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復活節第2主日礼拝説教「分かった」 日本基督教団藤沢教会 2007年4月15日 1エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」2王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」エリシャは言った。「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」3城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いて、互いに言い合った。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。4町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」5夕暮れに、彼らはアラムの陣営に行こうと立ち上がったが、アラムの陣営の外れまで来たところ、そこにはだれもいなかった。6主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、「見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ」と言い合い、7夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。8重い皮膚病を患っている者たちは陣営の外れまで来て、一つの天幕に入り、飲み食いした後、銀、金、衣服を運び出して隠した。彼らはまた戻って来て他の天幕に入り、そこからも運び出して隠した。9彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」10彼らは行って町の門衛を呼び、こう伝えた。「わたしたちはアラムの陣営に行って来ましたが、そこにはだれもいませんでした。そこには人の声もなく、ただ馬やろばがつながれたままで、天幕もそのままでした。」11門衛たちは叫んで、この知らせを中の王家の人々に知らせた。 (列王記下 7章1〜11節) 13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。 (ルカによる福音書 24章13〜35節) エマオへの道 イースターの翌主日の今日。イースターの日の出来事、ある日曜日の出来事を物語る御言葉に耳を傾けています。いわゆる「エマオへの道」の物語です。 最初のイースターの日です。婦人の弟子たちが、主イエスの遺体がおさめられていたはずの墓が空っぽになっていたことを見出し、そこで天使とおぼしき二人の人に告げられた言葉、「あの方は…復活なさったのだ」という言葉を、他の弟子たちに伝えていました。しかし、多くの弟子たちには、そのような話はたわ言のように思われました。真に受けるような話ではないと思われたのです。 そのようなことが話題になっている中で、クレオパという弟子ともう一人の弟子の二人が、エルサレムを離れて、近郊のエマオという村に向かったときに起こった出来事が、この「エマオへの道」の物語です。一度朗読を聴けば、あるいは自分で読んでみれば、すぐに覚えてしまうような分かりやすい物語です。私たちが何度も聞いてきた物語、多くの人が黙想し言葉を尽くして語ってきた物語です。 主イエスが近づいて来られる ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった(13~16節) イースターの日、日曜日、二人の弟子たちは、エマオへの道すがら、主イエスの出来事について語り合っていました。十字架刑について、死について、空っぽの墓について、論じ合っていました。主イエスに関することこそ、彼らの関心の的でした。ところが、そこに復活なさった主イエスが近づいてこられたとき、二人の目は遮られていて、それが主イエスだとは分からなかった、というのです。 この二人の弟子たちは、十二弟子には数えられていませんから、いつも主イエスの間近にいたわけではなかったのかもしれません。それにしても、ずっと主イエスに従っていた弟子たちです。私たちのように、会ったことも見たこともない信者とは違います。どうして主イエスだと分からなかったのか、不思議です。けれども、この物語は、主イエスが分かるかどうかとは、そういうものだと言うのです。たとえ、主イエスの顔や体格や声や考えをよく知っていても、目が遮られていたならば、復活の主のことは分からない、と言うのです。 主イエスは、この二人のことを嘆いて言われました。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(25節)。ずいぶんな言われようです。けれども、このように告げられる主がどこにいらっしゃるのか、そのことが大切なのではないでしょうか。この主は、二人の弟子たちのところに近づいて来られたのです。一緒に歩かれたのです。二人は、その方が主イエスだとは分からないでいたのに、物わかりが悪く、心が鈍く、預言者=聖書の言葉を信じられないでいたのに、その二人の歩むところに主イエスは来られ、語りかけられたのです。そのことに二人が気づいたのは、後になってからでした。そのときの主イエスとの出会いに気づいたのは、後になってからだったのです。 主の復活を記念する。主の復活を信じる。それは、復活なさった主イエスが、生きて出会ってくださることを信じることです。私にもあなたにも、すべての人に、主イエスは生きて近づいて来てくださる。出会ってくださる。心から信じているときだけでなく、たとえ信じられないときでも、聖書の言葉を理解できないときでも、主イエスは、一人ひとりに近づいて出会ってくださる。そのときには、出会ってくださっている主イエスが分からなくても、後から分かるときがくる。イースターの日のエマオへの道の物語は、私たちに、そう約束しているのです。 目的地 この「エマオへの道」の物語は、エマオという目的地を目指した弟子たちの歩みの物語です。目標を掲げて歩み続ける私たちの物語です。 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。(28~29節) 二人の弟子たちと復活の主イエスの一行が目指す村エマオに近づいたときです。そこは、二人の当面の目的地でした。そこに滞在するつもりでした。ところが、主イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった、と福音書は物語るのです。 この場面を描く言葉を、よく聴き取りたいのです。復活の主イエスは、弟子たちと共に歩んでくださる。弟子たちが主のことをきちんと分かっていなくても、それでも主は共に歩んでくださる。そのとき、弟子たちは、自分たちが目的地と定めたところを目指して進み、そこに到着すれば歩みを止めようとします。ところが、主の目指していらっしゃるところは、弟子たちが目的地と定めたところよりも、さらに先なのだというのです。そこがどこだかは分かりません。けれども、主は弟子たちよりもなお先に行こうとなさる。弟子たちは、そのことが分からず、無理に引き止めて、主を自分たちの目的地であるエマオに留め置くことになった。 私たちも、そういうことをするのです。私たちの目指すところよりも、なお先へ行こうとされる主イエスを、無理に引き止めておこうとしてしまう。主イエスが願っていらっしゃること、目指していらっしゃること、主イエスの目的地が、はるかに先にあることを、私たちは分かっていないのです。 けれども、それでは主イエスは、弟子たちを置いて先に行かれたのか、私たちを置いて先に行かれてしまわれるのか。そうではありません。復活の主イエスは、弟子たちの歩調に合わせて、止まってくださる。私たちの歩調に合わせて、立ち止まってくださる。復活の主とは、そういう方なのです。 私たちは、勘違いしてきたかもしれません。私たちの目的地と定めたところが神の御心に適っているから、そこに主は止まってくださったのだ、私たちの目指してきたところが主イエスの目指しておられるところと一致しているから、主はそれ以上先に進もうとなさらないのだ、と。しかし、復活の主は、そうでないときにも、私たちに合わせて止まってくださっているというのです。 主イエスが分かったとき、弟子たちは、もはや、そこに留まりませんでした。そこは本当の自分たちが目指すべき目的地ではないと、分かったのです。そして、時を移さず出発し(33節)たのです。どこが目的地か分からなかったかもしれないけれども、主の目指された目的地へと促されて、弟子たちは出発したのです。 復活の主イエスが分かるとき、そのようにして私たちの歩調に合わせてくださっている復活の主イエスが分かる。そして、そのとき、私たちの歩み方が変わるのです。自分たちの定める目的地ではなく、主イエスの目指されるところへ、どこまでも歩み続ける、出発し直す、そのような歩み方へと変えられるのです。 「本当に主は復活なさった」 イースターの日、日曜日、主の日。教会は、「本当に主は復活なさった」と、このことだけを告げてきました。このことを宣言するためだけに、この宣言を聴き直すためだけに、礼拝を守り続けてきました。復活の主が、エマオへの道を行く二人の弟子たちに近づき、共に歩み、聖書を説き明かしてくださり、そして食事を共にしてくださり、ご自身を弟子たちに分からせてくださった。そのことを信じ続ける群れとして、教会は、「本当に主は復活なさった」と宣言するのです。 主が、この弟子たちの群れを教会としてくださったからです。そのような教会を、私たちの連なるところとしてお与えくださったのです。主イエスが私たちに見えていなくても、信じられなくても、私たちが悲嘆にくれていても、疑いにとらわれていても、私たちは教会に連なる。「本当に主は復活なさった」と告げる教会に連なる。そこで礼拝にあずかる。主イエスが聖書を説き明かしてくださり、食卓に招いてくださる礼拝にあずかる道が、私たちには備えられているのです。 今、礼拝の最中には、主イエスが分からないかもしれません。目が遮られたままかもしれません。けれども、どうぞ、主イエスが始めてくださったこの礼拝に、あずかり続けていただきたい。主は、ここで確かに一人ひとりに近づいて来てくださり、出会ってくださり、語りかけてくださっているのです。一人ひとりの心を燃えさせてくださっているのです。そのことに私たちは、後から気づくのです。復活の主が、今も生きて私たちと共に歩んでいてくださり、ご自身の目指されるところへと私たちの歩みを促してくださっていることが、後から分かってくる。 「目が開け、イエスだと分かった」(31節)。二人の弟子たちの証しが、ここにあります。私たちも受け継ぐ、証しの言葉です。イースターを祝い続ける主の日、日曜日ごとに、いや毎日でも、私たちは、復活の主イエスだと分かったときのことを、互いに証しし続けることが許されています。そして、この群れに連なる私たちは、もはや虚しい目標には惑わされないで、復活の主の目指されるところへと、どこまでも歩み続ける生き方を始めることが許されているのです。 祈り 復活の主よ。私どもに近づいて、出会ってくださいます。主だったと分かるときを備えてくださいます。新たな思いで出発する者とならせてください。アーメン
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