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復活節第3主日礼拝説教
 「真ん中を空けて」

日本基督教団藤沢教会 2007年4月22日

1 わたしに聞け、正しさを求める人
 主を尋ね求める人よ。
 あなたたちが切り出されてきた元の岩
 掘り出された岩穴に目を注げ。
2 あなたたちの父アブラハム
 あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。
 わたしはひとりであった彼を呼び
 彼を祝福して子孫を増やした。
3 主はシオンを慰め
 そのすべての廃虚を慰め
 荒れ野をエデンの園とし
 荒れ地を主の園とされる。
 そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く。
4 わたしの民よ、心してわたしに聞け。
 わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。
 教えはわたしのもとから出る。
 わたしは瞬く間に
 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。
5 わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ
 わたしの腕は諸国の民を裁く。
 島々はわたしに望みをおき
 わたしの腕を待ち望む。
6 天に向かって目を上げ
 下に広がる地を見渡せ。
 天が煙のように消え、地が衣のように朽ち
 地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても
 わたしの救いはとこしえに続き
 わたしの恵みの業が絶えることはない。
                 (イザヤ書 51章1〜6節)


 36こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
 44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
           (ルカによる福音書 24章36〜48節)



「あなたがたに平和があるように」

 二千年前の最初にイースターの日の夕べ。復活なさった主イエスに導かれる教会の歩みが始まりました。弟子たちの集まっていたところに、三日前に十字架の上で死なれた主イエスが現れられたのです。

 もちろん、すでに復活なさった主イエスに出会った弟子たちがいました。イースターの朝早く、主イエスの遺体が葬られているはずの墓を訪れ、そこが空っぽであることを発見した婦人たちの中の一人マグダラのマリアは、その墓の前で泣いていたところで復活なさった主イエスと出会ったと、ヨハネ福音書は伝えています。またルカによる福音書は、その日の恐らく午後、エマオという村に向かっていた二人の弟子たちに現れられたことを伝えています。この二人の弟子たちは、その道すがらはその方が復活なさった主イエスだとは分からなかったのですが、夕べの食事を共にしようとした途端に、その方が主イエスだと分かったのでした。さらに、同じルカ福音書が伝えるところによると、同じ日に、一番弟子のシモン・ペトロのところにも復活なさった主イエスは現れられたのでした(ルカ24:34)。

 復活なさった主イエスが現れられたという自分の体験、あるいはそう聞いた体験談を持ち寄って、弟子たちは、このイースターの日の夕べに、一つの家に集まってきました。そこに、復活なさった主イエスが、戸を開けることもなく現れられて、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです(ルカ24:36、ヨハ20:19)

 「あなたがたがに平和があるように」。恐らく実際には、ユダヤ人の日常用いる言葉で「シャローム」と、主イエスは弟子たちに呼びかけられたのでしょう。それは、当たり前の挨拶の言葉でした。けれども、弟子たちは、それをただいつもどおりの挨拶の言葉とは聞きませんでした。それは、明らかに平和の挨拶として聞かれたのです。「あなたがたに平和があるように」。復活なさった主イエス・キリストは、平和を実現してくださる。そのために、弟子たちの間に、教会の中に、生きて立ってくださる。イースターの日の夕べ、復活なさった主イエスと出会った体験をした弟子たちの群れは、このことを確信したのです。
初代の教会以来、代々の教会は、この確信を受け継いで、しばしば、礼拝の中で「平和の挨拶」を交わしてきました。教会は、復活なさった主イエスが共に歩んでくださっていることを確かめたとき、主の平和の挨拶を聴き直し、お互いに平和の挨拶を交わし合ってきたのです。

 私たちもまた、礼拝の中で「平和の挨拶」を交わさないとしても、教会という群れの歩みの中で、復活なさった主イエスがまず告げてくださったこの言葉、「あなたがたに平和があるように」という言葉を繰り返し聴き直す者でありたいと願います。平和の挨拶を交わし合う交わりに生きる者でありたいと願います。

「まさしくわたしだ」

 復活なさった主イエスが現れられたとき、弟子たちは、まさに復活なさった主と出会った体験について話し合っている最中でした。まさに信仰者らしい交わりを持っているときでした。ところが、そのとき、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った(37節)と、ルカ福音書は伝えます。

 意外な反応のようにも思えますが、案外、私たち信仰者は皆、そのように反応する者なのかもしれません。私たちは、「復活を信じている」と語り、復活なさった主イエスが私たちと共にいてくださると信じているでしょう。少なくとも、そのように語り、信じる教会の礼拝に、今、私たち皆があずかっています。けれども、今、ここで、事実、復活なさった主イエスが現れられたら、私たちも皆、恐れおののき、実体のないものを見ているように思うのかもしれません。

 もっと深く問うてみるならば、こういうことかもしれません。私たちは、「復活を信じている」と語り、復活なさった主イエスが共にいてくださると信じているけれども、それは、実は案外、実体のない観念として言っているだけのことかも知れない。言葉の上だけで、あるいは心の中だけで、そう語り、信じているに過ぎないのかも知れない。だから、事実、復活なさった主イエスに出会う体験をすると、驚くのです。実体のないものと思っていた復活の主イエスと出会い、事実、目に見える存在としてキリストを知ることになったとき、恐れおののくのです。理性が働けば働くほど、それは亡霊を見ているようなもので、自分の勘違いや錯覚なのではないかと、思ってしまうのです。

 しかしながら、主イエスの復活とは、単なる観念の問題、心の問題ではありません。それは、弟子たちや私たちの勘違いや錯覚でもないのです。

 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。…(38〜43節)

 復活なさって弟子たちの間に現れられた主イエスは、ご自分の手足をお見せになられたばかりか、焼いた魚を食べられもします。ここまではっきりと示されれば、いくら疑り深い弟子でも、主の復活を信じない訳はなかったとも思います。

 けれども、また私たちは、こうも思うかもしれません。このときには、復活なさった主イエスが直接弟子たちに現れてくださったからよかった。この弟子たちも、さぞかし確信をもって主の復活を語り、宣教することができただろう。しかし、イースターから四十日後に主イエスが昇天なさった後は、どうだろうか。私たちの時代には、復活の主イエスがあのイースターの日のように現れてくださることはない。だから、このイースターの日の夕べの出来事も、あの弟子たちにとって重要な出来事であったとしても、私たちは、別の形で復活を信じ、語るようになるしかない。私たちは、そのように思っているのではないでしょうか。

 しかしながら、本当にそうなのでしょうか。ここで主イエスが語られた言葉を繰り返し聴き直したいのです。このとき主イエスは、何をお示しになられて「わたしの手」「わたしの足」と言われたのでしょうか。その手や足をお示しになられて、主はなぜ、「まさしくわたしだ」=「これ我なり」(文語訳)と、あえて言われたのでしょうか。

 この主イエスの言葉の響きの中で、一つの教えを思い起こさせられます。マタイ福音書25章が伝える、終末の教えの最後です。羊と山羊が選り分けられるように、人々がその行いによって裁かれるという教えです。そこで、主イエスが言われたのが、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタ25:40)という言葉です。主イエスが、復活なさった方として今も私たちの間に生きて現れて来られるというのは、そういうことなのではないでしょうか。復活なさった主イエスが、「まさしくわたしだ」=「これ我なり」と言って示されるご自身の御体とは、そういうものとして、今も私たちの目の前に、事実見ることができ、触れることができるものとして、差し出されている、ということなのではないでしょうか。

主イエスは真ん中に立ち…

 復活なさった主イエスは、弟子たちの真ん中に立たれます。弟子たちがその真ん中に復活なさった主イエスを迎えたとき、弟子たちの新しい歩みが始まったのです。弟子たちは、その主イエスによって心の目を開かれて、モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄、つまり聖書(しかも旧約聖書)の御言葉を新たに悟らされるようになったのです。

 復活の主イエスに導かれる群れ、教会の歩みは、ここから始まりました。私たちも、この弟子たちのように、復活なさった主イエスを私たちの真ん中に迎えるのです。もちろん、一人ひとりの心の真ん中にも迎えます。そして、それだけでなく、私たちは、この群れの真ん中にも迎えるのです。自分の心や思いや考えの真ん中を自分自身で占めてしまうのではなく、教会の群れの真ん中を私たちの誰かが占めてしまうのではなく、私たちは、真ん中を空けて、明け渡して、復活なさった主イエスの現れてくださるところを用意するのです。そこに、復活の主は、必ず現れてくださる。私たちと同じ手や足のある存在として、食事をする存在として、私たちの間に現れてくださる。私たちは、そこに、「まさしくわたしだ」=「これ我なり」と告げられる主イエスを見、触れ、出会うのです。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中(=真ん中)にいるのである」(マタ18:20)

 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マコ9:36〜37)

 私たちの真ん中を空けて、復活の主を迎えましょう。復活の主は、事実、その御体をもって生きて働き、私たち一人ひとりを、また教会の群れを導いてくださるのです。

祈り
復活の主。今、私どもの真ん中に現れてください。私どもは、あなたの御体を見、そこに触れ、心だけでなく全てにおいてあなたに導かれたく願います。アーメン