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主日礼拝説教「誘惑を受けるとき」

日本基督教団藤沢教会 2007225

10あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、11自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、12あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。13あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。14他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。15あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。

16あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。17あなたたちの神、主が命じられた戒めと定めと掟をよく守り、18主の目にかなう正しいことを行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、主があなたの先祖に誓われた良い土地に入って、それを取り、19主が約束されたとおり、あなたの前から敵をことごとく追い払うことができる。                     (申命記 61019節)

 

1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。5更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」8イエスはお答えになった。

「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』

と書いてある。」

9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10というのは、こう書いてあるからだ。

『神はあなたのために天使たちに命じて、

あなたをしっかり守らせる。』

11また、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、

天使たちは手であなたを支える。』」

12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。 

(ルカによる福音書 4113

受難節の生活

教会の伝統的な暦では、先週の水曜日から「受難節」に入りました。主イエスの十字架に向かわれた道行きをおぼえてすごす期節です。主の復活を祝うイースターの前に、日曜日を除いて四十日間をこの期節に充てる習慣から、受難節はイースターの七週前の水曜日から始められます。その水曜日のことを伝統的に「灰の水曜日」と呼んできました。「灰の水曜日」は、私たちの属する教団でも公式の教会暦の一つに数えられているものですが、平日に当たるからでしょうか、あまり知られてもいませんし、実際におぼえられることも少ないようです。けれども、「受難節」の始まりを告げる「灰の水曜日」の意義を大切に考える人たちの間では、伝統的にこの日に行われてきた「灰の式」という礼拝が守られています。

「灰の式」では、礼拝の最後に、木片を燃やした灰が、参列者の額に十字に付けられます。旧約聖書の中で、灰の中に身を置くことは、悔い改めの表現の一つです。このときに、キリスト者は、灰を額につけられて、各自深いところで自分の罪と向き合い、悔い改めを新たにしてすごすように導かれてきたのです。

そのようにして始められることもある「受難節」を、私たちは四十日間すごします。古くは、もう一つの悔い改めの表現である断食をしながら(もっとも、肉食を断つなどの部分的な断食だったようですが)、四十日間がすごされてきました。主イエスが四十日間荒れ野で断食をされたことに倣って行われてきたのです。

今日でも、断食とまで言わなくても、克己の思いをもって、受難節の間の節制を実践する人たちがいます。この期節だけはと禁酒禁煙を実行したりするのです。お酒も煙草もしない人であれば、甘いものを断つというようなことを実行するかもしれません。もちろん、ただ我慢するというのではなかなか貫徹できないので、それを我慢して浮いたお金を、受難節の終わりに「克己献金」と呼んで献げることを目標にしたりするのです。いずれにしても、受難節の四十日間を、多くのキリスト者が、自分の中にあるささやかな誘惑と戦いながらすごしてきました。

皆さんは、そのようなささやかな誘惑と戦う克己の生活を実行してみたいと思われるでしょうか。そのような実践は無意味だと考えられるでしょうか。

 

荒れ野の誘惑

受難節の四十日間の由来である主イエスの荒れ野の出来事は、主が断食をしてすごされた出来事であるとともに、悪魔から誘惑を受けられた出来事として、福音書に伝えられています。

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。(1~2)

ルカ福音書の語り方から考えると、主イエスが悪魔から受けられた誘惑は、よく知られた三つの誘惑だけではなかったようにも思われます。もちろん、三つの誘惑は、いわば悪魔の誘惑のクライマックスです。だからこそ、主イエスは、ご自身のこの経験を、三つの誘惑を受けた出来事として弟子たちに語られ、それゆえに私たちもこの主イエスのご経験を知ることが許されているのです。

それにしても、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた四十日間、主イエスは、どのような誘惑を受けられていたのでしょうか。私は、この四十日間に主イエスが受けられた悪魔からの誘惑には、私たちが経験する本当にささやかな誘惑と同じものも含まれていたのではないかと思うのです。「あれが食べたい」、「これが欲しい」、「こうしたい」、「ああしたい」、というような、私たちの中から湧き出てくる欲求です。それを満たしたいという誘惑が、私たちの中にはいつも湧き起こってきます。私たち自身の心の奥深いところに巣くっている悪魔が、私たちの心の中で、「それを満たして、満足したらどうだ」と誘惑してきます。そのような、私たちの心の中で起こっている悪魔の誘惑を、主イエスは、ご自身の肉の身体の内で確かめられたのではないでしょうか。主イエスは、最後の晩餐の席で、弟子たちに向かって、「あなたがたは、わたしが種々の試練(=誘惑)に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」(ルカ22:28)と言われました。主は、悪魔の誘惑を受ける経験を弟子たちと共有してくださる方なのです。私たちも、自分の受ける小さなささやかな誘惑さえも、主が共に受けとめて、戦ってくださるのだと信じて歩みたいと思うのです。

そうではあるのですけれども、主イエスがご自身の経験として弟子たちに語られたのは、そのような種々雑多な悪魔の誘惑についてではなく、あの三つの誘惑を受けられたことについてでした。それは、やはり、そこにこそ、最終的徹底的に退けなければならない、手強い悪魔の誘惑があるからではないでしょうか。

主イエスご自身、そうお考えになられたのだと思います。主は、この荒れ野の出来事に向かわれる前、聖霊に満たされていました。ヨハネから洗礼を受けられ、「あなたはわたしの愛する子」という天からの声を聞かれ、まさに神の御子としての歩みを人々の前に顕わになさろうとしていたときでした。充実した信仰のうちを歩み始められたそのときに、しかし、荒れ野の中を霊によって引き回され…悪魔から誘惑を受けられたというのです。

私たちにも経験のあることです。信仰が充実していると感じているとき、教会に対する熱い思いが湧いているとき、私たちは、必ずしも素直な思いで神に信頼し、平安にすごせているとは限らないのです。むしろ、そのようなときに、私たちは、実りの見えない不毛の地に迷い込ませられてしまうことがあります。神を求めているつもりでいるのに、むしろ、神の霊に振り回され、不毛の地を引き回されている、というような経験をさせられることがあります。そして、そのような中で、私たちは、信仰者として生きている自覚を強く持ちながら、むしろそれゆえに、手強い悪魔からの誘惑に絡み取られてしまうことがあるのです。

 

「神の子なら…」

主イエスが荒れ野で受けられた三つの誘惑は、パンの誘惑、権力と繁栄の誘惑、栄誉の誘惑、と言い表してもよいかもしれません。マタイ福音書とルカ福音書が、順序は違いますが、ほぼ一致して伝えています。私たちは、その三つの誘惑を、聖書の御言葉どおり繰り返し味わい、主の示される解答、誘惑を退ける道筋を確かめたいと思います。受難節の歩みは、そのような営みに集中する歩みにしたいと願います。しかし、今は、一つのことに共に目を向けたいと思うのです。

主が弟子たちに経験を語られた三つの誘惑です。その誘惑の手強さは、ここで悪魔が繰り返す、共通の言葉遣いの中にあると、多くの人が指摘します。悪魔は、主イエスに向かって、こう語るのです。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3)もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」(6~7)「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(9)

「神の子なら…」。悪魔は、神の子としての本質を問うのです。神の子としての信仰の有り様を問うのです。「神の子なら何ができるのだ」、と。

同様にして、悪魔は、私たちにも問いかけているのです。「信仰、信仰と言うが、あなたが信仰者だというのなら、あのこともできるはずではないか。このこともできるはずではないか。信仰などと回りくどいことを言わなくても、この世のことは、この世のできる者に頭を下げて教えてもらったらどうだ」、と。

私たちは、「自分のしたいことができる」ことを欲する者です。この世の考えに従えば、「自分のしたいことができる」能力を自分の責任で身につけて実行するのが、この世の生き方であると言ってもよいでしょう。この世で生きていくために、私たちは、どれだけたくさんの資格や能力を身につけなければならないかと思います。それがこの世を支配している価値観なのですから仕方ありません。

しかし、私たちは、信仰においてさえ、そのような価値観で物事を考えてしまっているのではないでしょうか。信仰者として、教会に連なる者として、ここそこで、「自分のしたいことができる」ことを欲するのです。

これは悪魔の誘惑だと、主イエスは弟子たちに教えられたのです。「したいことができる」ことを求めるのは、信仰をねじ曲げる悪魔の誘惑だ、というのです。

五千人に食事をお与えになることのおできになる主イエスが、このときはパンを得ようとされませんでした。自分で「できる」ことは、信仰とは無関係だからです。後の教会を通して世界の国々さえ支配することがおできになった主イエスが、このときは権力も繁栄も得ようとされませんでした。自分で「できる」ことは、神とは無関係だからです。復活させられて天にお昇りになることがおできになった主イエスが、このときは、屋根から飛び降りて神の助けを引き出そうとなさいませんでした。自分で「できる」ことは、真の神信仰とは無関係だからです。

主が教えられたのは、神にできないことは何一つない(1:37)ということ、人間にはできないことも、神にはできる(18:27)ということです。私たちの「できる」をではなく、神の「できる」のみを、どこまでも信頼する。それが、十字架に死なれた主の信仰です。私たちが主に結びついて得させていただく信仰です。

 

祈り

主よ。悪魔の誘惑を見極める信仰の目をお与えください。主が退けられた悪魔の誘惑から離れさせてください。主の信仰の道に従わせてください。アーメン