印刷用PDFA4版2頁

主日礼拝説教「御言葉に従うならば」

日本基督教団藤沢教会 2007114

 

13翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。14モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。15モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。16彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。17モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。18あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。19わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、20彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。21あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。22平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。23もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」24モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、25全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。26こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。

27しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。    (出エジプト記 181327節)

 

1イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。2イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。3そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。4話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。5シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。6そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。7そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。8これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。9とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。10シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」11そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。                  (ルカによる福音書 5章1〜11節)

神の言葉を聞こうとして…

今日、皆さんは、礼拝に何を期待して来られたでしょうか。

皆さんの中には、讃美歌を歌うことを楽しみに礼拝に来られた方がいらっしゃるでしょう。その中には、賛美歌集が『讃美歌21』になって以来、どこか礼拝が期待はずれであるような思いを味わわれている方があるかも知れません。

皆さんの中には、礼拝で祈りのときを過ごそうと来られた方もいらっしゃるでしょう。主の祈り、詩編の言葉、司会者やその他の奉仕者の祈り、そのような祈りに導かれながら、この一時間半ほどの時間を、週に一度だけどうにか確保する自分の祈りのときにしようと思われて、ここにいらっしゃるかも知れません。

また、皆さんの中には、説教を聴くことを楽しみにして礼拝に来られた方もいらっしゃるでしょう。説教の善し悪しはともかく、説教の時間に、聖書の御言葉を黙想し、自分自身に語られる言葉として聴き取ろうとなさって、ここにいらっしゃる。日々の生活の中で負い続けなければならない労苦を慰めてくれる御言葉、さらに新しい一週間を歩み始める力を与えてくれる御言葉を、このとき、必死に聴き取ろうとなさって、ここにいらっしゃる。そのことのために、そのことを為し得ることを期待して、礼拝に来られた方が、ここにはいらっしゃるでしょう。いや、私たちは、本当は皆、そのことをこそ期待して、礼拝に集っているのです。

今日、牧師は、いつものように、説教をするために壇上の席に座りました。そして、今現に、説教をするために説教卓の後ろに立っています。しかし、もしも、礼拝が始まっているのに、だれも壇上の説教者の席に座る者がいない、今日の礼拝は説教なしだ、ということになったら、皆さんはどうなさるでしょうか。三十分も早く礼拝が終わるから良かった、と思われるでしょうか。それとも、説教のない礼拝など礼拝ではないと、他の教会の礼拝に大急ぎで向かわれるでしょうか。

説教を通して、私たちは皆、神の言葉を聞こうとしています。説教を聴く皆さんだけでなく、説教を語る牧師も、説教を通して、神の言葉を聞き取ろうとしています。私たちは、そのために礼拝に集っているからです。もちろん、神の言葉を聞き取るのは、説教を通してだけではありません。聖書朗読や説教はもちろん、賛美、祈り、詩編の交読、また聖餐や献金など一つ一つの営みを通してどうにか神の言葉を聞き取ろうとしているのです。神が私たちに告げてくださる言葉を聞き取ろうとして、私たちは、共に集い、礼拝をささげているのです。

今日の御言葉、ルカ福音書5章は、神の言葉を聞こうとして主イエスの周りに押し寄せてきていた群衆がいたことから語り始められています。

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た…。(1~3)

多くの人々が、その信仰の有り様はともかく、神の言葉を求めて主イエスのもとを訪れてきていたのです。そして、主イエスは、群衆を避けるようにして、漁師に頼んで舟に乗り込み、舟の中から群衆に語り始められたのでした。そのようにして、彼ら群衆は、主イエス直々に導いてくださる礼拝にあずかり、主イエスによって神の御言葉を聴くという幸いを与えられていたのです。

「沖に漕ぎ出して…」

このときのように、今、この礼拝堂で、主イエスご自身が神の言葉を語ってくださったならば、私たちは、何時間でも喜んで耳を傾けるかも知れません。あの湖畔に集まっていた群衆も、いつまでも主イエスの言葉に、耳を傾け続けたに違いありません。しかし、いずれは、主イエスが語るのを終えられるときが来ます。そして、主イエスが話し終えたとき、人々は、きっと満たされて帰っていったでしょう。「礼拝はおわった」と晴れ晴れした気持ちで家路についたのでしょう。

ところが、このとき、主イエスのもとに残された者がありました。舟の持ち主である漁師のシモンです。彼は、喜んで主イエスのもとに押し寄せてきていた群衆とは違います。徹夜の漁を終えて、しかも全く漁獲を得ることができずに徒労に終わった虚しさを押し殺しながら、後かたづけをしているところで、主イエスに頼まれて舟を出したのでした。シモンがそのようにしたのは、すでに主イエスと知り合いになっていたからでしょう。しかも彼は、しばらく前に、高熱で苦しんでいるしゅうとめを癒やしていただき、恩義があったのです(4:38~39)。仕事を終えて疲れ切っていても、主イエスの頼みを無碍に断れない理由がありました。けれども、主イエスのために舟を出した彼は、主イエスの話し終えるのを、今か今かと待っていたのに違いないのです。主イエスが御言葉を語られる礼拝のための奉仕だから、それは黙って我慢するけれども、それが終わったら、一刻も早く陸に上がり、家に帰って休みたいと、シモンは思っていたのに違いありません。

そのシモンに、主イエスは、あろうことか、さらに用事を告げたのです。

話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた(4)

一週間の仕事を終えて、疲れ切って、しかし奉仕があるからとどうにか転がり込んだ日曜日の礼拝を終えて、その上でなお奉仕を求められたら、皆さんならばどうなさるのでしょうか。しかし、主イエスがシモンに告げられた用事は、むしろ、シモンの日々の仕事そのものでした。主イエスは、礼拝の場から、日常の生活の場、仕事場へと戻っていくシモンに、その仕事の仕方を指示なさったのです。

それに対して、「お言葉ですが、先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが…(5節)」と、シモンは応じます。当然の反応です。神のこと、信仰のことならともかく、漁のこと、この世の仕事のことは、自分のほうが良く分かっている。苦労も自分で負っている。先生とはいえ、素人が口を出さないでもらいたい。

シモンのそのような気持ちを、主イエスが分からなかったはずはありません。けれども、主イエスは告げられたのです、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。沖に漕ぎ出しなさい、深みに乗りだしなさい、苦労の多い現実の深みに行きなさい、と。いや、しかし、シモンは、今までどおりに、沖に漕ぎ出すように告げられているのではありません。シモンが漕ぎ出すように言われているその舟には、だれあろう主イエスがすでに乗っておられるのです。主イエスが、シモンの舟にすでに乗り込まれていて、そして、一緒に沖に漕ぎ出そう、あなたの苦労の多い現実の深みに進み行こうと、シモンに告げておられるのです。

「しかし、お言葉ですから…」

「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」…(5~7)

シモンは、言いかけた反論を引っ込めて、主イエスの告げる言葉に従います。そして、その結果は、舟が沈みそうになるほどの大漁を与えられた、そしてシモンは主イエスの御業に深く畏れを抱いたと、聖書は物語ります。

この世の現実のことへと御言葉によって導かれて行くことを、私たちは躊躇しがちです。聖書の教えに対して「お言葉ですが…」と反論し、自分自身の経験や知恵に頼った判断を下すのです。「お言葉ですから…してみましょう」という決断を、私たちは、なかなかできないのです。聖書が恵みを約束していても、どうしても「お言葉ですから…してみましょう」と言えないのです。自分の経験や知恵に基づいて得る利益に満足しているほうが良いように思っているのです。

シモンは、なぜ、「しかし、お言葉ですから…」と言うことができたのでしょうか。おそらく彼は、従っても大きな利益を得られるとは思っていなかった。少なくとも半信半疑だった。それでも彼は、「お言葉ですから…してみましょう」とこたえて、沖に漕ぎ出していった。そして、その結果、彼の想像をはるかに超えた大きな恵みの出来事を経験することになったのです。それはしかし、ただ主イエスが共に舟に乗っていてくださることによって導かれた経験であったのではないでしょうか。彼はそのとき、思わず「わたしから離れてください」と訴えます。主イエスが共にいて神の恵みの出来事をもたらしてくださるということは、恐ろしいことだからです。人の知恵や経験を超えた出来事を主イエスはもたらされるからです。けれども、その主イエスは告げられます、「恐れることはない」。

私たちは、この世から礼拝へと招き集められ、神の言葉を聞き、そして再びこの世へと遣わされていきます。そのとき主イエスは、私たちより先に、私たちが漕ぎ出していくべき舟に乗ってくださっているのです。この世へと出て行ったとき、神の言葉に従って生きたならば、私たちの経験や知恵が役に立たず、予測できない出来事に出くわすかも知れない。けれども、そこで主は、「恐れることはない」と告げてくださる。私たちがいかに歩むべきか、先んじて歩んで見せてくださる。そこに、私たちの想像をはるかに超えた神の恵みを約束してくださる。そう確信できなくても、それでも、傍らに主イエスがいてくださることを信じて、語ってみることができるのです。「しかし、お言葉ですから…してみましょう」。

そこから始まる歩みがあります。この世の現実の中で主イエスが共に歩んでくださる、信仰の歩みがあります。御言葉に触れて、その御言葉をただ主イエスのゆえに肯定して、従ってみる歩みです。私たち一人ひとりが、そのような歩みへと招かれています。主イエスは、先に舟に乗り込まれて、岸から少し漕ぎ出され、会堂の外で、私たちをご自身の歩まれる道へと、招いてくださっているのです。

 

祈り

主なる神。主ご自身が御言葉を語ってください。主が傍らにいてくださるので、御言葉に従ってみます。日々、神の恵みを見る者とならせてください。アーメン