印刷用PDFA4版2頁

イースター礼拝説教「復活なさった」

日本基督教団藤沢教会 200748

15主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。17しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。18わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

19イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、20エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。21モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。22イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。23エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。24朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。25戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」

26主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」27モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。28水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。29イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。30主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。31イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。             (出エジプト記 141531

 

1そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

              (ルカによる福音書 24112

イースターを喜ぶ

六週間の受難節の期節を過ごして、また受難週の歩みを終えて、私たちは、今年も主イエス・キリストのご復活を記念するイースターを迎えました。聖壇の典礼色も光り輝く永遠の命を表す「白」に掛け替えられました。受難節の期節、悔い改めと克己の期節は終わったのです。今日から、教会は《復活節》、《イースター・シーズン》。罪を見つめ受難節、主イエスの十字架と死を見つめた受難週を通って、私たちは、新しい命に生きるところへと、導き出されてきました。今日からは、聖歌隊の讃美も、会衆讃美も、復活の命、新しい命の喜びを歌うのです。

すべての教会が、このイースターの祝いの日を心待ちにしてきました。いつもの日曜日の朝の礼拝の時間を待ちきれずに、多くの教会が、今日だけはすでに朝早くから、あるいは昨晩から、イースター礼拝を祝っています。クリスマス・イブ礼拝ならぬ、イースター・イブ礼拝です。そのようなイースター礼拝の守り方は、ただ古くからの習慣だから、というだけのことではないのだと思います。キリスト者にとって、イースターは何よりも待ち遠しいときであるはずだからです。

イースター礼拝。それは、古来、未信者が洗礼を受けてキリスト者になるときでした。受難節、中でも受難週の祈りのときを過ごし、主イエスの十字架と共に古い自分を十字架に貼り付けにして死に渡して、イースター礼拝の時に、復活の主に導かれながら新しく生まれる洗礼を授けられる。キリスト者は、そのようにして誕生してきたのです。もちろん、洗礼を受けるのに、良いとき、悪いとき、があるわけではないでしょう。神に備えられたときだと信じるならば、そのときが一番良いときに違いありません。もちろん、ペンテコステ礼拝やクリスマス礼拝で洗礼を授けられることも、喜ばしいことです。けれども、イースター礼拝で洗礼を授けられる習慣もまた、教会にとって意義深いことであると、私たちはもっと良く認識したいと思います。使徒パウロが、こう言っています。

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6:3~4)

イースター礼拝の今日、すでに洗礼を受けている私たちは、原点に立ち返って、思い起こしたいのです。私たちは皆、洗礼を受けることによって、古い自分を葬り、復活のキリストに結ばれた新しい命に生きるようにされているということを。

また、まだ洗礼を受けていらっしゃらない方々にも、私たちは、あらためてお伝えしたいのです。私たちは皆、洗礼を受けることによって、古い自分を葬り、復活のキリストに結ばれた新しい命に生きるようにされるのだということを。

「それにしては、古い自分が、まだずいぶん残っている」。そう思われても、どうぞ後戻りしないでいただきたい。年ごとに受難節を過ごすたびに、私たちは、まだ残っていた古い自分の一部を、十字架の主に導かれて葬ることができたはずだからです。そして、その意味で、年ごとのイースターを迎えるたびに、私たちは、葬ることのできた古い自分の部分に、主にある新しい命が与えられ、新しく生きるようにされていることを、確かめさせていただいているのです。ですから、私たちは皆、今日のイースターに新たに与えられた主にある復活の命を、喜びたいと思います。この私に与えられた新しい命を、今日、私たち一人一人が証しする者でありたいと思います。

 

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」

イースター礼拝。主のご復活を祝う喜びと共に、私たち一人一人の信仰者としての歩みの原点を確かめさせられる礼拝です。

今からおよそ二千年前の、最初のイースターの日。私たちキリスト者のイースター礼拝の原点が、そこにあります。

イースターの日。それは、週の初めの日のこと、つまり日曜日のこと。金曜日の午後に十字架の上で死なれて葬られた主イエスの遺体の納められているはずの墓に、朝早く婦人の弟子たちが赴きました。イースターの物語の始まりです。婦人たちは、墓の入り口の石が転がしてあり、主イエスの遺体が見あたらないことを発見し、そして天使とおぼしき者に出会います。そして、その天使らしき者から、主の復活を告げられる。

ルカによる福音書は、そのときの様子を、マタイやマルコとはやや異なる趣で伝えています。婦人たちは、輝く衣を着た二人の人に出会うのです。輝く衣を着た、と言われているのですから、いわゆる「天使」なのでしょうか。けれども、「天使」だとは言われていません。しかも、どうもこの二人の言葉は「天使」らしくありません。突然現れた二人の人に恐れをいだいて顔を伏せた婦人たちに向かって、二人の人は、いきなり、こう告げるのです。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(5~6)

マタイ福音書では、このとき婦人たちに語りかけたのは「天使」だとはっきり言われていますし、その第一声は「恐れることはない」(マタ28:5)というものでした。マルコ福音書では、「天使」とは言われていませんが、その第一声は、「驚くことはない」(マコ16:6)というものでした。およそ天使であるからには、人間に安心感を与えてくれる言葉をかけてくれるものだという、期待どおりの言葉です。

ところが、ルカ福音書が伝える二人の人の言葉は、およそ婦人たちに安心感を与えようとしているとは思えない口調で語られるのです。どこか厳しい、婦人たちの行動を咎め立てているような口調の言葉です。ある人は、この二人の人は、婦人たちを叱責しているのだとさえ言います。

せっかくのイースターの祝いの朝、私たちはだれも、自分の行動を咎め立てられたり、叱責されたくないと思います。けれども、この二人の人の言葉は、私たち皆、良く聞きたいと思うのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。イースターの祝いにかまけて、私たちは、復活して生きておられる主イエス・キリストを、どこか邪魔にならないところに閉じこめておくようなことをしていないか。死者の中、過去の思い出の中に閉じこめてしまっていないか。

たとえば、今、この礼拝で、一週間閉じられていた聖書が否応なく開かれて、そこで主イエスと出会おうと黙想されている方が、いらっしゃると思います。けれども、礼拝が終わった途端に、墓の入り口を閉めるように聖書をパタンと閉じて、主イエスをその中に閉じこめないでください。主イエス・キリストは、本棚で一週間眠っている聖書の中に閉じこめられている方ではありません。もちろん、聖書の中にも目を向けるのです。婦人たちやペトロらが墓の中に目を向けたように。けれども、「あの方は、ここにはおられない」。なぜなら、復活なさったからです。生きておられるからです。生きて、聖書という本の中から出てこられて、私たちの中に復活の命となって宿ってくださっているからです。

イースターの祝いの中で、またその祝いを終えてなお、私たちは、今も生きておられる主イエスを、自分自身の中で、また私たちの交わりの間で、憶え続ける者でありたいと思います。

 

「思い出しなさい」

婦人たちに対する二人の人の叱責の言葉は、私たちには、復活の約束の言葉です。復活の主イエスと本当に出会い、本当に生きておられることを知り、そして、私たち自身が、復活の主によって与えられる新しい命に、日々新たに生かされていることを確かめる者となるために、私たちは、この言葉を聞くのです。

「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。(6~8)

「主の御言葉を思い出しなさい」と告げられました。婦人たちは、主イエスの言葉を思い出しました。

私たちは、聖書を開いて主の御言葉を思い出します。礼拝で、主イエスの御言葉を思い起こします。けれども、私たちは聖書を閉じた後になお、主の御言葉を思い出すのです。礼拝を終えた後になお、主の御言葉を思い起こすのです。そこから、復活の主イエスと出会う歩みが始まります。そこから、復活の主に与えられる新しい命に生きる歩みが現実になります。そこから、復活の主イエスに結ばれて共に生きる歩みが私たちの生活のすべてになる道が拓かれます。

主のご復活を記念いたします。皆さんお一人お一人の中ですでに始まっているイースターの神秘をお祝いいたします。主イエス・キリストは、私たち生きている者にも死んだ者にも、すべての者に、新しい永遠の命をお与えくださるために、一つの命に連ならせるために、復活なさったのです。

 

祈り

主なる神。主のご復活の神秘に驚かされます。生きておられる主と共に歩む歩みを確かなものとさせてください。復活の主に結び合わせてください。アーメン