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主日礼拝説教「いやされて帰る」

日本基督教団藤沢教会 2007211

1またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。2主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。3主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」

4サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。5手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」

6主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」

7サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。8ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。

9彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と言ったが、10ヨブは答えた。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

     (ヨブ記 2110

 

12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

17ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。18すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。19しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。20イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。21ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」22イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。23『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。24人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。25その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。26人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。            (ルカによる福音書 51226

主の御前で…

今日、皆さんは、どのような思いで、教会に足を運ばれたのでしょうか。一週間の歩みを終えて今、どのような心持ちで、礼拝に集われているのでしょうか。

「いやしていただきたい」。私たちの多くは、この思いを心の内に持ちながら日曜日を迎え、礼拝に集っているかも知れません。この世での歩みの中で弱り、痛み、傷つき、疲れてしまった心と身体を、私たちは、神の前に差し出して、いやしていただきたい。キリストの御手に触れていただきたい。そのような思いを抱きながら、私たちは集ってきているのではないでしょうか。すでに信仰者として歩んできた者も、そうでない者も、心の奥底にあるそのような思いに突き動かされて、ここに集ってきているのではないでしょうか。

けれども、私はいつも不安に思うことがあります。「いやし」を求めて日曜日ごとにここに集われている皆さんが、もしかすると、毎週、十分にいやされることなく、ここから再びこの世へと送り帰されてしまっているのではないか、と。

二十世紀を生きたスイスの牧師ヴァルター・リュティが、『あなたの日曜日』という小さな本の中でこのように述べているところがあります。「“人の手によって造られた宮”に集まるたびに地上の会衆は、目に映るところから、自分たちの礼拝がひどくみすぼらしいと思わずにいられません。そうです。日曜日ごとに説教壇の上や下で行われている事がらや、行われずにいる事がらがいかに首を傾けざるを得ないものかと思うと、正直な話、とても不安で落ち着いていられません。ああ、私たちの礼拝は、実際いつだって、心から安堵してほっとできるものではありません。…ああ、私たちの礼拝の雰囲気は、時おり気分をさわやかにするどころか、窒息してしまいそうです。…主なる神よ、どうか私たちの教会堂や礼拝堂に、窓でも開けてください。もしもそのために必要なら、壁を半分にするなり、教会の屋根を壊すなりなさってください。どうか天上の空気を送り込んでください。新鮮で、自由で、強烈な天上の空気を。」(103)

私たちの礼拝堂は、かび臭い匂いはしないかも知れません。窓もたくさん開いているかも知れません。けれども、やはり耳の痛い言葉です。しかし、リュティが続けて記す言葉にも、私たちは耳を傾けてみたいのです。「しかし、地上で礼拝を祝う私たち人間がどんなに首を傾けざるを得ないものであるとしても、第四の戒めから私たちは次のようなことを聞かされます。すなわち、日曜日は地上で始められて天上に至るのではなく、逆に、天上でまず起こり、ここ地上の私たち人間のもとに降ろされてくるのだと。神が天上で祝われるからこそ、私たちもこの下なるところで祝わされるのです。そうです、いわば、天使や聖徒たちが神の御前でささげる礼拝こそが本来の主たる礼拝であり、またそうであり続けます。天のかなたで神が休息し、祝い、祝福し、完成しておられるのです。…」(104)

教会に集わされている私たちは、目に見えているものに惑わされることなく、今ここですでに、天上の天使らと共に神の御前に立たせていただいていることに心向けたいと思います。そして、心の内に携えてきた「いやしてください」という思いを御前に差し出し、キリストに受けとめていただきたいと思うのです。

「主よ、御心ならば…」

主イエスのいやしの御業に目を向けましょう。そこに、私たちをいやしてくださる主のお姿があるからです。

イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい、清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。(12~13)

主イエスの御前にひれ伏したこの人は、「主よ、御心ならば…」と願います。私たちは、病気を治してもらうために病院に行って、医者を前に、「先生のお気持ちがあれば、私を治していただくことができます」などと言うでしょうか。単に「私の病気を治してください」と願うのではないでしょうか。医者の気持ち次第で治してもらえたり、治してもらえなかったり、などということがあってはならないと考えます。仮に担当の医者に治療する気がないようであれば、他の医者を探すでしょう。けれども、何人もの医者に診てもらっても治らず、最後の最後にたどり着いた医者に、藁をもつかむ思いで「どうか、治して欲しい」と願うときには、このように願うのかも知れません。「先生、先生のお気持ち次第です」。

「最後の神頼み」という言葉は、あまり良い意味では使われないかも知れません。しかし、本当の最後に神に頼らなくて、どうしようと言うのでしょうか。私たちに本当に必要なのは、自分自身で手に入れられる程度の慰めではありません。誰か他の人に要求して得られる程度の満足ではありません。本当に必要なのは、何者によっても得られない真実のいやしです。神だけがお与えくださる、キリストだけが伝えてくださる、決定的ないやしなのです。そのようないやしを願うとするならば、私たちも、「主よ、御心ならば」と願うしかないのではないでしょうか。そのように願う私たちに、主は、御手を差し伸べて触れてくださるのです。

 

「あなたの罪は赦された」

たくさんの人が、主イエスに触れていただき、病気をいやしていただこうと願いました。けれども、だれもが主イエスの御前にまで近づき、御手に触れていただくことができたわけではありません。もちろん、噂は知っていても、疑って、端から願わなかった者もあったでしょう。そうでなくても、近くまで進みながら、最後の一歩を踏み出せないでいた人もあったでしょう。しかしまた、自分自身で主イエスの御前に近づいていく術を持たない人も、あったでありましょう。

…すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。(17~20)

この中風の人が、主イエスにいやしていただくことを願っていたのかどうか、分かりません。けれども、この人の友人たちは、そのことを願いました。主イエスのいやしの力を信じて、この中風の友を主の前まで運び、そこに置いたのです。御手の届くところまで病の友を連れて行ったのです。この物語を聴くたびに、伝道とは何をすることか思い至らされます。友を主イエスの前に連れ行くのです。私たちも皆、だれか先輩信仰者に連れられて、主の前に立つことを知るようになったのです。何も教える言葉を持たなくても、気の利いた配慮ができなくても、それだけでよいのです。ただ、一人の人を主イエスの前に連れ行くこと、その妨げになることを全力で取り除くこと。そこに、主は、信仰を見てくださるのです。

あなたの罪は赦された」。主イエスの御手の届くところに置かれた中風の人に告げられた言葉です。私たちも、教会の交わりの中で、繰り返し互いに、主の言葉として告げ続けなければならない言葉です。この言葉を、主イエスにいやしてもらうことを求めなかったファリサイ派の人々や律法学者たちは、神に対する冒涜だと考えました。確かに、それは人間が勝手に語ることのできない言葉です。それは、最後の決定的ないやしの宣言だからです。救いの宣言だからです。私たちが、天上の天使たちの礼拝と無関係に勝手な礼拝を行っているとしたら、天上のキリストと無関係に勝手な教会を造り上げているとしたら、ここで私たちは、この言葉を告げることは許されない。けれども、私たちは、天上を写し出すキリストの教会の中で、主のこの言葉に触れることが許されているのです。私たちは、この言葉を聴いてもらうために、友を教会に連れ行き、主の御前に運ぶのです。

「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。(24~25)

主は、「あなたの罪は赦された」と告げてくださり、最後決定的ないやしをなさってくださる。に帰すためです。一週間の間に、心と身体を弱らせ、痛めつけ、傷つけ、疲れさせたかもしれない、この世の生活のに帰ることができるように、主は私たちをいやしてくださるのです。もうそこで、弱り、痛み、傷つき、疲れてしまうことがないように、罪の赦しを宣言してくださるのです。

私たちは、相変わらず今週の歩みでも、この世ので、弱り、痛み、傷つき、疲れてしまうかも知れません。けれども、だからこそ、今日ここで、キリストの教会の礼拝で、主のいやしの御手に触れていただくことを心から願って、主の御前に近づいていただきたい。一人では主の御前に進み出ることのできないならば、ただ、友に担がれ運ばれて、主の御前に置かれるのでもよいのです。ここで、共にキリストにいやされて、この世の生活、この世のに、私たちは帰されて行く。そして、また来週には再び主の御前に集められるのです。天上にいらして、一つ一つの教会に御手を伸ばしてくださっているキリストが、一人一人に触れてくださっていることを、私たちはここで繰り返し確かめることが許されているのです。

 

祈り

主なる神。御子が天上から御手を伸ばして教会を導いてください。ここで主の御手に触れ、いやされ、罪赦されて、この世の生活に帰らせてください。アーメン