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受難節第5主日礼拝説教「あってはならないこと」

日本基督教団藤沢教会 2007325

1 なにゆえ、独りで座っているのか 人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか

多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか 国々の姫君であったこの都が。

2 夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。

3 貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き 異国の民の中に座り、憩いは得られず 苦難のはざまに追い詰められてしまった。

4 シオンに上る道は嘆く 祭りに集う人がもはやいないのを。

シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。

5 シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し

苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり 苦しめる者らの前を、引かれて行った。

6 栄光はことごとくおとめシオンを去りその君侯らは野の鹿となった。青草を求めたが得られず疲れ果ててなお、追い立てられてゆく。

7 エルサレムは心に留める 貧しく放浪の旅に出た日を いにしえから彼女のものであった 宝物のすべてを。

苦しめる者らの手に落ちた彼女の民を 助ける者はない。絶えゆくさまを見て、彼らは笑っている。

8 エルサレムは罪に罪を重ね笑いものになった。恥があばかれたので 重んじてくれた者にも軽んじられる。彼女は呻きつつ身を引く。

9 衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。落ちぶれたさまは驚くばかり。慰める者はない。

「御覧ください、主よ わたしの惨めさを、敵の驕りを。」

10 宝物のすべてに敵は手を伸ばした。彼女は見た、異国の民が聖所を侵すのを。聖なる集会に連なることを 主に禁じられた者らが。

11 彼女の民は皆、パンを求めて呻く。宝物を食べ物に換えて命をつなごうとする。

「御覧ください、主よ わたしのむさぼるさまを見てください。」

12 道行く人よ、心して 目を留めよ、よく見よ。これほどの痛みがあったろうか。

わたしを責めるこの痛み 主がついに怒ってわたしを懲らす この痛みほどの。

13 主は高い天から火を送り わたしの骨に火を下し 足もとに網を投げてわたしを引き倒し 荒廃にまかせ、ひねもす病み衰えさせる。

14 背いたわたしの罪は御手に束ねられ 軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ

力尽きてわたしは倒れ 刃向かうこともできない敵の手に 引き渡されてしまった。 (哀歌 1114節)

 

9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。   (ルカによる福音書 20919

ぶどう園と農夫のたとえ

イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。(9)

今日与えられた御言葉は、「ぶどう園と農夫のたとえ」として知られる物語。主イエスの公生涯を同じような視点から伝えるマタイ、マルコ、ルカの共観福音書が共通して伝えている物語です。その意味では、このたとえ話の物語は、主イエスのご生涯を理解する上で大変重要なものである言えるかもしれません。

「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た…」(9~)

難しいたとえ話ではありません。ある地主が、自分の土地にぶどう園を造成します。自分自身で栽培するためではありません。小作農に貸して、ぶどうを栽培させるためです。自分の造成したぶどう園を、そのまま農夫たちに貸し与えてしまい、管理から何から全て委ねてしまうのです。一方、自分自身は、普段は、ぶどう園にいる必要がありませんから、大都市の快適な家で過ごすのです。そして、収穫の季節になれば、契約を結んだときの取り決めに従って、地代として収穫の何割かを受け取ります。この時代、多くの地主がそうした不在地主でした。

ぶどう園の主人は、農夫たちにぶどう園を貸し与えると、長い旅に出てしまいます。「長い旅に出たと訳されている語は、「国民から離れている」というのが元来の意味です。主人は、ぶどう園からも農夫たちからも遠く離れたところに、まるで隠れるように住んだというのです。農夫たちは、普段は、主人のことを気にすることなく、自分たちのぶどう栽培に励むことができたに違いありません。

ところが、このことがかえって、事態を思わぬ不幸な結果に導くのです。

収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。…(10~12)

普段、主人の目を気にせずに自由気ままに、しかし自分自身の働きの手応えを感じながら、ぶどう栽培に励んでいた農夫たち。彼らが、主人のことを思い出させられる時が来たのです。ぶどう園は主人の持ち物なのですから、借りている農夫たちが、その収穫を地代として収めるのは当然です。けれども、農夫たちは、素直に収穫を収めないのです。彼らは、主人が送り込んだ僕を、次々に追い返してしまいます。収めるべき収穫を渡さないばかりか、袋だたきにし、侮辱し、傷を負わせてと、次第に暴力をエスカレートさせて、僕たちを送り返したのです。

主イエスの時代には、実際に、こんな滅茶苦茶なことが起こっていたのでしょうか。ところが、たとえ話の主人は、まるで事態を深刻に考えていないかのように、今度は自分の息子を、農夫たちのもとに送り込むのです。

そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』(13)

結末は、主人の期待を完全に裏切る、不幸な事態となります。

農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』…(14~15)

この時代、ぶどう園の相続人がいなくなれば、それは実際に耕作している小作農たちのものになる、ということが認められていたようです。そこで、農夫たちは相談して、跡取り息子を殺害することにします。自分たちが丹誠込めて世話しているぶどう園を、名実ともに我がものにするためです。殺してしまうというのは物騒な話ですが、農夫たちには勝算がありました。実際に手を下した者が殺人の罪を問われたとしても、残りの農夫たちやその家族にとっては、豊かな実りを得られるぶどう園が手に入るのです。無頼の者にでも報酬を与えて殺させれば、自分たちは痛くもかゆくもないのです。

けれども、彼ら農夫は、一つだけ計算違いをしていました。息子を送り込んだぶどう園の主人は、まだ元気に生きていたのです。跡取りが死んでも、本来のぶどう園の所有者である主人は、まだ生きていたのです。

さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。(15~16)

農夫たちは、計算違いをしていました。ぶどう園の主人は、遠く離れていて、もはや死んだも同然だと思っていたのです。生きているにしても、もはや自分たちのところに自ら赴いてくることなどあり得ないと思っていたのです。しかし、それは計算違いでした。愛する息子を送り込んだ主人は、今でも生きていて、最後には自らぶどう園に赴き、事の決着を付けることができる存在だったのです。

 

「そんなことがあってはなりません」

この「ぶどう園と農夫のたとえ」で主イエスが告げようとしていらっしゃることは、明白なようです。主人は父なる神、ぶどう園は神の民あるいはイスラエル、農夫たちはユダヤの宗教指導者たち、らは旧約の預言者たち、そして愛する息子とは御子イエス・キリストのこと。かつて預言者たちが、そして今は神の御子が、ユダヤの宗教指導者たちに妬まれ、拒まれ、十字架に付けられて殺されることを、主イエスご自身がたとえ話によって告げていらっしゃるのです。

確かにここでは、主イエスが弟子たちに向かってあからさまにご自身の受難を告げられたときのような反応を、民衆は示します。主イエスが受難の死を告げられたとき、弟子のペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタ16:22)と言って、かえって主イエスに叱責されたと伝えられています。「ぶどう園と農夫のたとえ」を聞かされた民衆も、ここで、すかさず、「そんなことがあってはなりません」(16)と反応しているのです。いくら何でも、主人の息子が小作人の農夫たちに殺されるというような不道徳なことがあってはならない。もしくは、そのようなことが予測される状況の中に息子が丸腰で送り出されるようなことがあってはならない。たとえ話を聞いた人々は、そのように思って、「そんなことがあってはなりません」と言ったかもしれません。

けれどもまた、このたとえ話は、ユダヤ人とその宗教指導者たちに対する神の裁きを告げているのだとも説明されます。「ユダヤ人は昔から、神から遣わされてくる者を袋だたきにし、侮辱し、傷を負わせてきたし、今も、蔑ろにして殺そうとしている。だから神は、そのようなユダヤ人を裁き、退け、異邦人をご自身の民となさろうとしている。」主イエスのたとえ話をそのような神の裁きを告げる言葉として聞いた人々は、「とんでもない。そんなことがあってはなりません」と吐き捨てたかもしれません。彼らもユダヤ人だったからです。そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとした(19)と伝えられているとおりです。

しかしながら、また、「そんなことがあってはなりません」と反応した人々の中には、あるいはもっと深く、主イエスの告げられることの意味を受けとめた人がいたのではないでしょうか。人は、信仰者として生きていても、常に神を近くに感じて生活しているとは限りません。「主人である神は、遠くにいらして、当分お出でになることはない。日々の生活は、自分たちに委ねられている。だとしたら、自分たちにとって最善の、利益を最大にできる方法を、自分たちの決断で選び取って、何が悪い。」神の存在を知っていながら、それを遠い存在として蔑ろにし、日々の生活の中では自分こそを主人のように考えて歩んでいる自分の姿に気づかされた人が、たとえ話を聞いた人たちの中にいたのではないでしょうか。そして、自分の信仰生活の中に「そんなことがあってはなりません」と、思わず口にしないではいられなくなった人がいたのではないでしょうか。主イエスのたとえ話を聞いて、自分自身の信仰者としての罪深さ、傲慢さを打ち砕かれ、自分の罪の重さに押しつぶされる思いになった者が、いたのではないでしょうか。

 

主イエスに見つめられている

イエスは彼らを見つめて言われた。(17節)

このときの主イエスの眼差しに、私たちはハッとさせられます。ルカ福音書は、特別な語を用いて、主イエスの人々を見つめられる眼差しを伝えているのです。それは、あのペトロが、逮捕された主イエスとの関係を否定したときに、鶏の鳴く声とともに気づかされた、主イエスの眼差しです。「主は振り向いてペトロを見つめられた」(22:61)。ペトロは、この主イエスの眼差しの中で、打ち砕かれ、自分の罪の重さに押しつぶされて、涙をもって深く悔いさせられたのです。

主イエスは、人々から捨てられ、十字架に死なれました。その十字架に死なれた主イエスが、私たちの信仰者としての土台、隅の親石となられたのです。私たちの傲慢を打ち砕いてくださり、罪の重さを思い知らせてくださり、そのようにして私たちを、まことに神を近くに生きています主とする信仰者へと造りかえてくださる。そして、ご自身と共に、神の子として生きる道へと導いてくださる。そのことのために、主イエスは、十字架に死なれたのです。

私たちは、ただ、十字架に死なれた主イエスの御言葉と、その深い眼差しの中に留まらせていただくのです。

 

祈り

主なる神。私どもはあってはならないことを繰り返してきた者です。どうか、打ち砕いてください。十字架の御子の眼差しの中に留まらせてください。アーメン