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受難節第3主日礼拝説教「命を救う道」 日本基督教団藤沢教会 2007年3月11日 7 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を 主がわたしたちに賜ったすべてのことを 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み 憐れみと豊かな慈しみを。 8 主は言われた 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。 そして主は彼らの救い主となられた。 9 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。 10 しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。 主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。 11 そのとき、主の民は思い起こした 昔の日々を、モーセを。 どこにおられるのか その群れを飼う者を海から導き出された方は。 どこにおられるのか 聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。 12 主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ 民の前で海を二つに分け とこしえの名声を得られた。 13 主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが 彼らは荒れ野を行く馬のように つまずくこともなかった。 14 谷間に下りて行く家畜のように 主の霊は彼らを憩わせられた。 このようにあなたは御自分の民を導き 輝く名声を得られた。 (イザヤ書 63章7〜14節) 18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」 21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。25人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。26わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。27確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」 (ルカによる福音書 9章18〜27節) 祈られている 十字架への道を進み行かれる主イエスに目を注ぐとき、私たちは、(当たり前のことかもしれませんが)主が祈っておられるお姿に気づかされます。 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた(18節)。 主イエスが一人、祈っておられます。そして、その傍らには、弟子たちが、祈りには加わらずに、控えているのです。想像すると、少し不思議な光景です。なぜ、弟子たちは主イエスと共に祈っていないのでしょうか。 主と弟子たちです。弟子たちが祈りを学ぶ機会があるとすれば、主が祈られるときに、そこに加えていただくのが何よりも良い機会ではないかと思います。確かに、弟子たちは、あるときには、主イエスが祈りを終えられるのを待って、「わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と願い、あの「主の祈り」をお教えいただいたのです。そのような機会は、一回きりではなかったでしょう。何度も、主が祈り方を弟子たちに口移しで教えられたことがあったに違いありません。 ところが、福音書がしばしば伝えるのは、そのような祈りの教室の情景ではありません。主イエスお一人が祈っておられて、弟子たちは、主が祈っておられるのを知っていながら、祈りには加わらずにいる。あるいは、別のことをしている。それが、福音書が繰り返し伝える情景なのです。 福音書はなぜ、そのような主イエスお一人が祈っておられる情景を、繰り返し伝えるのでしょうか。それはもちろん、主が祈りの人でいらっしゃったからでありましょう。主は、父なる神に真実、祈り続ける方でいらっしゃったに違いありません。そのような方の真実の祈りに、弟子たちはついて行くことができなかった、だから、主はお一人で祈っておられた。そういうことではないでしょうか。 しかしまた、そのような主イエスの孤独な祈りがなされていることを心に留めて、初代の教会で語り伝えたのは、だれあろう弟子たちでした。彼らは、主イエスがお一人で祈っておられたそのときには、その祈りについて行けなかったのかもしれません。もしかしたら、そのときには、ただ、「先生の祈りが始まったから、邪魔をしないように、静かにしていよう」程度のことしか考えもしなかったかもしれません。ところが、弟子たちは、あるとき、気づいたのではないでしょうか。主がお一人で祈り続けておられるのは、ただご自身のためなのではない、自分たち弟子の一人一人のために、主は孤独に祈ってくださっているのだ、と。 不思議なことですが、私たちは、自分で熱心に祈りの生活を追い求めているときに、必ずしも信仰者としての実りを得られるわけではありません。むしろ、私たちが経験して知っているのは、私たちの親しい家族や友が祈りに覚えていてくれているときにこそ、期待以上の信仰の実りを与えられることがある、ということです。使徒パウロがしばしば、教会に宛てた手紙の中で、「わたしのために祈ってください」と願っているのは、まさに、そういう経験に基づいてのことです。皆さんのために祈る役割も与えられている牧師が、教会の皆さんに、控えめながら「牧師のために祈ってください」と願わなければならないのは、教会員の祈りに支えられていない牧師の働きほど惨めなものはないと、知っているからです。 主イエスは、弟子たちに囲まれながら、弟子たちのために祈っていられた。その主イエスの祈りに支えられて、弟子たちは、信仰を導かれたのです。 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです」。(20節) 神からのメシア=キリスト。マタイによる福音書によれば、主イエスは、このように答えたペトロに、「あなたは幸いだ」(マタ16:17)と告げてくださった。ペトロがその言葉をどのように理解していたかは分かりません。けれども、主は、そのような言葉を語ることができたペトロに、信仰者の幸いを見てくださったのです。主イエスの祈りに支えられるとき、主の祈りの守りに素直に自分の身をゆだねるとき、私たちもまた、信仰者としての幸い、信仰の実りを、得させていただく機会を与えられるのです。 「自分を捨て、自分の十字架を背負って」 「神からのメシア=キリストです」。ペトロの答えは、ある意味で、私たちがすでに知っている答えです。「イエスは私たちの主、キリストです」と、私たちの多くは、すでに告白しています。「主イエス・キリスト」と呼ぶとき、私たちは、そのことを告白しながら、そう呼んでいるのです。 ところが、主イエスは、このとき、弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて(21節)、十字架に至る受難と復活の予告をなさいました。神からのメシア=キリストである方が、多くの苦しみを受け、人々から排斥され、殺される、というのです。他の福音書によれば、そのとき弟子のペトロは、主イエスの発言を諫めようとして、逆に、「サタン、引き下がれ」(マタ16:23)と叱責されたのです。ペトロには気の毒ですが、主イエスがここで告げられていることは、それほど、異常なこと、尋常でないことだったのです。 神からのメシアである主イエス・キリストが、多くの苦しみを受けられ、人々から排斥されて、十字架に殺される、そして三日目に復活させられる。このことを、私たちは、すでに教えられて知っていること、信じていることとして、当たり前に考えているかもしれません。しかし、それは、本当に私たちにとって当たり前のことなのでしょうか。教理としてはそのとおりだと信じていても、私たちは、本当の意味でそのことを心から信じているのでしょうか。ペトロのように、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタ16:22)と思う心がないと言えるでしょうか。何となれば、主イエスは、続けて、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)と告げていられるのです。主イエスが多くの苦しみを受け、人々から排斥され、殺される、という十字架への道を歩まれたのであれば、自分の十字架を背負って主に従う私たちも、同じように、多くの苦しみを受け、人々から排斥され、殺される、ということではないのでしょうか。そうだとすれば、私たちは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはちょっと困ります」と思う心がないなどと、どうして言えるでしょうか。 私たちは、そのような、主に従いきれないでいる自分の思いを、正直に打ち明けるべきではないかと思います。主の十字架と復活を、あまりにきれいな出来事にしてしまってはいけないと思います。本当は、主の十字架とは、とんでもないことなのです。神からのメシアであろうと、だれであろうと、多くの苦しみを受け、人々から排斥され、殺される、などということが、あってはならないのです。その、とんでもないこと、あってはならないことを、主イエスは、ご自身に神から課せられた杯として、受けられたのです。それは、人の思いからは理解できないことです。主イエスに示していただかなければ、分かり得ないことなのです。 ルカ福音書は、主の十字架への受難の道行きを拒もうとしたペトロの様子を、ここに語り伝えていません。その代わりに、最後の晩餐の席で主がペトロに語った憐れみ深い言葉を、伝えています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31~32)。 主イエスは、ペトロを、弟子たちを、私たちを、その間違いを指摘して、叱責なさるかもしれません。けれども、主は、私たちのために、信仰が無くならないように、祈ってくださっているのです。たとえ、自分を捨て、自分の十字架を背負って、主に従うという、信仰者としての生き方に挫折することがあっても、「そんなことがあってはなりません」と、主の導きを拒むことがあっても、主は、私たちのために祈っていてくださるのです。ご自身が十字架を経てしるしづけられた復活に至る道筋、本当の意味で自分の命を救う道筋に、最後には、私たち皆が立ち帰る者とされるためです。 命を救う 自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、主イエスに従う。私たちは、あらためてこのことの意味を、深く思い巡らして過ごしたいと思います。 主は、言われます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(24~25節)。私たちの主イエス・キリストの神は、人が一人でも滅びることを望まれない方です。自分の命を捨てる者を、滅ぼされずに救われる方です。自分の十字架を背負って主の道に従う者をキリストと共に命を救う復活に至らせてくださる方です。 主イエスは、その祈りをもって、私たちを命に至る主の道筋に立ち帰らせてくださいます。私たちは、主に祈られています。教会は、主に祈られていることを知る者の群れとして、共に主の道に従い続ける歩みを許されているのです。 祈り 主なる神。祈ってくださる主の内に留まらせてください。十字架に向かう主の道に従う勇気を与えてください。主の命に至る道を確信させてください。アーメン
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