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棕櫚の主日礼拝説教「赦しの祈り」 日本基督教団藤沢教会 2007年4月1日 1 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。 わたしの救いが実現し わたしの恵みの業が現れるのは間近い。 2 いかに幸いなことか、このように行う人 それを固く守る人の子は。 安息日を守り、それを汚すことのない人 悪事に手をつけないように自戒する人は。 3 主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。 宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。 4 なぜなら、主はこう言われる 宦官が、わたしの安息日を常に守り わたしの望むことを選び わたしの契約を固く守るなら 5 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え 息子、娘を持つにまさる記念の名を わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。 6 また、主のもとに集って来た異邦人が 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり 安息日を守り、それを汚すことなく わたしの契約を固く守るなら 7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。 彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。 8 追い散らされたイスラエルを集める方 主なる神は言われる 既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。 (イザヤ書 56章1~8節) 32ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 44既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。45太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。46イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。47百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。49イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。 (ルカによる福音書 23章32〜49節) 受難週 受難節(レント)最後の主日、《棕櫚の主日》を迎えました。主イエスが十字架につけられた日々を記念する受難週の最初の日、主が子ろばに乗ってエルサレムの人々に迎えられたことを記念する主日です。この日、多くの教会は、かつて人々がシュロ(なつめやし)の枝を持ち、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(ヨハ12:13)と歓呼して主イエスを迎えたことを憶えて、シュロの枝を用いた儀式を行っていることでしょう。私たちも、礼拝の最初の讃美や招きの御言葉によって、この日が棕櫚の主日であることをおぼえ、主の受難週を歩み出したことを、共々に心に刻もうといたしたのです。 受難週に、私たちは、エルサレムに入られた主イエスの十字架と死と葬りにいたる出来事を、一つ一つ辿って行き、あらためてその意味を思い巡らそうとしています。私たちは、一人一人、受難節のあいだに曲がりなりにも罪の悔い改めの祈りに取り組んでまいりました。それを、受難週にいたって、いよいよ集中して行おうとしているのです。多くの教会が、この週の日々に、特別な祈りの会や礼拝を続けて行います。とぎれることなく毎日、祈るために信仰の友が集まってくる教会も、少なくありません。私たちの教会では、洗足木曜日の聖餐礼拝と、受難日の夕礼拝だけが、受難週に定めて行う集いです。けれども、この週にはぜひ毎日、福音書の伝える主のご受難の出来事に耳を傾けたいと願います。かつて弟子たちが主の傍らに置いていただいて見聞きした十字架の出来事を、弟子たちと同じところに立って追体験させていただきながら過ごしたいと願います。 人々はイエスを十字架につけた ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。(32~33節) 十字架で死なれた主イエス。私たちは、今まで何回、このことを聴いてきたでしょうか。もしかすると、今日、初めてキリスト教の教会に来られた方がいらっしゃるかもしれませんが、けれども、そのような方でも、恐らく主イエスが十字架につけられて死なれたことは知っていらっしゃるに違いありません。けれども、そのような方も含めて、私たちは、果たして、主イエスが十字架で死なれたということを、どれほど自分と関係のあることとして、聴いてきたでしょうか。 福音書は、人々がイエスを十字架につけた、と伝えます。もちろん、実際に手を下したのは、ローマの兵士たちです。兵士たちが、死刑の判決を受けた主イエスに十字架を背負わせて刑場まで連行し、他の二人の犯罪人と共に、十字架につけたのです。それでは、彼ら兵士たちに、主イエスの十字架の責任があるのでしょうか。あるいは、彼らに命令した総督ピラトに、責任があるのでしょうか。いや、裁判の席でピラトに死刑を要求したユダヤ人の祭司長たち、議員たちに、十字架の責任があるのでしょうか。イエスを十字架につけた「人々」とは、結局のところ、誰のことなのでしょうか。 主イエスが二人の犯罪人と並んで十字架につけられると、人々は、くじを引いて、イエスの服を分け合います(34節)。民衆は、その様子を立って見つめているばかりです(35節)。ユダヤ人の議員たちは、あざ笑って言います、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれたものなら、自分を救うがよい」(35節)。主イエスを十字架に釘付けにしたローマの兵士たちも、侮辱して言います、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)。そして、主イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の一人も、ののしって言うのです、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)。 「自分が何をしているのか知らないのです」 主イエスは、この「人々」を前にして、十字架上から祈りの言葉を発せられていたと、伝えられています。「十字架上の七言」と呼ばれるものの第一言です。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」 主イエスは、ご自分を十字架につけた「人々」のひどい態度に、腹を立てられるどころか、赦しを祈られました。さすが、我らが主です。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27~28)と教えてくださっていたとおりに、主は最後まで生き抜かれたのです。ひどい態度を示す「人々」の罪が極まった十字架のもとで、主は、父なる神とご自身の、限りない赦しを明らかにされたのです。 もちろん、私たちは、主イエスの十字架につけられているお姿を前にして、まさか自分がこの「人々」のようにひどい態度を取ることはない、と思います。むしろ、私たちは、たとえ極悪非道の犯罪人であっても、たとえ何百万人の市民を虐殺した独裁者であっても、これほどの侮辱を受けながら処刑されてよいとは、考えないでしょう。「盗人にも三分の理」とも言いますし、たとえ犯罪を正当化する理由が何もなくても、侮辱などせずに、せめて無関心を装ってあげるのが最後の慈悲だと思うものです。けれども、それでは、私たちは、主イエスの十字架に目を向け、十字架に死なれる主イエスを間近に見上げようというとき、どのような者として、主の十字架のもとに立っているのでしょうか。 人々の群衆の中には、確かに、あの嘆き悲しみながらついてきていた婦人の弟子たちがいました。私たちは、彼女たちのように、十字架のもとに近づけず、遠くに立って見ているだけなのでしょうか。それとも、あのペトロら十二弟子たちのように、十字架につけられていく主イエスから完全に離れて、そもそも見ないで済ませられるところに立とうとする者なのでしょうか。 恐ろしいことかもしれませんが、私たちは、主イエスの十字架に目を向ければ向けるほど、近づけば近づくほど、主の十字架のもとで、あの「人々」のような者として立っている自分の姿に、気づかされるように思います。遠くから眺めているだけのときには、主の十字架は、心打たれる感傷的な、ある意味で美しい出来事に見えている。けれども、近づいていったとき、主の十字架は、私たちの中にある暗闇を顕わにする存在として迫ってくるのです。主の十字架を間近に見つめるとき、私たちは、本当のところキリストが力ある我らの主であることを認めきっていない自分、信頼しきっていない自分、がいることに気づかされるのです。 「父よ、彼らをお赦しください」 十字架を取り囲んでいた人々は、主イエスが発せられた言葉を聞いていたはずです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」私たちが「十字架上の七言」の一つとして、心に深く刻み込んでいるこの御言葉を、しかし、十字架を取り囲んだ人々は、聞いていながら、無視した。少なくとも、そのときには、主の言葉は、死に行く者の戯言のようにしか、人々には聞かれなかった。何たることかと思いますが、けれども、それは決して他人事ではないのではないでしょうか。 十字架の間近に立って、本当のところキリストの力を認めきっていない自分の姿を顕わにされながら、私たちもまた、あの人々のように、主の十字架上の赦しの祈りの言葉を、本当は、聞き流し、無視してしまっているのではないか。 けれども、だからこそ、私たちは、もっと主の十字架の近くまで近づかなければならないのではないでしょうか。あの「人々」よりももっと近く、あの「二人の犯罪人」と同じところまで近づいて、十字架の主のもとに立たせていただくのではないでしょうか。そして、主を本当のところで信頼し切れていない自分に気づきながらも、それでも、あの主をののしった犯罪人のように、「あなたはメシア、キリストです。ご自分と私たちを救ってください」と、訴えかけることを許されているのではないでしょうか。 主イエスが真ん中に、そして両側に二人の犯罪人が十字架につけられている、ここに最初の教会ができた、と、ある説教者は語ります。二人の犯罪人。その二人のうちの一人だけは、十字架上で主に信頼して「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と語り、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という主の御言葉をいただいた。けれども、この一人だけでなく、ののしりの言葉を浴びせた一人目の犯罪人をも、主イエスは赦しの祈りの中に憶えてくださっていたのに違いありません。 「自分の十字架を背負ってついて来なさい」との主の導きに留まり、主の十字架のもとに近づかせていただきたく思います。自分の十字架を背負いながら、なお自分が何をしているのか知らずにいるこの私たち、本当のところ主に信頼し切れていない私たちを、キリストは赦しの祈りのうちに留め置いてくださるのです。 祈り 主よ。あなたが赦してくださるならば、主の十字架のもとに近づかせてください。主の隣で自分の十字架につけられるところまで近づかせてください。アーメン
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