印刷用PDFA4版2頁

主日礼拝説教「だれよりもたくさん」

日本基督教団藤沢教会 2007128

1七月二十一日に、主の言葉が、預言者ハガイを通して臨んだ。2「ユダの総督シャルティエルの子ゼルバベルと大祭司ヨツァダクの子ヨシュア、および民の残りの者に告げなさい。

3 お前たち、残った者のうち 誰が、昔の栄光のときのこの神殿を見たか。

今、お前たちが見ている様は何か。

目に映るのは無に等しいものではないか。

4 今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと 主は言われる。

大祭司ヨツァダクの子ヨシュアよ、勇気を出せ。

国の民は皆、勇気を出せ、と主は言われる。

働け、わたしはお前たちと共にいると 万軍の主は言われる。

5 ここに、お前たちがエジプトを出たとき

わたしがお前たちと結んだ契約がある。

わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。

恐れてはならない。

6 まことに、万軍の主はこう言われる。

わたしは、間もなくもう一度 天と地を、海と陸地を揺り動かす。

7 諸国の民をことごとく揺り動かし 諸国のすべての民の財宝をもたらし

この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。

8 銀はわたしのもの、金もわたしのものと

万軍の主は言われる。

9 この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると

万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と

万軍の主は言われる。                       (ハガイ書 2章1〜9節)

 

1イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。2そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、3言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。4あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

5ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

 (ルカによる福音書 21章1〜9節)

やもめの献金

「やもめの献金」。私たちに与えられた福音書の御言葉の語る最初の物語です。

主イエスが弟子たちと共にエルサレムの神殿の境内に入られ、人々と議論を交わしていたときのことです。主イエス一行は、献金を入れるための賽銭箱が設置された場所にいました。人々は、献金を持ってきては、祭司に献金の額と目的を告げて賽銭箱に入れていくのです。祭司は、告げられた献金の額と目的を復唱します。とりわけ多額の献金が入れられたときには、大きな声で名前も告げるのです。もちろん、金持ちばかりが献金をしたわけではありません。庶民も貧しい者も皆、分に応じた献金を入れに来ました。けれども、誰もが祭司の告げる声に促されて、多額の献金を入れる金持ちたちにばかり目を向けさせられていたのも確かでした。そのような中で、庶民や貧しい者は、金持ちたちの陰に隠れるようにして、大急ぎで献金を済ませて帰って行っていたのかも知れません。

主イエスは、そのような金持ちたちの献金ばかりが目立つ様子を、目を上げて御覧になられていました。ところが、そのような中で主イエスは、一人の貧しいやもめに目を向けられたのです。そして、やもめがレプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れるのを見て、言われたのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(3~4)

レプトン銅貨二枚。それは、労働者が一日働いて与えられる賃金の六十分の一よりも少ない額です。私たちの感覚では、せいぜい百円か二百円程度。軽い一食のつもりでパンと牛乳を買ったら終わりです。やもめのその日の食事代だったのかも知れません。財布の中には、それしかなかったのでしょう。それを財布から取り出し、全部入れて、立ち去っていったやもめの姿を見て、主イエスは、「だれよりもたくさん入れた」と、弟子たちや人々に告げられたのでした。

主イエスは、このやもめの献金を褒めていらっしゃると、私たちは考えます。確かに、金持ちたちと比較して、このやもめの献金を評価していらっしゃるのです。実際の額の多少が問題なのではない、この人は持っている生活費を全部入れたから、だれよりもたくさん入れたのだと、主イエスは、言われるのです。

私たちもしばしば、献金は額の多少が問題なのではなく、その心が大切だと言います。このやもめは、自分の生活の全部を神に差し出し、委ねる思いで、乏しい中から全部を献金した。そのような献金の心が大切なのだ、と。もちろん、そのとおりでしょう。けれども、主イエスは、本当に、このやもめの献金の心を褒められたのでしょうか。それならば、なぜ、このとき主は、やもめに声をかけて、「あなたの献金の心は見上げたものだ」と告げてくださらなかったのでしょうか。

ある人は、このやもめは非常に明るい表情で献金をささげに来て、アッケラカンとして銅貨二枚を賽銭箱に入れて、帰っていったのではないかと解説します。

私の子どもの頃のことです。家の近くの小さな教会に通っていました。毎週、教会学校の礼拝に来るのは、数組の兄弟たちでした。その中に、熱心に通ってくるのだけれども、礼拝中にいつもおしゃべりをしている女の子がいました。その女の子は、献金になると、自分の財布をひっくり返して、中に入っているお金を全部、献金かごに入れるのです。私は、子ども心に、その女の子の大胆な献金の仕方に、いつもある種の敬意さえ抱いていました。ところが、あるとき、初老の女性牧師が、献金を終えた後に、たまりかねたように、こう言ったのです。「お財布の中身を全部献金しても、心がこもっていなければ、意味がありませんよ。」

貧しいやもめが、子どものように自分の財布をひっくり返して、中に入っていたレプトン銅貨二枚を賽銭箱に入れた、とは思いません。けれども、もしかして、それに近いような振る舞いを、やもめがしたということも、あり得るのではないでしょうか。だからこそ、このやもめの献金は、主イエスや人々の目に入ってきたのです。金持ちの献金ばかりが目立つ賽銭箱の前で、貧しい人たちは皆、目立たないように、隠れるようにして献金を入れて立ち去っていた。けれども、このやもめは、ある意味で堂々と、自分の財布の中身の全部を賽銭箱に入れて、立ち去っていった。想像を逞しくすれば、そのとき、このやもめは、笑いながら「今日の食事は抜きだ」ぐらいのことを言い残していったのかもしれません。

 

金持ちたちへの主イエスの眼差し

貧しいやもめの献金に、ケチをつけるつもりはありません。むしろ、主イエスは、そのような様子だったからこそ、この貧しいやもめに目を留められ、「だれよりもたくさん入れた」と、人々に告げられたのではないかと思うのです。と言うのは、主イエスは、このとき、献金の模範となる人を探して、賽銭箱の周りの様子を御覧になられていたのではないからです。ルカ福音書は、こう物語ります。

主イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。

主イエスは、目を上げて、金持ちたちの姿を見ておられた。そのように描かれる主イエスの眼差しを、どのように想像されるでしょう。厳しい、裁くような眼差しでしょうか。それとも、蔑むような眼差しでしょうか。私は、このときの主イエスの眼差しは、深い憐れみと愛に満ちたものだったのではないかと想像するのです。それは、ルカ福音書がここで、目を上げてという語を用いているからです。ルカ福音書は、この語を用いて主イエスが目を上げられるお姿を描いてきました。五千人の群衆に食べ物を与えるために、五つのパンと二匹の魚を取って、天を仰いで讃美の祈りを唱えられたときの、天を仰いでいる主イエスの眼差しです(9:16)。徴税人ザアカイが、エリコの町にやってきた主イエスを一目見ようと木に登って待っていたとき、木の上のザアカイを見上げて呼びかけられた主イエスの眼差しです(19:5)。その同じ眼差しで、主イエスは金持ちたちを御覧になられていた。それは、深い憐れみと愛に満ちた眼差しだったのに違いありません。

私は想像で言うのですが、金持ちであれば人生の苦労が少なくて済むというわけではないでしょう。むしろ、多くの人が語るように、多くの財産を所有していれば、生活の中で、人生の中で、その分だけたくさんの事柄に心を砕かなければならなくなる、ということがあるのではないでしょうか。初めから財産を持たなければ、日々の衣食住以上のことをあれこれと考え、心砕く必要はないのです。

主イエスが目を上げて御覧になられていた金持ちたちも、多くの事柄に心を用いなければならない生活、そのような人生を送っていたのかも知れません。だからこそ、主イエスは、深い憐れみと愛をもって、彼らに目を向けられていたのです。彼らは、もちろんたくさんの献金を入れたでしょう。貧しいやもめの何百倍、何千倍という献金をしていたかもしれません。レプトン銅貨二枚を入れた貧しいやもめは、たかだかそれだけの献金が、神殿でどのように用いられるかなど、気にもしなかったかも知れません。けれども、金持ちたちは、そうはいきません。自分が入れた多額の献金が、神殿でどのように用いられるのか、彼らは無関心ではいられなかったでしょう。彼らの献金で、神殿には、ますます見事な石が積まれ、奉納物が飾られたのです。神殿に詣でてくる人々は皆、その見事な石と奉納物の飾られているところを見てゆくのです。神への感謝と信頼の証しとして献げ、自分で心砕く必要のないものとしたはずの献金なのに、ますます立派に造営される神殿でどのように用いられるのか、無関心でいることが許されなくなっているのです。金持ちたちにとっては、神への献金さえ、この世で用いる財産のように心砕き続けなければならないものになっていたのです。

主イエスは、そのような彼らを見上げ、深い憐れみと愛をもって見ておられた。そのような中に現れたのが、あの貧しいやもめだったのです。そのやもめの姿の中に、神への献金を純粋に感謝と信頼の証しとして行い、それゆえに明るく素朴に、アッケラカンとしていられる信仰者の生き方を見るようにと、主イエスは告げられたのではないでしょうか。

 

「だれよりもたくさん」

主イエスは、今も、私たちの献金を陰ながら御覧くださって、「だれよりもたくさん入れた」と言ってくださっているのです。「乏しく必要なものしか持たない中から、生活の全部を、神にゆだね、献げている」と言ってくださっているのです。そして、私たちの献げるものによって、あの、お約束くださった《新しい神殿》を、ますます豊かにお建てくださっているのです。主イエスが、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハ2:19)と言われて約束してくださった、復活のキリストの御体という神殿。使徒パウロが、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」(Tコリ6:19)と言い表した神殿です。

私たちは、新たな思いで献金を、また自分自身を、献げたいと思います。《新しい神殿》の主であるキリストご自身が、私たちの献げる献金を、また私たちの生活や人生すべてを、豊かに用いてくださいます。「だれよりもたくさん入れた」。私たち自身が乏しく、貧しくとも、私たちは、愛と恵みに満ちたキリストの御体のうちに用いられて、だれよりも豊かなものとしていただけるのです。

 

祈り

主なる神。私どもの献げる心を自由にしてください。主の御体の働きに用いられる豊かさへと、生活と人生のすべてをゆだねる者とならせてください。アーメン