて、すでに神の子とされた者としての歩みへと一歩一歩踏み出させていただくのです。 祈り 主よ。主の洗礼にあずからせていただき感謝します。天を開いてくださったことを憶え、洗礼を受けた者にふさわしい歩みへと導き出してください。アーメン
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