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受難節第2主日礼拝説教「キリストの言葉に守られる」 日本基督教団藤沢教会 2007年3月4日 11この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。12神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。13神はノアに言われた。 「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。14あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。 15次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、16箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。 17見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。 18わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。19また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。20それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。21更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」22ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。 (創世記 6章11〜22節) 14イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。15しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、16イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。17しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。18あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。19わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。20しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。21強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。22しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。23わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」 24「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。25そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。26そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」 27イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」28しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 (ルカによる福音書 11章14〜28節) 「悪霊」を追い出す 主イエスの十字架への道行きをおぼえつつ、悔い改めと克己に思いを集中する受難節。その歩みの前半を、私たちは、特に「悪」に目を向けながら、御言葉の導きに耳を傾けています。 ルカによる福音書11章14節以下は、マタイやマルコ福音書でも伝えられている、「ベルゼブル論争」として知られる出来事から、物語り始められています。 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。(14節) 主イエスの為されたお働きの中でも、悪霊を追い出すというお働きは、繰り返し行われた、重要なお働きであったようです。各福音書は、カファルナウムの会堂での出来事(ルカ4:33~36)、ゲラサ人の出来事(ルカ8:26~39)など、さまざまな事例を示しながら、主イエスが人々の悪霊を追い出されていたことを伝えています。 悪霊を追い出すとか、悪魔を追い出すなどというと、私たちは、もしかすると、迷信の世界の出来事を聞かされているように思うかもしれません。それは、かつては人々の間で現実感のある出来事であったかもしれないけれども、現代世界に生きる私たちにとっては、過去のものに過ぎない、というわけです。けれども、今テレビなどを賑わせている世に言う霊能者やスピリチャル・カウンセラーらはどうなのでしょうか。あまり目くじらを立てて言うつもりはありませんが、「そういったものは娯楽に過ぎない」と、単純に片づけてよいものでしょうか。若い世代を中心に、知らず知らずのうちに、彼らのような物言いや物の考え方が浸透しているのです。迷信だから無害だ、娯楽だから無害だ、とは言えないのです。 聖書の語る「悪霊」は、取りついた人の口を利けなくしたり、異常な行動を引き起こさせたりするものとして描かれます。ところで、この「悪霊」と訳されている語(ギリシア語でダイモニオン)の元の意味は、善悪を問わず人間の心理精神に外から働きかけて変化を引き起こさせる力を指していると言われます。例えば、古代ギリシアの哲学者ソクラテスには、しばしばダイモニオンのお告げというものがあったと伝えられます。悪霊に取りつかれるというのは、人の心や精神、理性や知性が、何者かに支配され、縛られている状態を指しているのです。 多くの説教者たちが、今日私たちに取り付いてくるもっとも厄介な悪霊は、「時代精神」とでもいうべきものだと言います。「時代の風潮」「世の価値観」と言ってもよいかもしれません。もちろん、そのようなものは、どの時代にもあったでしょう。けれども、今日ほど、それが深刻に広く浸透している時代はない、というのです。情報があふれ、無自覚な内に価値観を植え込まれ、私たちは、心も精神も、理性も知性も、いつの間にか、この世俗世界に取り込まれ、縛られ、支配されているところがあるのです。しかし、それは、善の支配でしょうか、正義の支配でしょうか。それは、むしろ、私たちの間に悲惨な現実をもたらす支配であることを、私たちは、日々知らされているのです。 主イエスが、なぜ、あれ程までに悪霊を追い出すことを熱心になさったのか、そしてまた弟子たちにも悪霊を追い出す権能をお与えになったのか、今日に生きる私たちこそ、真正面から受けとめなければならないのかもしれません。 「神の指」 悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。(14節) 悪霊の縛りから解放されて、口の利けない人がものを言い始めます。口の利けない人が自由にものを言い始める。それは、どれほどすばらしいことであったかと思います。私たちは、どうでしょうか。私たちの多くは、言葉に不自由をしていないかもしれません。けれども、私たちは、本当の意味で自由に、悪霊の支配から解放されて、ものを言っているのでしょうか。私たちの語る言葉は、しばしば、頑なな言葉です。この世の価値観に支配された言葉です。人を裁く自己本位な言葉です。そのような言葉を語り得ているからと言って、私たちは、本当に自由に、悪霊の支配から解放されて、ものを言っている、と言えるのでしょうか。 主イエスは、人の語る言葉を解放されます。他の人々が聞くならば驚かされるような、自由な言葉を語りうるようにしてくださるというのです。 …わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(15~20節) 意外に思うかもしれませんが、苦しんでいる人々から悪霊を追い出していたのは、主イエスだけではなかったようです。むしろ、主イエスは、すでに多くの人が実践していた悪霊祓いを、ある意味で認められています。その上で、主は、苦しんでいる人々を解放するご自身の御業の中に、悪霊祓いを位置づけるのです。 「わたしは、神の指で悪霊を追い出している」。主イエスは、そう言われます。神の指。聖書の中では珍しい表現です。神の御業は、多くの場合、「指」ではなく「御手」の働きとして語られるのです。けれども、旧約聖書の出エジプト記を開くと、非常に興味深いところで、神の指ということが語られています。 一つは、モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出そうとしたとき、十の災いがエジプトにもたらされますが、その中で、ファラオの魔術師たちが思わず「これは神の指の働きでございます」(出8:15)と語った場面です。神の強い御手が働いていると言うには、あまりに小さな出来事であったので、彼ら魔術師は、「神の指の働き」と言ったのかもしれません。しかし、神は、その指先をお使いになられて、私たちの日常的な小さな出来事の中にまで入ってこられる。いや、私たちの、もしかしたら隠そうとしている心の奥底、自分でも気づいていないかもしれない心の奥深いところにまで、その指を伸ばして触れてこられるのです。 もう一つは、モーセがシナイ山に登って十の戒めの記された石を授けていただいた場面です。出エジプト記は、その石の板を、「神の指で記された石の板」(出31:18)と言い表しています。私たち人間の読み書きする文字が記されることは、神がその指先でなさることのおできになるような事柄です。神の御業としては、小さくて、取るに足りないことかもしれません。と言うよりも、私たちは、むしろ逆に、「そういう文字を記すというようなことは、神が為さってくださらなくても、自分でやりますよ」と言ってしまうのかもしれません。けれども、神は、ご自身の指を動かされて、人の文字を神の言葉としてくださるのです。 「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスの悪霊祓い。それは、神の指の御業が人の中で起こることです。神は、私たちの中の小さな事柄までも触れられ、見逃されないのです。主イエスは、そのことを私たちにお示しになられます。 「神の言葉を聞き、それを守る」 …汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。(22~26節) 悪霊を追い出していただき、私たちの心や精神、理性も知性も解放されたならば、私たちは、自由です。けれども、主イエスは、私たちに警告なさいます。「悪を取り除いていただいたら、そこを空き家にしておいてはいけない。さもなくば、そこには再び悪が入り込み、前よりも悪い状態にしてしまうだろう」と。 私たちは、私たちの悪を取り除くためにお働きくださっている神を、本当に知らなければなりません。神の指となってお働きくださった御子キリストを、はっきりと自分の内に迎える、そして、虎視眈々として再び入り込もうとしてくる悪霊に付け入る隙を見せないようにするのです。私たちの中の、小さな小部屋ひとつひとつの扉を開けて、悪霊を追い出していただき、キリストにお住まいいただくようにするのです。 それは、もちろん、神ご自身が私たちのためになさってくださることです。それでも、私たちに為すべきことがないわけではありません。主イエスは、この出来事の終わりに、「なんと幸いなことでしょう」と主をほめたたえた女に向かって、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と告げられました。神の指となってお働きくださるキリストは、何よりも御言葉として私たちの中に住まわれるのです。悪霊の言葉を取り除き、神の言葉、主の言葉を、私たちの生きるに必要な言葉としてくださるのです。 私たちの口には、まだ悪い言葉が出てきます。悲しいかな、悪霊に支配されて自由を奪われた言葉ばかりが出てきます。「あんなこと言わなければよかった」と後悔しない日はありません。けれども、それでも、私たちは、開き直らないで祈りたいと思います。私たちの中にいまだに支配力を持っている悪霊を、キリストによって追い出していただくのです。「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈るように教えてくださった主イエスを、その御言葉と共に、私たちの心の奥深いところまで、どこまでも、迎え入れさせていただくのです。キリストご自身が、その御言葉によって、私たちを必ず悪から守ってくださるからです。 祈り 主なる神。私どもの心の奥深いところから、悪霊を追い出してください。主がおいでくださり、御言葉をもって私ども一人一人をご支配ください。アーメン
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